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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <快楽を愛する者>

2022-04-20 | 箴言

「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」(箴言21:17新改訳)

ルカ一六章には「ある金持ちと貧しい病人ラザロ」の話が出て来る。主が例話として話されたものである。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、門前にラザロという重病人が寝ていても、何も恵んでやらなかった。ところが皮肉なことに二人は相前後して死に、金持ちはハデスにラザロはアブラハムのふところ(パラダイス)に連れていかれたのであった。前者はハデスで炎に苦しみ、そこからなんとかして救い出されたいと願ったが、ときすでに遅かったと記されている。つまりこの話から、人間が貧しい人になるとの真の意味は、死後、ハデスに落ちることだとわかる。▼快楽を愛し、豪奢な人生を過ごして神を忘れてしまうほど悲劇的なことはない。そのような生き方は、当人を人格的にいやしい者にしてしまうし、その結果、今の世でも破産したり、大きな罪を犯して敗残者になる可能性が大きいからだ。これも貧しい人といえるだろう。だが生きていれば、やり直す機会はある。それにひきかえ、ハデスに落ちてしまえばやり直しは永遠にきかない。「そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。」(ルカ16:26同)▼だから自分が恵まれれば恵まれるほど神をおそれ、与えられた富を他者に分け与えるべきである。天からそれをじっと見ている方がおられるのだから。

 


朝の露 <人間の息は主のともしび>

2022-04-19 | 箴言

「人間の息は主のともしび。腹の底まで探り出す。」(箴言20:27新改訳)

人間が呼吸によって空気を吸い込むと、その成分である酸素がからだに取り込まれ、肺を通して血液中に溶け込む。そして心臓のはたらきにより、血管を通って体の隅々まで酸素が運ばれ、無数にある細胞に入り、その活動の源になる。同時に細胞の中から不要物を溶かしこみ、静脈を通って肺に戻る。そして肺は血液から老廃物や不要物を気体にして出し、肺は呼吸によって体の外へ吐き出すのだ。実によくできていると感心するほかはない。▼見方を変えると、呼吸により外に吐き出された空気(二酸化炭素を主成分とする)には、からだの内部のあらゆる情報が入っているといえるだろう。もしそれらを精密に分析すれば、細胞の状態がすべてわかるのではなかろうか。そういう技術が確立すればの話だが・・・。一方、冒頭のみことばを霊的に解釈すれば、神は人の吐く「息」によって彼が心の内部で何を考え、何を計画しているかをことごとく識別できるお方だ、ということになる。腹の底まで探り出すとはそれを言うのであろう。こんな想像をすると、聖書のことばはじつに興味ふかい意味と味わいを持っていることがわかる。人はしばしば意味もなくしゃべり、考えてもいないことを口に出すともいわれるが、じつはそのすべてが心深くに存在するその人の人格性の情報なのである。神はそれを知り尽くしておられるにちがいない。

創世記には、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7同)と記されている。すなわち、人間が「生きるもの」として存在できるのは、神の息が吹き込まれたからだとわかる。天地宇宙に存在するどのような生き物も、人間のように造られたと記されておらず、まさに私たちは特別な被造物だといってよい。▼また、神は霊であられるから、人に神のいのちが吹き込まれたというのは、人が霊を所有している証明だともいえよう。つまり私たち人間は実に尊い存在であり、神と人格的交わりができる唯一の被造物なのである。天使は「しもべとしての霊」であり、人が持つような神との交わりはゆるされていないと思われる。まして愛を交わし、キリストの花嫁とされることは、唯一、人間だけだ。それだけに、神のいのちの息を持つ人間が救われずに滅んでしまうというのは、残念この上もない事実ではなかろうか。

 


朝の露 <賢明な妻は主から>

2022-04-18 | 箴言

「家と財産は先祖から受け継ぐもの。賢明な妻は主からのもの。」(箴言19:14新改訳)

旧約聖書で賢明な妻といえば、第一に挙げられるのはアビガイルではないだろうか(Ⅰサムエル二五章)。▼彼の夫・ナバルの冷たい仕打ちに堪忍袋の緒を切ったダビデは、ナバル一族を滅ぼそうと彼の家に向かって出発した。ところがそれを知ったナバルの妻アビガイルは急いで贈り物を準備し、ダビデのもとに駆けつけ、思いとどまらせたのである。彼女のダビデに対するとりなし、謙遜な中にも理をつくして説いた諫言(かんげん)は、これが一女性の言葉であろうかと感心する(Ⅰサムエル25:24~31)。▼愚かで不敬虔な男、ナバルの妻としてアビガイルが存在していたのは、まことに不思議であった。しかしこれもまた神の偉大な摂理のうちに定められていたことにはちがいない。なぜなら、このことにより、ダビデは無益な流血の罪から救われ、生涯に汚点を残さずに済んだからである。

箴言はソロモン王が記した(箴言1:1~6)が、千人もの妻妾を持った彼にして「賢明な妻は主からのもの」と述べるにふさわしい妻がいなかったとは皮肉である。いや、考えてみれば、そんなに多くの女性を囲ったからこそ、真に賢明な妻はだれか?を見失ったのであろう。冒頭のことばは、晩年の深い孤独と慙愧(ざんき)の念から記された「知恵のことば」なのかもしれない。▼主は悪魔からこの世のすべての王国と栄華を見せられ、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」(マタイ4:9同)と誘惑された。そのとき、「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」(同10)と一喝(いっかつ)して撃退されたのであった。▼私たちとともに、ソロモンよりはるかに大いなるお方がおられる、という事実をおぼえたい。このインマヌエルの主こそ、知恵と聡明と権威に満ちたお方である。そして主はどこまでもあなたを心に刻み、愛しておられる。


朝の露 <教会の外の人々にも>

2022-04-15 | 箴言

「また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。」(Ⅰテモテ3:7新改訳)

この章は神の教会の世話をする監督、執事はどうあるべきか?についてパウロが語ったところである。▼その中で特に7節は注目すべきであろう。というのは、監督に選任される人が「教会の外の人々にも評判の良い人」であるべきだと、一般社会への配慮を挙げているからである。つまりパウロは、監督たる者、教会内で御霊によるすぐれた資質の持ち主というだけでは十分でなく、信仰を持たない世間の人たちの評価にも耐えなければならない、と釘を刺しているのである。▼天よりの救いにあずかったキリスト者が警戒すべきは、独善的になることである。もし私たちが、外の世界を不信仰な世界だからと言って軽蔑的に見ていたら、神に喜ばれる態度といえない。もちろん罪を犯すことはしないが、その他のことについては誠実にふるまい、皆の尊敬を獲得した者、それがキリスト者だからだ。まして監督はその先頭に立つべき義務あり、と使徒は勧めているのである。

今月初め、私は山間の小さな町にある教会を訪ねた。そこの牧師夫妻がかねてからの友人だからである。夫妻は数十年間、そこでコツコツと伝道している方だ。教会といってもふつうの家で、会衆も決して多くはない。▼ところが数年前、近くのある御夫婦が「自分たちは高齢で施設に入るが、あなたがたに家をさしあげたい」と言って来られたという。その理由を聞くと、「近くで見て来たが、決して人の陰口や批判をしない方だから、こういう人にお贈りしたいと思った」と言われたそうである。結局、牧師夫妻はその家をいただくことにし、会堂がふたつになったわけである。▼世間は、たとえキリスト教信仰を持たなくても、牧師や信徒たちの生活態度をじっと見ている。しかも一年や二年でなく、何十年にもわたって、である。使徒パウロが記したことばの重さがわかる話ではないか。

 


朝の露 <高慢は破滅に、謙遜は栄誉に>

2022-04-14 | 箴言

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12新改訳)

キリスト者にとり、最終、最大の誘惑は高慢である、と有名な信仰者が言った。そのとおりだと思う。▼使徒パウロの生涯は迫害と困難に満ち、来る日も来る日も死の危険と隣り合わせであった。それでも神は、彼が万に一つ高ぶってはならないと、決して癒されない病気をお与えになった(Ⅱコリント12:7)。あまりのつらさにパウロは、「どうか癒やしてください」と三度も懇願したが聞き届けられなかった、と記されている。▼信仰者が心に高ぶることを、神がどんなに用心しておられるかは想像をはるかに超える。主はひとたび選んだ聖徒たちの心をいつも注意深く見つめ調べ、その芽が出そうになると間髪を入れずに抜き取られる。それこそが御国の世継ぎたちに対する深い御愛の現れにほかならない。私たちも神をおそれ、自分の心を光に照らして頂き、悪魔のあとをついて行かないよう歩むべきはいうまでもない。

ダビデ王から数えて12代目の王ウジヤはひじょうにすぐれた王として名高かった(Ⅱ歴代誌26章)。周辺諸国と戦って次々に勝利をおさめ、「こうして、彼の名はエジプトの境にまで届いた。その勢力がこの上なく強くなったからである。・・・彼の名声は遠くにまで広がった」(Ⅱ歴代誌26:8~16同)と記されるまでになった。▼しかし悲しいことに、彼は自分の成功に酔いしれ、謙遜を忘れて高ぶり、神の領域まで犯すに至った。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。イスラエルでは、たとえ王といえども、エルサレム神殿内部に入ることは律法により、固く禁じられていた。しかし高慢のゆえに彼はそれをしようとしたのだ。▼祭司アザルヤは80人の祭司たちとともに決死の覚悟で王をいさめようとたちふさがった。そして「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。・・・聖所から出て下さい。あなたは主の信頼を裏切りました」(18)といさめたのである。ところが高慢のあまり、心が盲目になったウジヤ王は祭司たちにはげしい怒りを抱き、あくまで自分で香をたこうとした。ところがその瞬間、王の額(ひたい)にツァラアト(呪われた死病といわれる)が現れたのである。神に撃たれたのだ。▼祭司たちはおどろき、すぐさま王を神殿内から連れ出し、ウジヤ自身も撃たれたことがわかったので急いで神殿から外へ出たのだった。イスラエルではツァラアトに冒された者は王であろうと隔離され、ひとりで暮らさなければならない。ウジヤはそれ以後死ぬまで神に撃たれた王として隔離され、治ることなく死んだ。その遺体は、王立墓地に埋葬されず、隣接する野原に埋められたのであった。▼どんなことがあっても、心に高慢を抱いてはならないこと。彼の一生はそれを物語っている。