Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

君が人生の時

2017年06月22日 | 演劇
 ウィリアム・サローヤン(1908‐1981)の芝居「君が人生の時」を観た。最近は夜遅くなるのが‘しんどくなった’ので、半休を取ってマチネー公演に行った。そうしたら、驚いたことには、観客の大半(割合としては95パーセントくらいか)は女性客だった。しかも場内はほとんど満席。そのため4箇所ある1階のトイレの内、3箇所は女性用に開放されていたが、それでも長蛇の列。一方、男性用はガラガラ。

 なぜそんなに女性客が入るのか。わたしには見当もつかない。人気俳優が出ているのかもしれない。ともかく興行的には(少なくともこの公演を見る限りでは)大成功だろうと推測した。

 時は1939年。この芝居が初演された「今」の話だ。場所はサンフランシスコの場末のバー。そこに多くの人々がたむろする。みんなそれぞれの人生を抱えている。それらの人々がこのバーでひと時を過ごす。これは一種の群像劇だ。

 1939年といえば、ヨーロッパ大陸では第二次世界大戦が勃発していた。劇中でも「タイム」だったかの雑誌を読んで、ナチス・ドイツのチェコスロヴァキアへの侵攻が話題に上る場面がある。もっとも、世界情勢への直接的な言及はそれくらい。あとはサンフランシスコの場末で生きる人々の喜怒哀楽が綴られる。

 だが、初演当時この芝居を観た人々には、劇場の外の緊迫した情勢はひしひしと感じられていただろう。それを感じつつ、やがて自分たちが巻き込まれるだろう事態の予感で緊張しながら、一時の小春日和のような気持ちでこの芝居を観ていたのではないか。それは明日にも失われるだろう平和への愛惜であったかもしれない。

 だが現代の、それも日本で上演するとき、この芝居はどういう意味を持つだろう。日本だって、明日はどうなるか、分かったものではない。でも、まだ、少なくとも表面的には‘平和’といえる状態だろう。そのためなのか(演出もその一因か)、芝居の世界と外の世界との緊張関係は生まれなかった。

 のんびりした雰囲気が漂う場内にいて、これは一種のエンタテイメントと考えればよいのかもしれないと、わたしは思った。登場人物が類型的に感じられたが、それは原作のせいなのか、あるいは演出のせいかは、よく分からなかった。

 なお、かみむら周平のピアノとRON×Ⅱ(ろんろん)のタップダンスが楽しかった。
(2017.6.20.新国立劇場中劇場)

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