東京シティ・フィルの7月定期は常任指揮者の飯守泰次郎さんの指揮で「ベートーヴェン交響曲全曲シリーズ」の第2回だった。
(1)ベートーヴェン:「エグモント」序曲
(2)ベートーヴェン:交響曲第8番
(3)ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
「エグモント」序曲は近年まれな熱い演奏だった。今どきのスマートな演奏とは一線を画す演奏。私は昔読んだゲーテの戯曲を思い出した。細かい点は忘れているが、戯曲のなかで躍動している豪快な精神は、今でも強烈に覚えている。その精神が演奏のなかで脈打っているように感じられた。
第8番は残念ながら感度の鈍い演奏だった。頑張ってはいるのだが、晴朗な気分やユーモアが出てこなかった。
第6番「田園」はベートーヴェンの感性の震えが伝わってくる名演だった。音のみずみずしさと、音に込められた内面の充実の両面で、これは見事な演奏だった。飯守さんにとっても会心の出来だったのだろう、演奏終了後に両手を胸の前で固くにぎりしめて、オーケストラに感謝の気持ちを伝えていた。それは感動的な光景だった。
飯守さんは前日に公式サイト↓のMessage欄に次のような文章を書いていた。
http://www.taijiroiimori.com/
「交響曲第6番「田園」は、いわゆる名曲であり、私自身もこの曲に癒されてきた1人ではありますが、今回マルケヴィチ版の洞察に触れ、この作品に対するマルケヴィチの読みがいかに深いか、感動しました。」
「このマルケヴィチ版の解釈を明日ほんとうに演奏で実現できるのか、怖いような気がするほどです。」
この文章に窺える音楽にたいする謙虚さに、私は感動した。
飯守さんは今回のシリーズで、マルケヴィチ版をきっかけに、自身のベートーヴェン解釈を洗い直しているのだろう。それは自らの音楽のルーツに向き合うことでもあるはずだ。端的にいって、今回のシリーズは、飯守さんの生涯の総決算の意味合いを帯びてきたように感じる。私はその現場に立ち会っているような気になってきた。
会場は多くの聴衆で埋まっていて、カーテンコールでは盛大な拍手が送られた。それは「田園」の名演にたいする拍手であると同時に、今進行しているシリーズが意味するものを十分感じ取っている拍手でもあったと思う。そういう熱いものが拍手には感じられた。
(2010.7.15.東京オペラシティ)
(1)ベートーヴェン:「エグモント」序曲
(2)ベートーヴェン:交響曲第8番
(3)ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
「エグモント」序曲は近年まれな熱い演奏だった。今どきのスマートな演奏とは一線を画す演奏。私は昔読んだゲーテの戯曲を思い出した。細かい点は忘れているが、戯曲のなかで躍動している豪快な精神は、今でも強烈に覚えている。その精神が演奏のなかで脈打っているように感じられた。
第8番は残念ながら感度の鈍い演奏だった。頑張ってはいるのだが、晴朗な気分やユーモアが出てこなかった。
第6番「田園」はベートーヴェンの感性の震えが伝わってくる名演だった。音のみずみずしさと、音に込められた内面の充実の両面で、これは見事な演奏だった。飯守さんにとっても会心の出来だったのだろう、演奏終了後に両手を胸の前で固くにぎりしめて、オーケストラに感謝の気持ちを伝えていた。それは感動的な光景だった。
飯守さんは前日に公式サイト↓のMessage欄に次のような文章を書いていた。
http://www.taijiroiimori.com/
「交響曲第6番「田園」は、いわゆる名曲であり、私自身もこの曲に癒されてきた1人ではありますが、今回マルケヴィチ版の洞察に触れ、この作品に対するマルケヴィチの読みがいかに深いか、感動しました。」
「このマルケヴィチ版の解釈を明日ほんとうに演奏で実現できるのか、怖いような気がするほどです。」
この文章に窺える音楽にたいする謙虚さに、私は感動した。
飯守さんは今回のシリーズで、マルケヴィチ版をきっかけに、自身のベートーヴェン解釈を洗い直しているのだろう。それは自らの音楽のルーツに向き合うことでもあるはずだ。端的にいって、今回のシリーズは、飯守さんの生涯の総決算の意味合いを帯びてきたように感じる。私はその現場に立ち会っているような気になってきた。
会場は多くの聴衆で埋まっていて、カーテンコールでは盛大な拍手が送られた。それは「田園」の名演にたいする拍手であると同時に、今進行しているシリーズが意味するものを十分感じ取っている拍手でもあったと思う。そういう熱いものが拍手には感じられた。
(2010.7.15.東京オペラシティ)