しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <神の賜物を再び>

2022-04-29 | 2テモテ

「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(Ⅰテモテ1:6新改訳)

エペソにいたテモテは敬愛する使徒パウロが獄中にあり、状況が次第に悪くなることを感じていた。もしかすると死刑の判決が出るかもしれない、そうなったとき、自分はどう対処したらよいのだろう。エペソから遠く離れたローマに幽閉されていたパウロは、愛弟子テモテの気持ちを痛いほど察知しており、励ましの手紙を送った。それが本書簡で、彼の絶筆となったものである。▼テモテよ、途方に暮れる必要はない。私たちを永遠の昔から選び、素晴らしい福音に招いてくださったお方は、あなたにも豊かに賜物を与えておられる。それは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのだ。だから私や周囲の状況を見てばかりいないで、内にいますお方にしっかり目を止めなさい。そうすれば、信仰の火がふたたび燃え上がるであろう。キリストは死を滅ぼし、復活によっていのちと不滅を明らかにされた。臆することなく、恥じることなく、堂々と福音を証し続けなさい。

この書をおおっているのは孤独または寂寥(せきりょう)という空気である。パウロは裁判の席でも弁護者を失い、ただひとりで被告席に着かねばならなかった。彼が伝えて来た十字架の福音は帝国各地で反対者による非難の嵐に直面し、その波浪はエペソでテモテにもふりかかっていた。だから彼も孤立していたのである。▼しかし同時に、私たちはこの手紙に「澄み切った天よりの光が差し込んでいる」ことをも感じさせられる。それは勝利のファンファーレや紙吹雪の嵐ではない。漆黒の闇を貫き、はるか遠くの水平線まで届いている海岸の灯台の光になぞらえられる。その光線は透明さのゆえに、はるかかなた、22世紀の今日の教会にまで届き、キリスト者ひとりひとりの霊性を照らしている。▼使徒が味わっている孤独は、ゴルゴタで人々から捨てられ、ただひとりで木につけられたお方の姿につながっていく。そこは神が設けられた場で、ほかのどんな人も加わることはできなかった。この孤独を他のことばで表現すれば、「神こそがすべて」ということになるであろう。もし信仰者に完成というものがあれば、それは生涯の終わりにこの告白が彼の全部となる、それに尽きると思うのである。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(ルカ23:46同)