しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <陶器師の畑を>

2023-03-10 | マタイ
「そこで彼らは相談し、その金で陶器師(とうきし)の畑を買って、異国人のための墓地にした。このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:7,8新改訳)

イスカリオテ・ユダは、主が死刑に定められたのを見て後悔し、首をつって死んだ。「そういう人は、生まれて来なければよかったのです」(マタイ26:24同)と主が言われた通りになったのである。思えば彼は銀貨30枚で主を売ったが、それは墓地の代金に相当する金であったことがわかる。▼天地万有の本源、神のひとり子にいます至高者を墓地の値で売ったユダ、そこに彼の罪の計り知れぬ深さがあった。彼は主を売って金を手にしたとき「我にかえり」、自分の大罪をはじめて自覚したのかもしれない。すでに遅かったのだが・・・。▼ユダは後悔したが、悔い改めることはできなかった。後悔と悔改、たった一字違いだがそこには永遠の距離がある、それを私たちは思ったことがあるだろうか。世の中には、自己の働きとその結果を見て後悔する人はたくさんいる。そして打ちひしがれて自殺する人もいるのだ。まことに悲惨(ひさん)である。そこであらためて気がつくのは、神に悔い改めることができる人は、むしろ幸せだという事実だ。そのことはパウロも述べている。「神のみこころに添(そ)った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10同)▼私たちは永遠の滅びへ落ちて行ったユダを見るたびに、悔い改めて救いに入れられた幸いを思いたい。

さまよう人々 たちかえりて あめなるみ国の 父を見よや
罪咎(つみとが) 悔(く)やめる心こそは 父より与うる たまものなれ

さまよう人々 たちかえりて 父なるみ神の み前に行き
まことの悔いをば 言いあらわせ 世びとは知らねど 知りたまえり

さまよう人々 たちかえりて 主イエスの みもとに とくひれ伏せ
わが主はあわれみ み手をのべて こぼれる涙を ぬぐいたまわん

さまよう人々 たちかえりて 十字架の上なる イエスを見よや
血潮のしたたる み手をひろげ いのちを受けよと まねきたもう

                                                                <讃美歌239 William Bengo,1812>