「土を喰らう十二ヵ月」をみた。とてもよかった。あちこちで紹介されている映画なので、あらすじを書くまでもないだろうが、一応書いておくと、信州の古民家に初老の作家の「ツトム」が住んでいる。妻は13年前に亡くなった。ツトムの家には時々担当編集者の「真知子」が訪ねてくる。ツトムは畑や山でとれた食材で食事を用意して、真知子と食べる。自然の恵みがおいしい。ツトムは真知子に淡い恋心を抱く。
山奥の古民家でのほとんど自給自足の生活。自然の中にいて、四季の移ろいを感じ、だれにも邪魔されずに、孤独を楽しむ。わたしをふくめて、多くの人が憧れる生活だろう。もちろん実行は難しい。手が届きそうでいて、届かない。だから憧れる。そんな生活だ。
究極のスローライフといってもいい。その象徴かもしれないが、時折カメが登場する。畑の隅を歩いていたり、泥水の中から顔を出したりする。カメだけではない。ニホンカモシカが樹間に見えたり、シカが現れたりする。本作品は自然映画でもある。
それと同時に、本作品は台所映画でもある。畑や山でとれた野菜・山菜を水で洗い、包丁で切り、鍋でゆでる。それらの一つひとつの動作が全編にわたって映し出される。やがて食卓が整う。一汁一菜の食卓は自然の恵みと、それを用意した人の手間暇の結晶だ。けっして粗食には見えない。
ツトムは亡妻の遺骨を墓におさめずに、家に置いている。近所に住む義母からは、早く納骨するようにと急かせられる。でも、その気にならない。そのうちに義母も急逝する。ツトムの家には亡妻と義母との二人の遺骨が並ぶ。ツトムはある日、小さな湖に行き、二人の遺骨を散骨する。二人は自然に帰った。
ツトムは死を想う。死は怖い。死神とは仲良くなれそうもない。だが、避けることはできない。では、どうすればいいのか。ツトムはある日、もう明日、明後日のことは考えない、今日一日が良ければそれでいい、という心境になる。平凡な心境かもしれないが、気張らずに自然体だ。
ツトムを演じるのは沢田研二。初老の男を好演している。本作品は沢田研二の存在感あってこその映画だ。若いころのオーラが、年月の堆積のうちに、独特の味をかもし出している。ツトムが60年前に漬けた梅干をもらって食べるシーンがある。最初は顔をしかめるほどしょっぱい。だが、口にふくんでいるうちに、まろやかな味になる。本作品における沢田研二はそんな味だ。真知子を演じるのは松たか子。ツトムとは親子ほども年が違うが、ツトムを理解している――そんな女性を感性豊かに演じている。
(2022.11.20.シネスイッチ銀座)
山奥の古民家でのほとんど自給自足の生活。自然の中にいて、四季の移ろいを感じ、だれにも邪魔されずに、孤独を楽しむ。わたしをふくめて、多くの人が憧れる生活だろう。もちろん実行は難しい。手が届きそうでいて、届かない。だから憧れる。そんな生活だ。
究極のスローライフといってもいい。その象徴かもしれないが、時折カメが登場する。畑の隅を歩いていたり、泥水の中から顔を出したりする。カメだけではない。ニホンカモシカが樹間に見えたり、シカが現れたりする。本作品は自然映画でもある。
それと同時に、本作品は台所映画でもある。畑や山でとれた野菜・山菜を水で洗い、包丁で切り、鍋でゆでる。それらの一つひとつの動作が全編にわたって映し出される。やがて食卓が整う。一汁一菜の食卓は自然の恵みと、それを用意した人の手間暇の結晶だ。けっして粗食には見えない。
ツトムは亡妻の遺骨を墓におさめずに、家に置いている。近所に住む義母からは、早く納骨するようにと急かせられる。でも、その気にならない。そのうちに義母も急逝する。ツトムの家には亡妻と義母との二人の遺骨が並ぶ。ツトムはある日、小さな湖に行き、二人の遺骨を散骨する。二人は自然に帰った。
ツトムは死を想う。死は怖い。死神とは仲良くなれそうもない。だが、避けることはできない。では、どうすればいいのか。ツトムはある日、もう明日、明後日のことは考えない、今日一日が良ければそれでいい、という心境になる。平凡な心境かもしれないが、気張らずに自然体だ。
ツトムを演じるのは沢田研二。初老の男を好演している。本作品は沢田研二の存在感あってこその映画だ。若いころのオーラが、年月の堆積のうちに、独特の味をかもし出している。ツトムが60年前に漬けた梅干をもらって食べるシーンがある。最初は顔をしかめるほどしょっぱい。だが、口にふくんでいるうちに、まろやかな味になる。本作品における沢田研二はそんな味だ。真知子を演じるのは松たか子。ツトムとは親子ほども年が違うが、ツトムを理解している――そんな女性を感性豊かに演じている。
(2022.11.20.シネスイッチ銀座)