goo blog サービス終了のお知らせ 

しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <愛と慈悲の神>

2024-08-21 | 申命記
「貧しく困窮(こんきゅう)している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地の、あなたの町囲みの中にいる寄留者でも虐(しいた)げてはならない。」(申命記24:14新改訳)

申命記を学んでいると、旧約聖書に示されている神はいかに慈悲深く、愛に富むお方であるかと感動する。本章は特にその印象が強い。▼新婚まもない男性は戦争に出ないで妻を慰めなければならなかった(5)。質を取るときは生きる最後の手段であるひき臼は除くこと(6)、貧しい人の担保(たんぽ)は夜を迎える前にかならず返すこと(13)、困窮している人は同胞でも寄留者でもいたわり、賃金はその日のうちにかならず支払うこと(14、15)、寡婦(かふ:みぼうじん)や孤児(こじ)、寄留者たちの権利を侵(おか)さず、畑や果樹園の産物はその人たちのため取りつくさずに残しておくこと(19~21)などで、イスラエルがこれを忠実に実行していれば、占領したカナンは文字通り「乳と蜜の流れる地」になり、天の恵みに満たされ、飢饉(ききん)などは無縁の地になったにちがいない。▼悲しいかな、王国の歴史はその反対になった。現代世界もそうだが、キリスト者だけは主の恵みにより、モーセの命令を実行させていただきたいと願う。

①心から願うのは 主のようになること 御形に似るため 世の宝捨てます
②同情に満ち溢れ 愛に富み、やさしく 迷う人見出して 主の許に導く
③謙遜と忍耐と  勇気とにあふれて  人々を救うため 苦しみも厭わず
④主よ近く参ります 御油を注いで 今すべて主のものと 変わらせて下さい
⑤主の御霊、主の愛を 祈る間に満たして み住まいにふさわしい 宮としてください
    主のように主のように きよくしてください
    この心 奥深く み姿を写して
         <新聖歌382 詞:Thomas O.Chisholm,1866-1960>

朝の露 <神殿娼婦・男娼>

2024-08-20 | 申命記
「イスラエルの女子は神殿娼婦(しんでんしょうふ)になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼(しんでんだんしょう)になってはならない。」(申命記23:17新改訳)

昔から宗教と不道徳は深く結び着いてきた。わが国でもしかり、江戸時代には大きな偶像神殿の近くに遊郭(ゆうかく)が設けられ、参拝(さんぱい)に来た人々は帰りにそこで遊ぶことを楽しみに全国から集まったのである。「精進(しょうじん)落とし」と言ったそうだ。▼これは日本だけでなく、世界各地に見られる風俗(ふうぞく)習慣であった。モーセがイスラエル人にきびしく命じたということは、すでに当時、カナンやエジプトにあった多くの宗教施設で、それが常態化(じょうたいか)していた証明でもある。▼イエス・キリストを主とし、天の父を唯一の神と信じる者は、このような悪習慣を断ち切ったきよい生活をしなければならないのは当然である。そこに永遠のいのちがかかっているからだ。「自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都(聖なる都、新しいエルサレム)に入れるようになる。」(黙示録22:14同)▼私たちも、地上生涯の最後まで「自分の衣を洗う者」であるように。

朝の露 <見ぬふりをすること>

2024-08-19 | 申命記
「彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の衣についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくした物をあなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。見ぬふりをしていることはできない。」(申命記22:3新改訳)

同じ神を信じる者として、イスラエル人には同胞愛(どうほうあい)に生きることが義務づけられた。だれかが困っていたり、大事な物をなくしたりしたときは決して「見て見ぬふりをしている」ことはゆるされなかったのである。▼まして私たちキリスト者は神の愛を内に宿した者として、どれほど兄弟愛に生きなければならないことであろう。主イエスがお命じになったことばを深く心にきざみながら生きるべきである。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」(ヨハネ15:17同)▼主が再臨されると、キリスト者たちは預かったタラントでどれだけ儲けたかを報告することになるだろう。いうまでもなくタラントの本質とは隣人愛に生きることだ、と私は思う。「さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。すると、5タラント預かった者が進み出て、もう5タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に5タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに5タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25:19~21同)

朝の露 <土地のきよめ>

2024-08-15 | 申命記
「その町の長老たちはその雌(めす)の子牛を、まだ耕(たがや)されたことも種を蒔(ま)かれたこともない、絶えず流れる谷川へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。」(申命記21:4新改訳)

イスラエルで誰かが殺され、犯人が不明のときは、現場からいちばん近い町の人々が血によって汚された土地をきよめなければならなかった。そのとき犠牲(ぎせい)にされたのは、きよい雌の子牛である。まだ使役(しえき)されたこともない、かわいらしい子牛が、むりやり母牛から離され、首の骨を折られて殺された。残酷(ざんこく)な光景だが、こうしなければ殺された人の血で呪われた土地はきよめられなかったのだ。▼いうまでもなく、この雌の子牛はイエス・キリストをあらわしている。何千年にもわたり、世界の大地は殺された無数の人々の血で汚され、のろわれて来た。それをきよめるのは罪なき人の血が注がれる以外にない。こうして主イエスの血潮が十字架から流れ、大地を染めたのであった。「ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル九12)

朝の露 <戦利品>

2024-08-14 | 申命記
「しかし、女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物は戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた、敵からの略奪物をあなたは自由にすることができる。」(申命記20:14新改訳)

現代の基準からみるとずいぶん残酷(ざんこく)な処遇(しょぐう)に見えるが、新約の光を当てると、霊的に多くの教訓(きょうくん)を味わうことができる。つまり、キリスト者は主イエスが激戦(げきせん)のすえ、悪魔から勝ち取った「戦利品」なのだ。戦利品である以上、もう二度と敵は手出しができない。私たちは絶対の安全圏(あんぜんけん)に置かれたわけである。▼さらに主はご自身の所有とした私たちの上に、完全な愛による支配権(しはいけん)を持っておられる。そこで信仰者はキリストの愛の所有物とされた以上、自分勝手な主張はゆるされない。生きるにも死ぬにも、愛による支配者に、喜びのうちに従っていく存在である。もしそれを忘れ、わがままな道を行けば、たちまち元の支配者・悪魔の捕虜(ほりょ)にされてしまうであろう。主は天軍の将として十字架にかかり、私たちを奪い(うばい)返してくださった。ほんとうに感謝である。