「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記19:15新改訳)
主イエスはご自身を神と言いあらわした時、ユダヤ人指導者たちから冒瀆罪(ぼうとくざい)を犯したと宣言され、十字架につけられた。▼だが多くの事実が「イエスは神」と証言している。バプテスマのヨハネは、主を神の子羊と証し、天の父はヨルダン川と変貌山(へんぼうさん)で「これはわたしの愛する子」と証言されたのであった。その上、イエスのなさった奇蹟そのものも、この方は神であると無言のうちに証言している。死後四日経たラザロが、主の一言で墓から出て来た奇蹟などはその典型であろう。▼祭司長、学者、パリサイ人たちはこれらの証言をすべて無視し、「わたしは神の子」と言われた告白だけを取り上げ、神をけがした者として十字架につけた。つまり彼らこそ最大の偽証人(ぎしょうにん)となったわけで、主が地上に来られるとき、それが明らかにされるのである。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7同)▼「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(マルコ14:62同)