しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <レビ人への分配>

2020-12-30 | Ⅱ歴代誌

「さらに、全会衆のうち、すべて系図に記載された幼児、妻たち、息子たち、娘たちにも分配した。彼らは聖なるささげ物を、聖なるものとして忠実に扱ったからである。」(Ⅱ歴代誌31:18新改訳)

モーセ律法によれば、レビ人と祭司の一族は産業を持たない代わりに、全部族が主にささげる十分の一をもって生活を支えられるべきであった。ところがイスラエルの信仰が下がるにつれ、この制度は忠実に実行されなくなったのであろう。まして王が率先して偶像礼拝に走ると神殿制度は崩れる一方で、レビ族の生活は苦しい状況に追い込まれたに違いない。ヒゼキヤ王はこれを立て直したわけである。このようにして久しぶりに祭司を含むレビ族は全家族に至るまで豊かな分配を頂くことができた。その喜びはいかばかりであったろう。ただ残念なことに、これはヒゼキヤ王の治世だけで終ったのではないだろうか。次のマナセはふたたび堕落し、ユダ王国を霊的に落とし、荒れ果てさせた。キリストが再び来られるまで、どのような制度も完全に実施されることはない。▼神は出エジプト記にあるように、一夜でエジプト中の初子を死なせたが、イスラエル人の初子はひとりも死ななかった。なぜなら彼らは「神の所有」とされたからだ。そして後に、神の所有とされ、もっぱら神に仕えるため、全部族の初子の代わりにレビ族が選ばれ、神のものと定められたわけである。従ってイスラエルは、レビ族をどれだけ大切にするかにより、神に対する敬虔と献身を測られることになったのだ。この章からあきらかなように、ヒゼキヤ王がどんなに敬神の念に厚かったかは、レビ人への丁重な待遇でわかるのである。▼新約聖書は、教会においてもっぱらみことばに仕える長老たちを特に大切にすることを命じている。今でいえば聖職者であろうが、それは教会の祝福に直結するからである。自分の生涯をささげて、牧会に専念している人たちは何より大切にされなければならない。それは間違いなく、自らと家庭への祝福となって返ってくるのだから・・・。ヒゼキヤの治世の祝福を深く心にとどめよう。「エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」(Ⅱ歴代誌30:26,27同)

 

 


朝の露 <ヒゼキヤの過越し>

2020-12-29 | Ⅱ歴代誌

「こうして急使たちは、エフライムとマナセからゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを笑いものにして嘲った。ただ、アシェル、マナセ、およびゼブルンの一部の人々は、へりくだってエルサレムに上って来た。」(Ⅱ歴代誌30:10,11新改訳)

神殿をきよめ終わると、ヒゼキヤは長年途絶えていた過ぎ越し祭を復興しようと、イスラエルとユダ全土に人を遣わして呼びかけた。カナン全土を巡るヒゼキヤ王から派遣された急使たち、それはイザヤが「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか」(イザヤ52:7同)と預言したとおりであった。だが長い間、偶像礼拝に慣れ親しんでいた北イスラエルの人々は、ヒゼキヤの手紙を持った使者たちを笑いものにして嘲った、とある。▼主イエスがイスラエルの町々、村々を巡って福音を宣べ伝えられたときもおなじであった。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。・・・カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。」(ルカ10:13~15同)▼救い主は天の位を捨て、父なる神の招待状を携えて地に来られたのである。しかし選民はそれをあざ笑い、破り捨て、持って来た急使・すなわち神の子ご自身を十字架につけてしまった。なんと恐るべき罪を犯したことであろう。そして現在は福音時代、第三位の神なるお方が急使として全世界を巡っておられる。御国への招待状をもって、である。我らの国、日本には170年間それが続いているが、大部分の人々は耳を貸そうとしない。春夏秋冬、年間を通じて物を言わない像の前で手を合わせ、拝んでいる。主イエスの御嘆きが耳に聞こえるようだ。▼人よ、神の招待を拒むなら永遠の滅びしかない、との御聖霊のよびかけを聞くべし。

 


朝の露 <宮きよめ>

2020-12-28 | Ⅱ歴代誌

「祭司たちは主の宮の内側に入って、これをきよめた。彼らが、主の神殿にあった汚れたものをみな主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って、外のキデロンの谷へ持って行った。」(Ⅱ歴代誌29:16新改訳)

二十五歳で王になったヒゼキヤは、ただちにエルサレム神殿をきよめ始めた。父アハズが生前さんざんに荒らし、偶像や汚れた物でいっぱいにしていたからである。彼は信仰の復興が、国の復興と切っても切れない関係にあることをよく知っていた。エルサレム神殿の扉は父王によって閉ざされたまま十六年に及んでいたから、きよめ終えるのに半月以上かかったものの、すべてが聖別され、ついで国全体の罪をゆるしていただくための犠牲がささげられた。こうしてダビデが定めたとおり、敬虔な礼拝が始まると「彼らは喜びつつ賛美した。そして、一同はひざまずいて伏し拝んだ」(30)のであった。▼信仰の復興は礼拝の復興から始まり、そこから本当の喜びと感謝が湧き出て国中に流れて行く。私たちの教会も水源とならせていただきたい。祖国が真の祝福にあずかるために・・・。今日、わが国のクリスチャン人口は総人口の1%にも満たないわずかなものであり、しかもその中で毎週教会に通い、主日礼拝を守っている者はさらに少ない、といわれる。これでは祝福の川が祖国に流れることは到底おぼつかない。社会の霊的、道徳的退廃を食い止めることなど思いもよらない、というのが実際であろう。一度主を信じ、洗礼を受けても、いつのまにか遠のいて世の中に戻った人たちの責任は軽くない。「千里の堤もアリの一穴から」とことわざにあるが、そのままでいるなら、日本という家は目に見えない土台からシロアリに侵食され、やがて取返しのつかないことになる。罪という欲望のシロアリが巣を作っている人たちが繁華街や盛り場に出かけて行き、コロナの感染を招き、それを国全体に広げているというのがもし本当なら、コロナとの戦いは、結局、自分と罪の欲望との戦いにほかならないといえよう。▼今もし、クリスチャンが全員、礼拝生活をしっかり守ったなら、それだけで日本は変わるはずである。なにかが食い止められるはずである。そうしないならば、自分たちもいつかは倒壊して来た家の下敷きになるのが落ちだ。自己の信仰のあり方をあまく考えてはならない。一国におけるきよさの回復は信仰の復興にあり、信仰の復興は礼拝生活の復興にある。ヒゼキヤの改革は私たちにそう告げている。

 


朝の露 <悪王アハズ>

2020-12-24 | Ⅱ歴代誌

「またユダの町という町にはすべて、ほかの神々に犠牲を供えるための高き所を造り、彼の父祖の神、主の怒りを引き起こした。」(Ⅱ歴代誌28:25新改訳) 

アハズはたぶん、ユダ王国史上最悪の王。▼本章に書かれているだけでも、バアル礼拝、子どもを火にささげるモロク礼拝をはじめ、山や丘の上、青木の下、町の中に祭壇を作り、犠牲をささげた。それもユダの町という町すべてで、そうしたのである。その上、エルサレム神殿の扉を閉じ、用具を取り外し、勝手に聖なる場所の模様替えをしたとは、堕落ここに極まれり、という感がする。▼当然、神の祝福は去り、反対に怒りが臨み、北イスラエル、エドム、ペリシテが来襲したが勝つことができずに惨敗、国は弱体化してしまった。するとアハズはなおいっそう他国の神々を礼拝し、主の信頼をうらぎったとはあきれる。▼この状況は現在のわが国とよく似ていて、どの町に行っても通りのあらゆる所に偶像や祭壇が設けられ、祭が行われている。まことの神から祝福がわが国に注がれないのはもっともだと思う。


朝の露 <ウジヤの息子ヨタム>

2020-12-23 | Ⅱ歴代誌

「彼は二十五歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。」(Ⅱ歴代誌27:8新改訳)

ウジヤの息子ヨタムについて、記述は短い。彼は四十一歳で夭折(ようせつ)しているが、「自分の神、主の前に、自分の道を確かなものとした」(6)とあるので、信仰深い一生を送ったようだ。母はツァドクの娘(1)と記されているから祭司系の可能性があり、正しい信仰について息子を訓育したのであろう。ヨタムは、ウジヤの妻である母から、父が突然ツァラアトになった一部始終を聞き、神に対する恐れを強く抱いたのかもしれない。しかも王位に着くまで、何年間かわからないが、病気になった父に代わり、摂政として国政に当たったわけであるから、その苦労は小さくなかったと思う。▼気になるのは「民は依然として滅びに向かっていた」(2)との記述である。ヨタムは王として真面目だったにしても、国民の信仰を神に引き戻す力は持たなかった。父の路線を引き継ぐことで精いっぱいだったのは、年齢を考えると無理もなかったといえよう。▼もっとも当時の背景を見て行くと、預言者イザヤの活動がある。彼はヨタムの父ウジヤが死んだ年、神殿で非常に深い神の取り扱いを受け、新たなる活動に召された、いわゆるイザヤの召命(イザヤ6章)であった。彼は王宮に出入りしていたことが考えられ、ヨタムはその指導を受けることができたと思われるが、その痕跡はないのが残念である。イザヤは当時のユダについて、ひじょうにきびしい言葉で堕落ぶりを記している。「足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」(イザヤ書1:6同)▼一国にとり不幸なことは、支配者や指導者層が預言者の語ることばに耳を傾けない心を持っていることだ。今の日本を見ればわかる。知識人や専門家、高いスキルを持った人には聞こうとするが、霊性が死んでいるため、聖書の預言に聞こうとしない。一見優秀に見えても、霊魂は実に幼稚で愚かで、ものも言わない木石に手を合わせている。そのため高等教育を受けたはずの人々が簡単にだまされ、カルトの虜となって恐るべき犯罪にまで走ることを少し前に私たちは目の当たりにしたのである。▼コロナウィルスで全世界が右往左往する中、私たちはあらためて、永遠の神のことばに心を向けるべきではないだろうか。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。・・・なぜ、あなたがたは、食料にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。・・・耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(イザヤ55:1~3同)