Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ジェームズ・ジャッド/都響

2013年04月05日 | 音楽
 ジェームズ・ジャッド指揮都響の定期。ジェームズ・ジャッドが都響を振るのはこれが2度目だと思う。前回はエルガーの交響曲第1番と第2番をAプロ、Bプロに振り分けたプログラムだった。今回はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第4番と第5番。これも好奇心をそそるプログラムだ。

 交響曲第5番は好きな曲だ。「好きな」という言葉ではありきたりすぎる、むしろ「偏愛する」とか、「こよなく愛する」とかいったほうがいい気がする。以前ロジャー・ノリントンがN響を振って名演を聴かせてくれた(調べてみたら2006年11月だった)。それが忘れられない。

 その交響曲第5番をメインに据えたBプロを聴いた。1曲目はエルガーの弦楽セレナーデ。オーケストラからふくよかな弦のハーモニーが立ち上がってくる。無理なく響かせ、しかも十分に手応えのある音。表現は甘すぎず、しかもうるおいに欠けていない。音楽のかたちが明瞭に刻まれる演奏。

 2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。ピアノ独奏はヴァディム・ホロデンコ。クリアーで濁りのない音だ。音の隅々まで光が行き届いている感じ。終始明瞭に聴こえる。だが、こういってはなんだが、音楽にコクがない。清涼飲料水のような演奏。正直いって、途中で飽きてしまった。むしろアンコールのほうが面白かった。バッハ=ジロティのプレリュードを左手用に編曲したもの。バッハとは思わなかった。

 3曲目はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番。これは名演だった。1曲目のエルガーを思い出させるふくらみのある音で、終始滑らかに進行する。迷うところは一切ない。全4楽章が一編の詩のようだ。各楽章はその詩のスタンザ(節)。湖水地方の自然をうたったワーズワースのような詩だ。

 この演奏はノリントン/N響を凌ぐ演奏だったかもしれない――記憶を頼りにそんなことをいってはいけないかもしれないが――。わたしの主観では、オーケストラの共感は都響のほうが上だったような気がする。言い換えるなら、この曲を演奏するモチベーションは都響のほうが上だったような気がする。

 こういう演奏で聴くと、この曲はたんなる自然讃歌ではなく、もっと奥深いものが秘められているように感じられる。それがなにかは定かではないが、人間のあり方にかんする哲学的なものが――そういうと言葉が固いが――結晶となって秘められているように感じられた。
(2013.4.3.サントリーホール)

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