【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語」:東新宿駅前バス停付近の会話

2007-09-12 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

この薬屋にリコリスって内服液、あるかな。
リコリスって内服液の名前なの?花の名前じゃないの?
風邪をひいたときに飲む滋養強壮の内服液だ。
あなたくらいの年になると、花より体が気になるってことね。
うるさい。リコリスって名前の花があるくらい、俺だって知ってる。真っ赤な花で、日本語で「彼岸花」とか「まんじゅしゃげ」とか言うんだろ。
ははは。「まんじゅしゃげ」漢字で言えないんだー。その花がモチーフになった映画が、「22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語」。
象の鼻みたいに長ったらしい題名だけど、「22才の別れ」にも「Lycoris葉見ず花見ず物語」にも題名にしたいそれなりの理由があるんだよな。
「22才の別れ」は伊勢正三の大ヒット曲。あの歌が流行っていたころに青春を送った男の、かなわなかった恋への悔恨。
「Lycoris葉見ず花見ず物語」は葉がでるときには花が咲かず、花が咲くときには葉が出ないというリコリスの花になぞらえた、母と娘の因縁の物語。
二つの話を一つに合体したような印象は、映画の中にもうかがわれる。
それが、こんな長い題名になった理由だな。
理由と言えば、大林宣彦の映画には宮部みゆきが原作の「理由」っていう映画があったけど、テンポというか、画面構成というか、映画の語り口があれに似てない?
流れるカメラワークと早口言葉のような喋りと顔色一つ変えない登場人物の織り成す物語が台風のようなものすごいスピードで進んでいくんだよな。
一秒一秒、一コマ一コマの情報量がハンパじゃない印象なのよね。
そこで展開される物語がなんとも身につまされて、泣かされる、泣かされる。
そう?昔別れた女の娘が目の前に現れて、昔の自分をウダウダ思い出す優柔不断な中年の話よ。陳腐もいいところじゃない。
それがいいんだ。あの優柔不断さがグッとくる。
そう?女の娘って言ったって、自分の子どもじゃないのよ。なのに、あんなに親身になって、彼女が恋人とうまくいっていないのを知ると、昔の俺たちみたいな過ちを犯すなよ、って声援を送るんだけど、その過ちっていうのが、好きなのになぜか手を出さないまま別れちゃったっていう、いまどきこんな男いる?っていう話。
その優柔不断さに泣かされるんだ。
自分にはなかった純粋さに?
ああ。って、違う。男にはいくつになっても、ああいう側面があるんだ。
あなた、中年男が昔を思い出して、悔恨と断念に明け暮れる物語って、大好きだもんね。同じ伊勢正三の歌をモチーフにした「なごり雪」もまったく同じ構造の話だったし。
九州の臼杵っていうロケ地も一緒だし、「なごり雪」の中で偽物の雪を降らした洋館もチラッと出てきて懐かしいこと、このうえない。
でも、今回は臼杵だけじゃなくて、隣の津久見も舞台にしているんだけど、ここの風景が石灰を採掘したあとの、痛々しいほど白い岩山。
その前を主人公を乗せた車が走る、その映像の切り取り方が、実になんともいえない異様な気分を我々に与える。
臼杵は高度成長の波に飲まれることもなく、素朴な町並みを残して今の時代「善」とされる存在、津久見は高度成長時代の開発の波をもろにかぶって、今の時代「悪」とされる存在。
でも、大林宣彦は、そういう杓子定規な捉え方をしないで、時代が要求したものとして、どちらも肯定している。あの時代にはあの時代の考え方があったじゃないかという。その懐の広さに心底しびれる。
映像として印象深いのは、真っ赤な野焼きの中を突っ走る車のシーン。あんなところ走る必然性まったくないのに、これまた異様としか言いようがない映像よね。
監督の趣味が全面展開しちゃったな。見た目は違うけど、自分の好きなことをやり放題という意味では、いい年して、和製タランティーノだぜ、大林宣彦は。
そりゃまた、大胆な発言。タランティーノと大林宣彦を並べるなんて、世界広しといえど、あなたくらいじゃない?
でも、お前の好きそうなシーンもたっぷりあったじゃないか。
明かりを仕込んだ竹筒が延々と並ぶシーンでしょ。ほんと、この世のものとも思えない幻想的な美しさだったわ。
そして悔恨と断念の物語は、伊勢正三の歌とともに終わる。
「なごり雪」は伊勢正三の歌で始まり、「22才の別れ」は伊勢正三の歌で終わるのよね。まるで二本の映画をはさみこむように。
そう考えると、この二本の映画、昔好きだった女が死ぬっていうのも含めて、合わせ鏡のような存在だな。
でも、主演の女の子は全然違うタイプだったわ。
ああ、美少女好きの大林宣彦がとても美少女とは呼べない女の子を主人公にするなんて、「転校生」以来じゃないか。
って、小林聡美のこと?彼女だって、あの頃は可愛かったじゃない。
まあ、年取って、若けりゃ誰でもよくなったってところかな。
それは、あなたのことでしょ。
おいおい、俺は大林監督よりずっと下の世代だぜ。体だってピンピンだ。
リコリス飲んでるくせに?


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東新宿駅前バス停



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「HERO」:大久保通りバス停付近の会話

2007-09-08 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

いま、池袋から渋谷まで道路の下は、地下鉄の工事の真っ最中だけど、地下鉄が完成したら、ここのバス路線はなくなるのかしら。
さあ、どうだろうな。検察があれば警察がいらないように、地下鉄があればバスはいらないのかもな。
なに、その飛躍した例え。
「HERO」を観てたら、そんなことを思ったってことだ。
どうして?
だって、容疑者の自白と一人の目撃者の話を聞いただけのずさんな警察の捜査で検察に送られた事件を、弁護士が「ヘンだろ」と指摘したんで、あわてて検察が再捜査をしたら、確実な証拠ではないけど、まあ検察に有利な証拠が出てきたんで、みんながんばったことだし、ここらで容疑者を犯人にしてもいいか、ってことにした話だろ。だったら、警察なんていらなくて、検察が最初から捜査してたらよかったんじゃない?
まあ、ストーリーをまとめてしまえばそうかもしれないけど、それを言っちゃあ、「踊る大捜査線」がいらなくなっちゃうじゃない。
いちど、「HERO」vs「踊る大捜査線」っていう番組でもつくって競ってみたらどうだ?どっちの捜査が優秀でしょうか、っていう。
でも、「HERO」の登場人物が、あまり捜査をしない、地味でおもしろみのない検察だったら、「HERO」の世界自体が成り立たないじゃない。
検察なんだから、もうちょっと理詰めで勝負しろよ、ってことだよ。あれだけ大騒ぎして、結局、弁護士に「これじゃあ、近くにいたという証明にはなるが、その場で殺害したという証明にはならない」って言われて、それをそのままほっといて有罪なんてありかよ。
そんな細かいこと、どうだっていいじゃない。検察は汗かいてがんばってたし、たかが娯楽映画なんだから、おもしろければそれでいいのよ。タモリの政治家役なんて、サイコー。
そういう態度が問題だって言いたいんだよ、俺は。テレビっていうのは食事をしたり、くつろいだりしながら明るいとことで観るもんだから、あまり繊細につくりこんでも、観ている人の神経がそこまで集中できないってこともあるだろうけど、暗闇でじっくり向き合って映画を観る人に、テレビをつくるような感覚の映画を観せても、スカスカな出来栄えに見えてしまうってことなんだ。
つまり、映画をテレビみたいな感覚でつくっているんじゃないか、って言いたいわけ?
ストーリーもそうだけど、画面全体から漂ってくる空気がテレビのスペシャル版なんだよな。
いいじゃない、みんな、そういう気分で観にきているんだから。
そう、作る側も見る側もみんな共犯だ。劇中で香川照之が言うセリフじゃないけど、「俺に言わせりゃ志が低い」としか言いようがない。こんなもんだろ、と思わずに、もう一歩、腰をすえて撮れば、娯楽映画として素晴らしい出来になったろうに、と思うと歯がゆくてしかたがない。司法の象徴の天秤の像の見せ方なんて工夫がなさすぎる。
私は、木村拓哉たち検察チームの活躍が楽しめたんで、十分だったけどね。
俺だって楽しめたさ。あの、おなかに巻くエクササイズの道具。あれは効きそうでいいけど、どこで売ってるんだ?
でしょ。細かいところにいろんな工夫がしてある映画なのよ。
でも、小手先の工夫だ。そういう工夫は一生懸命するのに、どうして映画としての本質に迫ろうとしないんだよ。
真実を求める。それがこの映画の本質でしょ。
なのに、最後の詰めを放棄している。
結局、テレビ・ディレクターは映画には向かないってこと?
そんなことは言ってない。今年亡くなったロバート・アルトマンだって最初はテレビのディレクターだったのに、映画を撮ったら本物の映画になってた。
そんな、比較の相手が悪いわよ。
その考えが、志が低いって言ってるんだ。
あのねえ、頭の固いあなたに言ってもわからないでしょうけど、乗り物にも、地下鉄もあればバスもあるように、映画にも歴史に残るようなご立派な映画もあれば、欠点だらけだけど楽しくて愛すべき映画もあるのよ。
いいや、映画館で、テレビを観たいか、映画を観たいかって話だ。
おもしろければ、どっちでもいいじゃない。
そんなことはない。つまらなくても映画が観たいね、俺は。
きっと、地下鉄が出来ても、バスに乗り続けるタイプなんでしょうね、あなたは。
ははは。うまいこと言うな、お前も。
誉めてるわけじゃないんだけど。


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大久保通りバス停



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「オフサイド・ガールズ」:新宿コズミックセンター前バス停付近の会話

2007-09-05 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

「コズミックセンター」って何?
よくわからない名前だけど、中には体育館とか屋内プールがある。
それって、女性が入ってもいいの?
当たり前だ。何でそんなことをあらためて聞くんだ?
いえ、イランじゃ女性がサッカーを観戦しちゃいけないらしいから、日本にも私の知らないところで意外な法律があるかもしれないなと思って。
バスの運転手は、シートベルトをしなくていいとか?
エ、そうなの?
泉に投げ入れられたコインを拾ったら犯罪になるとか?
エエッ、そうなの?
しかし、さすがに、女性はサッカー観戦しちゃいけないなんていう決まりに匹敵するような理不尽な法律は日本にはないだろう。
でも、イランでは実際にあるみたいよ。
ははあ、「オフサイド・ガールズ」を観たんで、そんなことを思ったんだな。
女性がサッカーを観戦しちゃいけないイランで、ワールドカップに出場できるかどうかを賭けた大事な試合をどうしても観たい女の子たちが、男装してスタジアムに入りこもうとする、日本ではあり得ない話。
でも、日本人の女性なら、イランでもサッカー観戦していいんだよな。
その理由が、日本人はイランのことばがわからないから、男たちの汚らしい罵声が聞こえないだろうという、これまたヘンな理由。
イラン人は男たちの罵声が聞こえるから入場禁止ってわけか。
サッカーファンの女の子たちが、監視の兵士をくぐりぬけスタジアムに入るためにどんな工夫をするのかが見せ場なのかと思ったら、ほとんど無防備に入り口に行くから簡単に捕まっちゃって、気が抜けちゃったわ。
そこで女の子たちを捕まえた兵士たちも、本音では、ヘンだよね、と思っているらしくて、対応がやたらヤワなところがおもしろい。
スタジアムの外に設けられた簡易の隔離施設で、女の子たちと兵士たちがウダウダと会話を交わしているうちにイランが勝利するってだけの話。
当人たちにとっては深刻な問題かもしれないけど、映画としては明らかに脱力系の映画だよな。
日本の監督でいえば、矢口史靖監督が取り上げそうな題材よね。
「ウォーター・ボーイズ」とか「スウィング・ガールズ」とかに通じる世界だもんな。イランという土地柄のせいか、彼の映画ほど洗練されてはいないけど。
見たいっていう側と見せられないっていう側が真剣に対立するんじゃなくて、気の抜けたやりとりに終始するという・・・。
実際にイラン・バーレーン戦を撮影して編集したらしいけど、ほとんどがスタジアムの外の話で試合のシーンが出てこないっていうのが、また人をおちょくっている。
女性はサッカーを見ちゃいけないなんて、明らかに人権蹂躙で、日本だったら大問題だろうに、こういうおおらかな映画にしてしまう、っていうのもまたイランの国民性なのかしら。
しかし、日本にここまでおかしな法律はないが、おかしな名前の施設ならあるぞ。
何?
「コズミックセンター」。ふつう、こんな意味のわからない名前、つけるか。
つけない。


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新宿コズミックセンター前バス停



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「デス・プルーフinグラインドハウス」:都立障害者センター前バス停付近の会話

2007-09-01 | ★池86系統(東池袋四丁目~渋谷駅)

この道を行くと、新宿スポーツセンターがあるはずよ。
スポーツはもういいよ。
どうして?
タランティーノの「デス・プルーフinグラインドハウス」を観たら、スポーツをしたあとのような爽快感を覚えたからな。
ああ、そういう感想もあるんだ。
あのカーチェイスはスカッとしたと言うしかないだろう。
後半はそうだけど、前半は?
前半は、まあ、爽やかさとは無縁のジトッとした話だったな。
この映画、グラインドハウスという、かつてアメリカにあったB級映画を連続上映する場末の映画館向けにつくられた映画を復活させようと、ロバート・ロドリゲスの「プラネット・テラー」と二本一組でつくられたのに、日本では別々に公開されたっていう、いわくつきの映画なんだけど、「デス・プルーフ」自体が、前半と後半の二本立てみたいな映画だったと思わない?
それだけ、前半と後半で雰囲気がガラッと変わったってことだろ。
前半は、チープな映像といい、適当な音楽といい、いいかげんな編集といい、三流の色気のする女優陣といい、いかにも12チャンネルの木曜映画劇場でひっそりと上映されそうなB級の出来で、そういう意味ではグラインドハウス調というコンセプトにぴったりなんだけど、後半になると、色調も映像もちょっと洗練されちゃって、いま風のシネコンで上映されてもあまり違和感のない映画に変わっちゃったような気がするのよ。
前半にあったいかがわしさが後半にはなくなっちゃったってことだろうけど、そんなアンバランスさも含めて、やりたいことをやっちゃっうってところが、グラインドハウスの精神ってことなんじゃないのか。
なるほど。前半も後半も、女と車とアクションだけという道具立ては、B級映画そのものだったしね。
USAバージョンはもっと短いらしいけど、どこを切ったのかな。
日本じゃ、USAバージョンは六本木だけで公開されていたけど、二本立てで3,000円だった。B級映画を格安の料金で上映するというグラインドハウスの精神とは矛盾する料金設定よね。
それを言ったら、ドルビー、THXなんていう上映環境も、とてもグラインドハウスの精神を継いでいるとは思えない。
じゃあ、って言って、こういう映画を文字通り場末の映画館で観ても虚しくなるだけで、ちゃんとしたシネコンで擬似体験するからおもしろく感じるんじゃないかしら。
そうだな。昔の映画館みたいに、タバコの煙と便所の匂いに包まれて観たって、実はおもしろくもなんともないかもな。というか、それだけ贅沢に慣らされちゃったんだよな、俺たち映画ファンも。
劇中で話題になる「バニシング・ポイント」をリアルタイムで観ている人だって、ほとんどいないだろうしね。
タランティーノもリアルタイムで観ている年齢じゃないような気がするんだけどな。
63年生まれだから、リアルタイムで観ているとすれば7歳くらいよ。
待て待て。だったら、リアルタイムで観ている可能性もあるぞ。
どうして?
「バニシング・ポイント」っていうのは、ベトナム戦争で疲弊したアメリカの若者たちの閉塞感を描いた社会派映画なんだけど、「デス・プルーフ」で言及されているのは、その象徴となった車のかっこよさばかりなんだ。7歳で観ていたとすれば、そういう社会背景なんか理解できないだろうから、車のかっこよさばかりがまぶたに残ったとしても不思議はない。
それはありうるわね。
いずれにしても、映画が好きで好きでたまらないっていうタランティーノの心意気は十分に伝わってくる映画だよ。
それに、あのカーチェイスのばかばかしさは、あなたの言うように、スポーツをしたあとの爽快感に近い感じがしないこともないかもしれないわね。
なんだ、そのもって回った言い方は?たまには素直に俺の意見にも同意しろよ。
ダメよ、男はすぐつけあがるから。
って、「デス・プルーフ」の女たちみたいな顔して言うなよ。


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