Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ラザレフ/日本フィル

2014年10月25日 | 音楽
 注目のラザレフ/日本フィルのショスタコーヴィチ・チクルス。選曲が、第4番、第8番、第11番というのが興味深い。なぜこの曲なのか、なぜあの曲ではないのかと、あれこれ妄想をたくましくする。

 1曲目はチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。じつに正統的な(ロシア的に崩していない)演奏だ。格調の高い演奏。というのもこの曲には忘れられない想い出があるからだ。たぶん今から30年くらい前だったと思うが、ユーリ・バシュメットがモスクワ・ソロイスツを率いて来日公演をした。そのときこの曲を演奏した。ロシア的な節回しとはこういうものかと驚いた。それまで聴いたことのない節回しだった。ヴィオラを弾くときのバシュメットからは想像もできないことだった。

 ラザレフの演奏はその意味では対照的だ。西洋音楽の伝統にきちんと位置付けられた演奏(=解釈)だった。模範的とも思える造形。そう、ラザレフは豊かな歌い方と見通しのよい造形とが両立する指揮者なのだ。だから、横浜定期でよく取り上げるブラームスにも適性を発揮するのだ。

 2曲目は待望のショスタコーヴィチの交響曲第4番。ステージを埋め尽くすオーケストラが壮観だ。弦は16型。Wikipediaには22‐20‐18‐16‐14の編成と書いてあるが、あれはスコアにそう指定されているのだろうか。

 巨大なオーケストラの咆哮も凄まじかったが、聴くべきところは弱音のコントロールだった。薄くて繊細な弱音だ。‘爆演’という言葉があるが(わたしは好きではないが)、その言葉ほどラザレフに相応しくない言葉はない。ラザレフの演奏はその対極にある。

 思えば、この曲の名演にはいくつか出会ったが、ラザレフのこの演奏は、ロシア・アヴァンギャルド的な性格を忘れずに、(複雑怪奇ではあるが、それでも必然性をもった)この曲の形式を見出し、さらには第3楽章終盤の悲劇的な暗転を(インパクトをもって)捉えた演奏――この曲のすべてをあるべき位置に収めた演奏――だった。

 日本フィルの演奏も見事だった。あえて言うなら、一皮むけた感じがした。楽員は必至だったかもしれないが、でも、一種の落ち着きというか、ラザレフのやりたいことを理解し、それを実現する余裕がどこかに感じられた。

 第3楽章での藤原功次郎さんのトロンボーン・ソロに瞠目した。すばらしい。この曲にあんなソロがあったのか――。
(2014.10.24.サントリーホール)
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