Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ミュンヘン:ローエングリン

2011年07月17日 | 音楽
 ミュンヘンに着いた翌日、バイエルン国立歌劇場で「ローエングリン」を観た。今年9月には日本にも来るプロダクションだ。2009年のプレミエ。演出はリチャード・ジョーンズ。

 わたしの経験の範囲内だが、リチャード・ジョーンズの演出には、大きく分けて二つの方向がある。一つは、ドラマを深くえぐり出す、正攻法の方向。数年前に新国立劇場が上演した「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が好例だ。2004年にバイエルン国立歌劇場で観た「ペレアスとメリザンド」もそうだった。マクベス夫人は具象的な舞台美術だったが、ペレアスは抽象的だった。あのペレアスは、わたしが今までに観たペレアスのなかで、もっとも美しい舞台だった。

 もう一つの方向は、読み替えの演出だ。ベルリンのコーミシェ・オーパーで観た「ヴォツェック」は、終始一貫、豆の缶詰工場内で起きる事件に読み替えていた。これが妙につじつまが合っていて面白かった。今回の「ローエングリン」も同様だ。

 本プロダクションは、もうすぐ日本でも上演されるので、ディテールの描写は控え、感想だけを記すと、レンガ職人としてのローエングリンは、なるほど面白いが、本来は壮大なはずのこの物語が、こじんまりとまとまってしまったと感じた。前記の「ヴォツェック」のときにも似た感じがした。

 もっとも、一度こういう舞台を観ると、白銀の甲冑に身を包んだローエングリンなど、今さら信じられなくなるのも事実だ。

 ケント・ナガノの指揮は、ガラス細工のように繊細で、光沢のある音を紡いでいた。しかもその音が、静的に存在するだけではなく、必要な場合には一気にテンポを上げて、激しく追い込むことにも欠けていなかった。

 もちろん、重厚かつ長大な、うねるような演奏ではなかった。現地では大きな拍手が送られていたが、日本では好き嫌いが分かれるかもしれない。わたしはケント・ナガノの可能性に注目しているので、否定する気にはなれなかったが、戸惑ったのはたしかだ。

 歌手では、オルトルート役のヴァルトラウト・マイヤーが圧倒的な存在感だった。ローエングリン役のペーター・ザイフェルトもさすがの声だ。これらの二人に比べると、エルザ役のエミリー・マギーは、詰めが甘かった。新国立劇場の「影のない女」に登場したときには、これはたいした素材だと思ったが、世界の超一流の壁は、気が遠くなるほど高いようだ。
(2011.7.6.バイエルン国立歌劇場)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ベートーヴェン交響曲全曲... | トップ | シュトゥットガルト:さまよ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

音楽」カテゴリの最新記事