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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <知恵のある者>

2022-04-28 | 箴言

「自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(箴言26:12新改訳)

神がソロモン王に与えた知恵はすばらしいものであった。当時の世界には彼に並ぶ知恵者がひとりもいなかったため、各地から人々が先を争うようにしてエルサレムにやって来たと記されている。「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。・・・彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやって来た。」(Ⅰ列王記4:29~34)▼そしてソロモンはどんな難問にもみごとに答えることができたのだった。ところが、その彼がここで言う、自分が知恵者だと思う人ほど愚かな者は存在しないと。もしこれが心からの告白なら、晩年の彼はほんとうの知恵に到達したわけである。人はイエス・キリストに出会う時、はじめて自分の罪深さを意識することができる。つまり、人の世界で賢いとか、自分は知っているなどと考えることはいかに空しく、高ぶりに満ちた態度であるかを発見するのである。▼福音とは謙遜がかたちをとって出現したナザレのイエスを、まことの神の知恵として信じる恵みを言う。人間はその時、はじめて、傲慢不遜という永遠の牢獄から解き放たれ、悪魔の呪縛から自由になり、生かされている喜びを満喫できるようになる。ソロモンすら味わえなかった平安と喜びを、どんな幼子でも体験するのだ。これこそ神の御知恵でなくてなんであろう。新約の福音に生かされている私たちはソロモンの何十倍も幸せである。


朝の露 <王の心は測り知れない>

2022-04-27 | 箴言

「天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。」(箴言25:3新改訳)

このみことばのような王がいるとすれば、それは主イエス・キリストである。▼主が十字架につけられた時、その頭上には罪標が取り付けられた。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」で、ヘブル、ローマ、ギリシア語で書かれていた。総督ピラトが書かせたものである。彼は皮肉と嘲笑をこめてそうしたのだが、じつは神による限りなく深い意味が秘められていたことに気がつかなかった。「イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、『ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください』と言った。ピラトは答えた。『私が書いたものは、書いたままにしておけ。』」(ヨハネ19:20~22同)▼やがてそのときが来ると、ユダヤ民族は心から悔い改め、ナザレのイエスを自分たちの王として迎える。また世界一の知恵者と自認するギリシア人は、十字架が人の罪を根本から解決する神の知恵の奥義であることを知り、自らを恥じる時が来るであろう。世界権力の王座は我らのものと誇ったローマ人たちは、王の王、主の主として来られるお方を見て恐怖におびえ、隠れ場所を探して逃げ回ることになる。真の王、キリストの測り知れない知恵と計画が世界に輝き渡る日は近い。


朝の露 <すぐれた指揮のもとに>

2022-04-26 | 箴言

「あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。」(箴言24:6新改訳)

この世界で最高最大の指揮者はキリスト、最高の助言者は真理の御霊・聖霊であられる。 将来どんなにAI(人工知能)が発達し、人の技術が信じられないほど高度になろうと、キリストと御霊の知恵に及ぶことはできない。AI(人工知能)といってもそれらは所詮、地から出たものであり、天にあるものに比べることさえ愚かだからだ。▼人にとって最も優れた道を歩むとは、御霊の声を聞きながら羊のように大牧者について行くことだ。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」(ヨハネ10:4,5同)▼エジプトで一躍、奴隷から宰相となったヨセフ、少年羊飼いからイスラエル王となったダビデ、彼らは共におられる主をこよなく慕い、無心に従った者たちであった。神は今もそのような人を通して栄光を現される。

イスラエル王アハブはアラム軍との戦争に出かける前、勝敗を予知しようと4百人の預言者を召し集めたところ、彼らは異口同音に「あなたは勝利を得ます」と預言した(Ⅰ列王記22章)。まさに「多くの助言者によって勝利を得る」との箴言そのままの状況だったのである。が、結果はどうだったか。イスラエル軍は惨敗を喫し、アハブは戦死したのである。原因はアハブが偶像礼拝にふけり、平気で正しい人の血を流していたからであった。▼また、ダビデの議官アヒトフェルは智謀の将として知られ、その進言は神のことばのようであったといわれるが(Ⅱサムエル16章)、ダビデの息子アブシャロムの反乱に組し、油注がれた神の人ダビデに背いた結果、自死するに至った(同17:23)。原因は心から主を恐れず、ダビデに反逆したからであった。すなわち、いかにすぐれた指揮者であろうと助言者であろうと、不敬虔であるなら、意味がない。心から主をおそれ、その御足跡に従って行くことこそが、真の知恵なのである。

 

 

 


朝の露 <わたしにゆだねよ>

2022-04-25 | 箴言

「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。遊女は深い穴、見知らぬ女は狭い井戸だから。」(箴言23:26,27新改訳)

父母にとっていちばん心配なことは、息子が女性問題で乱れることであろう。この個所は道徳的に真面目な生き方をすることが、いかに親を喜ばせるかを諭している。深い穴、狭い井戸は、一度落ちると、そこから脱け出すのが不可能になる。ちょうどそのように不倫や放蕩の深みにはまると、底なし沼に足を取られ、もがけばもがくほど沈んで行き、最後は身の破滅に至るのである。人間社会の大半はこの悲劇におおわれているといっても言い過ぎではない。第一、この箴言を記したソロモンがそうであった。彼は遊女や人妻と遊ばなかったかもしれないが、多数の妻妾をかかえ、快楽をほしいままにした人物である。その彼が晩年になり、後悔の念にさいなまれながら子供たちに諭したのがこの箴言だとすれば、一節一節が実感をもって迫って来るのをおぼえるではないか。

新約の恩寵という光の中で箴言を見つめると、理想の父と子はもちろん天の父と御子イエスである。ナザレのイエスとなられた御子は、天の父に喜びをもって従うことをすべてとされた。そして御父は御子をいつくしみ、尊ばれ、常にご自身のふところの真中に置かれたお方であった。▼この愛の関係のすばらしさを私たちの心に示し、教えたもう御方が御聖霊である。御霊はそれが人間にとって最高の喜び、幸福であることを知っておられるからだ。そこでキリスト者は御霊に導かれ、主の心をわが心としていくとき、地上で最高の人生を送ることがゆるされるのである。パウロの記すとおりである。「御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。『だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。』しかし、私たちはキリストの心を持っています。」(Ⅰコリント2:15,16同)

 

 


朝の露 <名声と愛顧はどこで誰から>

2022-04-21 | 箴言

「名声は多くの富より望ましく、愛顧を受けることは銀や金にまさる。」(箴言22:1新改訳)

永遠の名声はどこで受けるのか、天の宝座に座っている御父の前においてである。本当の愛顧は誰から来るのか。それは地上で自分の十字架を負い、キリストの足跡について行った者へのしるしとして、永遠の父が下さるものである。▼だがほとんどの人間はそれを知ろうとせず、認めもしない。そしてはかない地上の生涯で富や名声を獲得することに心を燃やし、世界の人々の心を捉えた有名人をかぎりなくうらやむ。それが朝には咲いても夕方にはしぼむアサガオのようなものだと知ってはいても。▼聖書はそんなことをしても無駄であり、空しさの極であるとくりかえし警告している。ソロモン王を見なさい、その得た富と権力と知恵と快楽の総量を見なさい。その果てはどうなったか、彼が死ぬ前に記した伝道の書で、またこの箴言で何と言っているかを、心を静めて聞きなさい、と聖書は何千年にもわたって、全世界の人々に語り続けて来た。それなのに人は一向に耳を貸そうとしない。