「さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。夫は遠くへ旅に出ていて、家にはいませんから。」(箴言7:18,19新改訳)
この聖句前半を見ると、雅歌書の新婦が新郎に告白している言葉とそっくりである。「さあ、私の愛する方よ。私たちは出て行って、村で夜を過ごしましょう。・・そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」(雅歌7:11,12同)▼しかしここでは、後半部分が恐ろしい。なぜなら、「私の夫は遠くに旅行中で家にいません。だからそのあいだに、愛を楽しみましょう」と言うのだから・・。つまりこの女は、神の定めた男女のあり方を踏みにじり、神に反逆しながら欲望を満たそうとしているのである。実際のところ、彼女の神は欲望という名の神、考えるのは地上の快楽だけ、永遠を心から捨て去っているわけで、その網にかかった若者も同じ心理であった。▼私たち人間が、自分を創造された神を人生に迎えず、その御心を捨てて生きれば、罪の奴隷にされるほかはない。若者は女性と腕を組み、楽しそうに家へ向かって行くが、その本当の姿は屠殺場に引かれて行くあわれな牛であった(22)。無数の現代人もこれと同じ「よみへの道」(27)を歩んでいる。▼高速道路を走っていると、大きなトラックの荷台に幾頭もの牛馬がつながれ載せられ、屠殺場に運ばれて行く光景を見る。おとなしくあたりを見ているが、これから待ち受ける場所と運命を知らないのであろう。彼らと自分を重ね合わせ、生き方を神の前にただす人は幸いである。