「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」(箴言21:17新改訳)
ルカ一六章には「ある金持ちと貧しい病人ラザロ」の話が出て来る。主が例話として話されたものである。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、門前にラザロという重病人が寝ていても、何も恵んでやらなかった。ところが皮肉なことに二人は相前後して死に、金持ちはハデスにラザロはアブラハムのふところ(パラダイス)に連れていかれたのであった。前者はハデスで炎に苦しみ、そこからなんとかして救い出されたいと願ったが、ときすでに遅かったと記されている。つまりこの話から、人間が貧しい人になるとの真の意味は、死後、ハデスに落ちることだとわかる。▼快楽を愛し、豪奢な人生を過ごして神を忘れてしまうほど悲劇的なことはない。そのような生き方は、当人を人格的にいやしい者にしてしまうし、その結果、今の世でも破産したり、大きな罪を犯して敗残者になる可能性が大きいからだ。これも貧しい人といえるだろう。だが生きていれば、やり直す機会はある。それにひきかえ、ハデスに落ちてしまえばやり直しは永遠にきかない。「そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。」(ルカ16:26同)▼だから自分が恵まれれば恵まれるほど神をおそれ、与えられた富を他者に分け与えるべきである。天からそれをじっと見ている方がおられるのだから。