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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <愛の喜びを>

2022-03-28 | 箴言

「さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。夫は遠くへ旅に出ていて、家にはいませんから。」(箴言7:18,19新改訳)

この聖句前半を見ると、雅歌書の新婦が新郎に告白している言葉とそっくりである。「さあ、私の愛する方よ。私たちは出て行って、村で夜を過ごしましょう。・・そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」(雅歌7:11,12同)▼しかしここでは、後半部分が恐ろしい。なぜなら、「私の夫は遠くに旅行中で家にいません。だからそのあいだに、愛を楽しみましょう」と言うのだから・・。つまりこの女は、神の定めた男女のあり方を踏みにじり、神に反逆しながら欲望を満たそうとしているのである。実際のところ、彼女の神は欲望という名の神、考えるのは地上の快楽だけ、永遠を心から捨て去っているわけで、その網にかかった若者も同じ心理であった。▼私たち人間が、自分を創造された神を人生に迎えず、その御心を捨てて生きれば、罪の奴隷にされるほかはない。若者は女性と腕を組み、楽しそうに家へ向かって行くが、その本当の姿は屠殺場に引かれて行くあわれな牛であった(22)。無数の現代人もこれと同じ「よみへの道」(27)を歩んでいる。▼高速道路を走っていると、大きなトラックの荷台に幾頭もの牛馬がつながれ載せられ、屠殺場に運ばれて行く光景を見る。おとなしくあたりを見ているが、これから待ち受ける場所と運命を知らないのであろう。彼らと自分を重ね合わせ、生き方を神の前にただす人は幸いである。

 


朝の露 <いのちをつけ狙う>

2022-03-24 | 箴言

「遊女の代償はひとかたまりのパンだが、人妻は尊いいのちをつけ狙うからだ。」(箴言6:26新改訳)

昔から洋の東西、民族や階級の如何を問わず、不倫がもたらす結果ほど悲惨なものはなかったし、今もそうである。マスコミは、有名人などの不倫を面白おかしく取り上げ、スリルいっぱいの「火遊び」のように報道する。そして無意識のうちに無数の人たちを誘惑する。お前もやってみないか?今までに味わったことがない世界を味わえるぜ、と・・・。彼らはその結果がもたらす現実の悲惨な面を見せない。あるいは見せても軽くあしらうだけだ。それに乗せられ、特に若い人たちなどは捕まって行く。だからこういう風潮を作る人たちの罪は重く、やがて神の前に出たとき、さばきを受けることになる。▼旧約聖書には、不倫の結果を刈り取った人たちが出てくる。たとえば族長ルベンは義母ビルハと不義の関係を結び、長子の権を失った(創世記35:22)。人も知るダビデの姦淫は、後々までメシアの家系に暗い陰を落とした。涙の悔い改めと神のあわれみにより、ゆるされはしたが、以後のダビデ家には骨肉の争いが次々に起き、苦しみが絶えなかったのである(Ⅱサムエル11章以下)。▼この罪から救われるには、真の知恵すなわちイエス・キリストを信じて新しく生まれ変わり、御霊と共に歩むことしかない。パウロがガラテヤの人々に「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(ガラテヤ5:16同) と勧めたとおりである。救いにあずかり、新生したキリスト者には絶えず御聖霊の声が聞こえる。聞こえるというより、聖なる御霊のお気持ちが敏感に伝わってくるといったほうがよいであろう。その結果、このお方を憂えしめ、悲しませてはならないとの強い心が生じ、罪から離れた生活に導かれて行くのである。▼主の御警告に耳を傾けよう。「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22、23同)

 


朝の露 <あなたの終わりに>

2022-03-23 | 箴言

「そして、あなたの終わりにあなたはうめく。あなたの肉とからだが滅びるとき。」(箴言5:11新改訳)

妻以外の女性と関係するとき、いかに悲惨な最後を迎えるかを詳述したのがこの章。たぶん多くの女性を相手にしたソロモン王の苦しい体験をもとに記された章ではないかと思う。(Ⅰ列王記11:1~10)▼もし私たちが生前許されて死後の世界へ行き、ハデス(よみ)を見渡すことができたら、不倫を犯してそこに落ち、火の中で苦しみ泣いている数えきれない人々を見て、全身が震えるであろう。悔恨の叫び、うめき声がハデスを揺り動かし、それがどこまでも続く地獄の光景に腰を抜かし、地上に戻ったら世界を駆け巡り、人々に警告しなくては、との思いに占領されるにちがいない。▼ここでソロモンは淫行を、「見知らぬ女」という言葉で象徴する。彼女は地上の偶像礼拝と不道徳の母である。この女からあらゆる時代のあらゆる姦淫、誘惑、汚れの罪が出て無数の人々を鉤(かぎ)でつかまえ、地獄へ落として来た。彼女は悪魔の最高の武器であり、他のどんな武器よりも多くの獲物を捕らえ、ハデスに送ったのである。▼みことばと聖霊により、この真相を見抜いて生きることが重要である。ハデスに苦しむ者たちのうめきを、心の耳に聞きながら。


朝の露 <知恵の道>

2022-03-22 | 箴言

「私は知恵の道をあなたに教え、まっすぐな道筋にあなたを導いた。あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走っても、つまずくことはない。」(箴言4:11,12新改訳)

知恵の道とは、人間の頭脳や思索から産み出された理論ではなく、イエス・キリストご自身のことである。パウロも「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3同)と言っているように。▼どのようにすぐれた理論や思想を構築したとしても、それが活けるキリストの内住によらないなら、「肉の欲するままの欲望に対しては、何の効き目もありません」(コロサイ2:23同)と使徒が断じた結果しか生まない。かつてのギリシャやローマ時代、表面は華やかな文明と知識が世界をおおっていた。だがそれは実際には悪徳と腐敗により、内部から崩壊しつつあった。いやそれより以前、ソロモン時代のイスラエルもそうだったのである。▼イエス・キリストの福音により流れ出した天の清流以外に、永遠に存続できる真の知恵はどこにも見出すことはできない。

主が故郷ナザレで人々を教え始められたとき、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇蹟を行う力をどこから得たのだろう」(マタイ13:54同)と。主イエスの口から流れ出た知恵のことばは、内に満ちていた聖霊から流れ出たものであった。その意味で、主の御生涯は冒頭の聖句の実現であったといえよう。▼私たちがもし永遠の天の御国に入ろうと願うなら、キリストを信じて新しく生まれ変わり、御聖霊の内住をいただく必要がある。このお方こそ神の御知恵そのものであられるからだ。


朝の露 <いとしい子を叱る>

2022-03-21 | 箴言

「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」(箴言3:11,12新改訳)

主はペテロたち三弟子を連れて高い山に登ったとき、その姿が栄光に輝いた(マルコ九章)。いわゆる変貌山の光景である。▼そのとき雲の中から、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」(7)との御声が響いた。詳訳では傍線部分が「このうえなくいとしい愛子」と訳されている。天の父の限りない御愛により、主イエスは世界のどんな人間も経験したことのない栄光に輝いた。だが山から下りた御子が向かったのはエルサレムであり、そこで十字架につけられることであった。それが御父の主イエスに望まれたことだったからである。▼万物の支配者、永遠の神が、唯一の愛子に与えられたのは十字架であった。世人には想像すらできない屈辱、苦しみと呪いを「この上なくいとしいわが子」に杯として飲ませた天の父、その姿を私たちは見た。そしてその上に罪人の救いが成り立っていることを。

「さて、彼らはゲッセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。』そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。』」(マルコ14:32~36同) ▼なんと崇高な祈りだろう。御子が御父をうやまうとは、こういうことだ。人の子が子としての立場に立つことにより、父に栄光を帰する。「栄光が父なる神にあるように」との礼拝がそこに成り立つのである。それは、父がそうされるのにふさわしい唯一の御方だからにほかならない。そこで御子にしたがう私たち被造物もまた、ただあなたがお望みになることが行われますように、と祈りつつ神の前にひれ伏す、礼拝とはまさにそのような姿が天地に満ちることでなくてなんであろうか。