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しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <二人の証言>

2024-08-13 | 申命記
「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記19:15新改訳)

主イエスはご自身を神と言いあらわした時、ユダヤ人指導者たちから冒瀆罪(ぼうとくざい)を犯したと宣言され、十字架につけられた。▼だが多くの事実が「イエスは神」と証言している。バプテスマのヨハネは、主を神の子羊と証し、天の父はヨルダン川と変貌山(へんぼうさん)で「これはわたしの愛する子」と証言されたのであった。その上、イエスのなさった奇蹟そのものも、この方は神であると無言のうちに証言している。死後四日経たラザロが、主の一言で墓から出て来た奇蹟などはその典型であろう。▼祭司長、学者、パリサイ人たちはこれらの証言をすべて無視し、「わたしは神の子」と言われた告白だけを取り上げ、神をけがした者として十字架につけた。つまり彼らこそ最大の偽証人(ぎしょうにん)となったわけで、主が地上に来られるとき、それが明らかにされるのである。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7同)▼「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(マルコ14:62同)

朝の露 <私のような預言者を>

2024-08-12 | 申命記
「これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、あなたの神、主に求めて『私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません』と言ったことによるものである。」(申命記18:16新改訳)

イスラエル民族はホレブ山で、栄光のうちに現れた神に接し、その威容(いよう)におびえた。彼らは恐怖から、二度と神の顕現(けんげん)に接したくない、だれかが間に立って私たちに語ってほしい、とモーセに願った。その「だれか」こそ、イエス・キリストであった。ここでモーセが「私のような一人の預言者をあなたのために起こされる」(15)と言ったのは、神のひとり子が人として地上に来られることの預言だったのである。▼ナザレの青年イエスには、どのような人でも恐れず近づくことができ、病気をいやされ、罪のゆるしを宣言され、サタンから解放された。このお方は旧約聖書でモーセが預言したことの成就(じょうじゅ)として来られたお方であることがわかる。しかしイスラエルは神の愛そのものである主を拒否し、十字架につけたのであった。

おそれなく近寄れと 主は語りたもう
信仰の手のばしつつ 近づきまつらん
いよいよ汝(な)がそばに われを引き寄せ
いよいよ主よ、汝が愛の 広さ知らせよ

み前にて過ごし得る わが喜びよ
へだてなき友のごと 扱いたもう
いよいよ汝(な)がそばに われを引き寄せ
いよいよ主よ、汝が愛の 広さ知らせよ

<新聖歌341ー1,3節 詞 Fanny J Crosby,1820-1915>

朝の露 <聖絶>

2024-08-08 | 申命記
「あなたは、あなたの神、主があなたに与えるあらゆる民を滅ぼし尽くす。彼らにあわれみをかけてはならない。また彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへの罠となるからだ。」(申命記7:16新改訳)

モーセの命令は、カナン原住民とその偶像をすべてほろぼせというきびしいものであった。そうしなければ、彼らの宗教と生き方に染まってしまい、イスラエル民族自体が神の怒りによってほろぼされるからである。▼この命令は新約時代の今、信仰的、霊的に次のように読みかえることができる。「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父への愛はありません。」(Ⅰヨハネ2:15同)▼今は世界全体がカナンの宗教と文明に染まっているようなもので、それに浸(ひた)って生きていくと、私たちの一生は滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にされてしまう。神の国に入るどころか、永遠の滅びに落ちるしかなくなる。だからキリスト者は罪深い生活を心から憎み、キリストと共に生きるきよい人生を追い求めなければならないのである。▼「私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とワナと、また人をほろびと破滅(はめつ)に沈める、おろかで有害な多くの欲望におちいります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦難で自分を刺しつらぬきました。しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。」(Ⅰテモテ7~11同)

朝の露 <三大祭り>

2024-08-07 | 申命記
「あなたの神、主のために、主が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。」(申命記16:15新改訳)

本章はユダヤ三大祭り、過ぎ越し、七週の祭り、仮庵(かりいお)の祭りの規定を記している。ふしぎにも、主イエスは過ぎ越しの祭りのとき十字架で屠(ほふ)られ、七週の祭りのとき御聖霊が降臨、エルサレム教会が作られた。つまりすべての祭りの本体はイエス・キリストにあるといってよい。では仮庵の祭りとは何を表すのか。これは来たるべき神の国において、あがなわれた信仰者たちがイエス・キリストを中心に開く天の祝宴をあらわすのではなかろうか。▼主は一粒の麦として地にまかれ、よみがえって多くの麦が地に芽を出した。それがこの二千年世界中に広がり、実を結び続けている。その大収穫(だいしゅうかく)のときこそ、再臨と神の国出現である。新しい御国に入ることになった膨大(ぼうだい)な人々が天の祝宴(しゅくえん)に集(つど)う時、それは天地万物が喜びでゆれ動き、賛美と感謝が満ちるときとなろう。▼教会は主のはなよめとして、この宴の中心におかれるのだ。ハレルヤ

朝の露 <貧しい人が>

2024-08-06 | 申命記
「貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。『あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。』」(申命記15:11新改訳)

イエスを救い主と仰ぐ信仰者たちは、やがて再臨のとき、それぞれが神の前に進み出る。そのとき主はひとりひとりにおたずねになるであろう。あなたのそばに、わたしが置いた貧しい人に対し、あなたはどのような愛を現したか?と。もしその時、「いえ、私は少しも気づきませんでした」と答えるなら、主はすべての記録映像を天使たちの見ている中、公開されるであろう。▼門前に映(うつ)し出された病者ラザロ、宴会(えんかい)のただなかにいる金持ち、そして衰弱死(すいじゃくし)していくラザロの様子(ルカ16章)、私がその金持ちであったら、もはや言い訳はできない。このような光景はほんとうに起こり得ると思う。だから私たちは小さな善を行うことに飽(あ)いてはならない。小事(しょうじ)に忠実でなければ、だれがその人に天の財産を任(まか)せるであろう、と主は仰(おお)せられたのだから。