しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <怒りと激怒をもって>

2024-08-29 | 申命記
「主は怒りと激怒(げきど)をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。」(申命記29:28新改訳)

モーセはモアブの平野でイスラエルを前にし、約束の地に入ったら、神の命令に従うよう切々と訴えた。もし律法を捨て、偶像礼拝と堕落(だらく)の道を歩むなら、神はこれ以上ない激怒をもってお前たちをこの地から根こそぎにし、ほかの地に投げ捨ててしまうだろうと。▼悲しいことにモーセの心配は的中(てきちゅう)した。カナン占領後しばらくたつと、イスラエルは目もあてられないほど堕落し、モーセ律法を投げ捨て、カナン人の偶像を拝み、あらゆる罪を犯すようになった。神から遣わされた預言者たちがいのちがけで忠告したが、人々は彼らをあざけり、迫害し、殺した。こうして道徳も信仰も地に落ち、神の契約を破ったことによるのろいは選民をおおい、約800年後、イスラエルは世界に追放されてしまったのである。▼彼らの歴史は、世界中の人々に対する天の警鐘(けいしょう)であることを忘れてはならない。なぜならモーセは次のように言うからだ。「しかし私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いを結ぶのではない。今日ここで私たちの神、主の前に私たちとともに立っている者たちとも、今日、私たちとともにここにはいない者たちとも結ぶのである。」(14,15同)▼前章に記された「のろいの契約」の恐ろしさは、現代の社会にのぞんでいる。これを逃れる道はただひとつ、主イエス・キリストの十字架のみもとに来ることである。理由は、イエス・キリストは十字架でのろわれた者、モーセ律法の終わりとなったお方だからだ(ガラテヤ3:13)。だれでもキリストを信じ、御霊と共に歩むなら、その人は新しい創造の世界に移されるため、律法はその人に適用されなくなるからである。新約の自由とはこのことなのである。

朝の露 <祝福かのろいか>

2024-08-28 | 申命記
「主は、あなたが怖(こわ)がっていたエジプトのあらゆる悪疫(あくえき)を、再びあなたにもたらされる。それがあなたにまといつく。」(申命記28:60新改訳)

モーセは前章に続いて、イスラエルが律法を守ったときの祝福、守らなかったときののろいを対比させて描く。よくみると祝福の内容よりも、のろいの内容のほうが多い(祝福は1節~13節、のろいは14節~68節で約5倍)。まるでモーセはイスラエルが律法を守らず、のろわれた状態に落ちることを知り尽くしていたかのようだ。▼このように、イスラエルの歴史を読むと、のろいの約束が成就(じょうじゅ)し、モーセ預言の適確(てきかく)さにおどろかされるが、むしろ私は現在の世界全体に臨(のぞ)んでいる災害がこの預言に酷似(こくじ)しているのではないかと心配になる。▼コロナウイルスをはじめ、世界には次から次へと疫病が押し寄せている感があるし、自然界の異常は天変地異と呼ぶにふさわしいありさまになりつつある。創造主への真剣な悔い改めが今ほど必要なときはないと思う。それはすなわち、救い主イエス・キリストに心の底から立ちかえることにほかならない。「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木、時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」(詩1:1~3同)

朝の露 <さばきを曲げる者>

2024-08-27 | 申命記
「『寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい。」(申命記27:19新改訳)

カナンに入ったイスラエル人たちは、モーセ律法を厳格(げんかく)に守ることを命じられた。その一つは、弱い立場にある者に公平と愛顧(あいこ)の精神をもって接することであった。▼弱い立場にある人々といえば、その代表は寄留者(きりゅうしゃ)、孤児(こじ)、やもめである。これらの人たちはふつうの場合、財産も、有力な保護者もおらず、何かにつけて搾取(さくしゅ)の対象にされがちで、現代でもその傾向は変わらない。そこで神は真っ先に社会的弱者をいたわり、手厚い保護を加えるよう命じたのだ。▼特にこの章にある命令の最後は「・・・のろわれる」との言葉で締めくくられ、十二回にも及ぶ。いかに神がエバル山ののろいを重要視しておられるかの証拠である。しかしイスラエルは守らなかった。王国時代の預言者たちが入れ代わり立ち代わり「公平と正義を実行せよ」と叫んだのに、それは無視され続け、ついにのろいの契約どおり、国は滅亡(めつぼう)してしまった。▼モーセ律法はキリスト者に取り、不要なものでは決してない。なぜか?イエス・キリストのまなざしを通して見ると、そのすべてが神の愛と恵みの川であることがわかるからだ。パリサイ人のように、自分たちの権力、支配の手段として用い、キリストを排除していくとき、たしかにそれは人を殺す儀文となるであろう。しかし本当は律法は人を活かすために記されたものであり、神の子の出現によっていのちを吹き込まれたものとなったのであった。

朝の露 <乳と蜜の流れる地>

2024-08-26 | 申命記
「あなたの聖なる住まいの天から見下ろして、御民イスラエルと、あなたが私たちの父祖たちに誓われたとおり私たちに下さった土地、乳と蜜の流れる地とを祝福してください。」(申命記26:15新改訳)

イスラエル人たちは約束の地、乳と蜜の流れる地を占有したとき、そうさせてくださった神への感謝を決して忘れないよう命じられた、それをくわしく記したのが本章である。▼彼らは感謝のそなえものを主にささげる時、神の指定された場所でそうするよう固く定められた。最初はシロというカナン中部に幕屋が置かれたので、人々は毎年そこに上ったのであったが、ソロモン時代にエルサレム神殿が造営され、正式な礼拝場所となった。▼にもかかわらず、王国の歴史を読むと、人々の多くは命令を守らず、国中の高い場所や木々の根元で供え物を献げ、自分勝手な礼拝を続けた。そうするうちに次第に偶像礼拝が始まり、不品行も行われるようになって、国力は弱まり、最後にはアッシリアやバビロンに占領されて滅びたのである。▼神への正しい礼拝と感謝をささげるのがどんなに大切かをあらためて思わせられる。「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、へだての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。」(エペソ2:11~15同)

朝の露 <二重計測の罪>

2024-08-22 | 申命記
「こう言うのは、このようなことをして不正を行う者すべてを、あなたの神、主が忌み嫌われるからである。」(申命記25:16新改訳)

「このようなことをして」とは、重さや量目を量るとき、異なる目盛りのついた秤(はかり)や升(ます)を用意し、不正をすることである。もしこれらの不正が横行すれば、世の中の正義は崩れ、倫理道徳は腐敗してしまう。だから主は特にこの罪をきびしく注意された。わが国でも重要な升や秤には、国家の正式な検定印が必ず押されている。▼さて、このことを霊的、信仰的に味わうことも大切だ。つまり、私たちキリスト者は他人の何かを判断する場合、心に二重基準(ダブル・スタンダード)を設けてはならない、ということ。ヤコブが言う通りである。「あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい・・・』と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。」(ヤコブ2:3,4同)