「主は怒りと激怒(げきど)をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。」(申命記29:28新改訳)
モーセはモアブの平野でイスラエルを前にし、約束の地に入ったら、神の命令に従うよう切々と訴えた。もし律法を捨て、偶像礼拝と堕落(だらく)の道を歩むなら、神はこれ以上ない激怒をもってお前たちをこの地から根こそぎにし、ほかの地に投げ捨ててしまうだろうと。▼悲しいことにモーセの心配は的中(てきちゅう)した。カナン占領後しばらくたつと、イスラエルは目もあてられないほど堕落し、モーセ律法を投げ捨て、カナン人の偶像を拝み、あらゆる罪を犯すようになった。神から遣わされた預言者たちがいのちがけで忠告したが、人々は彼らをあざけり、迫害し、殺した。こうして道徳も信仰も地に落ち、神の契約を破ったことによるのろいは選民をおおい、約800年後、イスラエルは世界に追放されてしまったのである。▼彼らの歴史は、世界中の人々に対する天の警鐘(けいしょう)であることを忘れてはならない。なぜならモーセは次のように言うからだ。「しかし私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いを結ぶのではない。今日ここで私たちの神、主の前に私たちとともに立っている者たちとも、今日、私たちとともにここにはいない者たちとも結ぶのである。」(14,15同)▼前章に記された「のろいの契約」の恐ろしさは、現代の社会にのぞんでいる。これを逃れる道はただひとつ、主イエス・キリストの十字架のみもとに来ることである。理由は、イエス・キリストは十字架でのろわれた者、モーセ律法の終わりとなったお方だからだ(ガラテヤ3:13)。だれでもキリストを信じ、御霊と共に歩むなら、その人は新しい創造の世界に移されるため、律法はその人に適用されなくなるからである。新約の自由とはこのことなのである。