しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 箴言30章 <神のことばは純粋>

2017-10-17 | 箴言

姫路市街「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように。」(箴言30:5,6新改訳)

旧約聖書は、神のことばが純粋であること、それに人の言葉や考えを付け加えたりしてはならないことをくりかえし命じている。特にモーセは申命記で二度もそれを命じた(4:2、12:32)。新約聖書の最後にもおごそかな命令がある(黙示録22:18,19同)。▼創世記から黙示録までが産み出された千五百年間、人類は聖書に匹敵する霊感に満ちた書物を、他に一冊も生み出すことができなかった。これこそ聖書が神のことばであることの証拠にほかならない。▼聖書に信頼することは、イエス・キリストに信頼することである。そうすれば、たとえ天地が崩れ去っても、人は主と共に永遠に生きることができる(マタイ24:35同)。今後も世界はますます混迷の度を深めていくから、私たちは、「拠り頼む者の盾」である聖書と、聖書が指し示す神の御子に信頼すべきである。まもなく、「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす」(へブル12:26同)と神の言われた時がかならず到来するのだから。◆今年(2017年)は宗教改革が起こり、プロテスタント・キリスト教が生まれて500年になる年である。宗教改革の最大の功績、むろんそれは神の摂理によるものだが、聖書を誰でも読めるように「当時の人間的権威」から解放したことだ。今日私たちが聖書を座右に置き、いつでも自由に読めるというのは、どんなに感謝しても、し足りない恵みである。◆明治初期、宣教師たちが日本に新教を伝えにやって来たとき、いち早く取り組んだのは日本語聖書の翻訳、発行であった。そして名訳といわれる文語訳ができた。今なお文語訳を愛読している人々は多い。かくいう私もそのひとり。聖書があれば、いかに迫害が起き、海外の扉が閉ざされてもキリスト者は生き残れる。神の息吹きにより生まれた聖書には「いのちがあり、力がある」からだ。プロテスタント宣教師たちは、過去の歴史からそれを学んでいたのである。◆もちろん、聖書があっても「曲がれることを言い出す人」はこれからも起きるであろう。しかし同時にかならず、それを糾し、矯正する働きも起きる。それが歴史の事実なのだ。使徒パウロのことばを心にきざみつけたい。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感による(神のいぶきによる)もので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(Ⅱテモテ3:15~17同)