しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <さばきについてとは>

2023-09-23 | ヨハネ福音書
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16:11新改訳)

まもなく十字架につけられるという時、主は弟子たちにその真相を告げられた。表面的にみれば、ユダヤ人議会(サンヒドリン)で「神をけがす者」として有罪になり、ローマ総督(そうとく)ピラトにも反乱罪(はんらんざい)で死刑を宣告(せんこく)されたイエスは、極悪人(ごくあくにん)と同じように扱われ、十字架刑になった。誰の目にもみじめで哀(あわ)れな敗北者の姿と映(うつ)ったにちがいない。▼だがこの世の判断はそうであっても、天においては反対であった。神の敵として狡猾(こうかつ)な計略(けいりゃく)と反逆のかぎりをつくしているサタンに永遠の死を宣言したのが、ほかならぬイエスの十字架である。かつてエデンの園で、神は蛇に「わたしは敵意(てきい)を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」(創世記3:15同)と仰(おお)せられたが、何千年ものあいだ綿密(めんみつ)に計画されてきた神のご計画が、いま実行に移され、サタンがさばかれ、その知恵の中枢(ちゅうすう)である彼の頭がイエスによって砕かれ、生命をうばわれることになった。じつにキリストのおことばはその宣言なのである。

朝の露 <刈り込みをなさいます>

2023-09-22 | ヨハネ福音書
「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:2新改訳)

ぶどうの枝(私たち)は必死で木の幹(イエス)にしがみついているわけではない。ありのままの姿で幹(みき)から生えているだけである。すると日の光が葉を照らし、地下から水と養分が供給され、いつのまにか美味(おい)しい実がたわわに実る。▼イエス・キリストが十字架に死んでくださったほど私たちは愛されている。そのおどろくような愛を感謝して受け、日々その事実の中を生きる。キリスト者がすべきことは、ただそれだけだ。しかし真に謙遜(けんそん)な信仰をもってそうしている人は少ない。そこに実を結ばない理由があるのではないだろうか。朝起きるたび、「ああ、私は主イエスに愛され、こうして今日も一日を生きられるのだ。十字架のあがないで無条件に罪がゆるされ、心に何の責め苦もおぼえずに今日も生きていいのだ。なんてすばらしい救いなんだろう」と深く感謝し、立ち上がる、日々そのようにスタートしているだろうか。▼この章前半で、主は「わたしにとどまりなさい」
とあるように、「とどまる」との言葉を11回もくりかえされた(4~10節)。主に愛されている事実を心から喜び満足する信仰生活、神はそれをどんなに望んでおられることであろう。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(9同)


朝の露 <助け主がいつまでも>

2023-09-16 | ヨハネ福音書
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ14:16新改訳)

人が救いに入れられるとは、第三位の神=ご聖霊が永遠にその人と共にいてくださる、そのような関係に入ったということである。それは同時に、父なる神がその人を愛し、天の父と御子イエスがその人と共に住むという永遠の家族が出現したことでもある。▼この驚天動地(きょうてんどうち)の奇蹟が、今生きている人生で起きる、それが救われるということだ。その昔、イスラエル王ダビデは、自分の天幕に神の箱を迎えるとき、行列の先頭で、うれしさのあまり、とんだり、跳(は)ねたりして踊(おど)った。一国の王様なのに!▼だが一人の人間がキリストの福音によって救われ、神の国の住民になるとは、それどころではない。第三の天が喜びで鳴動(めいどう)し、千々万々の天使たちが宇宙を揺(ゆ)り動かさんばかりの歓声(かんせい)をあげ、主の御名をほめたたえることだ。教会のほんとうの姿は、この歓喜(かんき)が渦を巻いているところにある。あの鳴門海峡(なるとかいきょう)の渦潮(うずしお)ように。主よ、私たちの教会をそのようにしてください!

朝の露 <主よ、どこへ?>

2023-09-15 | ヨハネ福音書
「シモン・ペテロがイエスに言った。『主よ、どこにおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。』」(ヨハネ13:36新改訳)

ついに主イエスが弟子たちと別れる時が来た。▼燃えるような思慕(しぼ)からペテロは尋(たず)ねる、「主よどこへ行かれるのですか?」と。それに対し、「今はついて来ることができない。しかし後にはついて来ることになる」とお答えになる主。▼どんなにイエスを愛し慕っていても、それ以上は共に行けない一線がある。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(→ヨハネ3:5)のだ。たとえ親子、夫婦、深い師弟関係でも、二人が御霊をともに受けていなければ、永遠の別離は必ず来る。私たちはその悲しさ、痛みを想像しているだろうか。▼愛する者と共に御国へ入れないときが来る、それを思えば夜も眠れず、泣きつつ祈るのが当然である。家族一同が救いにあずかるまで、枕を濡(ぬ)らし祈り続けているだろうか。主が再臨されるとき、そのことは起きるであろう。「そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。」(マタイ24:40,41同)

朝の露 <ラザロも殺そうと>

2023-09-09 | ヨハネ福音書
「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。」(ヨハネ12:10,11新改訳)

祭司長や指導者たちは、完全に悪魔のとりこになり、狂気(きょうき)に支配されていた。死んで四日たった人間が生き返るというのは、普通では決して起こりえないことである。この事実こそ、イエスが全能者であられる動かぬ証拠(しょうこ)なのに、理性を失った彼らはイエスとラザロを共に殺してしまおうと計画したのである。心を支配していたのは、現在の支配体制を守り、保持しなければならない、そのためには邪魔者(じゃまもの)を排除(はいじょ)すべきというおろかな考えであった。▼自己保存(じこほぞん)という欲望は、悪魔の最後の砦(とりで)、彼が生き残る温床(おんしょう)である。死をも打ち破ったいのちの君をどうして殺すことができよう。そのできないことを、あえてしようとしたユダヤ指導者たちの背後(はいご)にいたのが彼だった。こうして彼はひとり子を十字架につけるため、ユダヤ指導者たちの心を占領し、全力をあげて攻撃の矢を射(い)たのである。だがむしろ、その矢は彼自身の頭(かしら)をつらぬいたのだ。