「さらに、全会衆のうち、すべて系図に記載された幼児、妻たち、息子たち、娘たちにも分配した。彼らは聖なるささげ物を、聖なるものとして忠実に扱ったからである。」(Ⅱ歴代誌31:18新改訳)
モーセ律法によれば、レビ人と祭司の一族は産業を持たない代わりに、全部族が主にささげる十分の一をもって生活を支えられるべきであった。ところがイスラエルの信仰が下がるにつれ、この制度は忠実に実行されなくなったのであろう。まして王が率先して偶像礼拝に走ると神殿制度は崩れる一方で、レビ族の生活は苦しい状況に追い込まれたに違いない。ヒゼキヤ王はこれを立て直したわけである。このようにして久しぶりに祭司を含むレビ族は全家族に至るまで豊かな分配を頂くことができた。その喜びはいかばかりであったろう。ただ残念なことに、これはヒゼキヤ王の治世だけで終ったのではないだろうか。次のマナセはふたたび堕落し、ユダ王国を霊的に落とし、荒れ果てさせた。キリストが再び来られるまで、どのような制度も完全に実施されることはない。▼神は出エジプト記にあるように、一夜でエジプト中の初子を死なせたが、イスラエル人の初子はひとりも死ななかった。なぜなら彼らは「神の所有」とされたからだ。そして後に、神の所有とされ、もっぱら神に仕えるため、全部族の初子の代わりにレビ族が選ばれ、神のものと定められたわけである。従ってイスラエルは、レビ族をどれだけ大切にするかにより、神に対する敬虔と献身を測られることになったのだ。この章からあきらかなように、ヒゼキヤ王がどんなに敬神の念に厚かったかは、レビ人への丁重な待遇でわかるのである。▼新約聖書は、教会においてもっぱらみことばに仕える長老たちを特に大切にすることを命じている。今でいえば聖職者であろうが、それは教会の祝福に直結するからである。自分の生涯をささげて、牧会に専念している人たちは何より大切にされなければならない。それは間違いなく、自らと家庭への祝福となって返ってくるのだから・・・。ヒゼキヤの治世の祝福を深く心にとどめよう。「エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」(Ⅱ歴代誌30:26,27同)