東京オペラ・プロデュースの公演でマスネの「エロディアード」を観た。日本初演だそうだ。マスネ(1842~1912)の没後100年記念公演。
エロディアードとはリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」におけるヘロディアスのこと。サロメはもちろん、エロデ王(=ヘロデ)や預言者ジャン(=ヨカナーン)も出てくる。要するに「サロメ」の物語だ。原作はオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」ではなく、フロベールの小説「ヘロディア」。
事前にフロベールの小説を読んでみた(太田浩一訳、福武書店刊)。「ヘロディア」は「三つの物語」という短編集に収められている。第1作が「純な心」、第2作が「聖ジュリアン伝」、そして第3作が「ヘロディア」。フロベール最晩年の作品だ。
ひじょうに面白かった。久しぶりに文学の面白さを味わった。驚くべきことは、3作品ともテーマや文体が異なることだった。まったく作風が異なる3作品が並んでいる。ちょうどプッチーニやヒンデミットの3部作のようだ。
「ヘロディア」はイエスが布教を始めた時代の複雑な社会が、絵巻物のように豪華絢爛な文体で叙事的に描かれている。時代の変わり目に立たされたエロデ王の焦りが前面に出ている。サロメは脇役に過ぎない。このほうが新約聖書の記述に近い。ワイルドの戯曲はサロメを膨らませすぎていると感じられた。
さて、このような準備をして臨んだ「エロディアード」の公演だが、これはフロベールの原作とは似ても似つかない作品だった。わざわざフロベールの名前を持ち出さなくても、ヨーロッパ人ならだれでも知っているサロメの逸話の自由な翻案と銘打てばよいような作品だった。
それはそれでよい。オペラではよくあることだ。あとは音楽さえよければ――というわけだ。その音楽はよかった。聴かせどころがいくつかあった。たとえば第1幕最後のサロメとジャンの二重唱や第2幕前半のエロデ王のアリアなど。
なので、このような珍しいオペラを紹介してくれた東京オペラ・プロデュースに感謝すればそれでよいのだが、いつもその活動を支持し、せっせと足を運んでいる者として、一言いわせてもらうなら、今回は少々低調だった。その理由はいくつかある。わたしなどがいうまでもなく、関係者はよくわかっているだろう。在京では随一のユニークな活動を続けている団体だけに、今後さらなる切磋琢磨をお願いしたい。
(2012.6.23.新国立劇場中劇場)
エロディアードとはリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」におけるヘロディアスのこと。サロメはもちろん、エロデ王(=ヘロデ)や預言者ジャン(=ヨカナーン)も出てくる。要するに「サロメ」の物語だ。原作はオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」ではなく、フロベールの小説「ヘロディア」。
事前にフロベールの小説を読んでみた(太田浩一訳、福武書店刊)。「ヘロディア」は「三つの物語」という短編集に収められている。第1作が「純な心」、第2作が「聖ジュリアン伝」、そして第3作が「ヘロディア」。フロベール最晩年の作品だ。
ひじょうに面白かった。久しぶりに文学の面白さを味わった。驚くべきことは、3作品ともテーマや文体が異なることだった。まったく作風が異なる3作品が並んでいる。ちょうどプッチーニやヒンデミットの3部作のようだ。
「ヘロディア」はイエスが布教を始めた時代の複雑な社会が、絵巻物のように豪華絢爛な文体で叙事的に描かれている。時代の変わり目に立たされたエロデ王の焦りが前面に出ている。サロメは脇役に過ぎない。このほうが新約聖書の記述に近い。ワイルドの戯曲はサロメを膨らませすぎていると感じられた。
さて、このような準備をして臨んだ「エロディアード」の公演だが、これはフロベールの原作とは似ても似つかない作品だった。わざわざフロベールの名前を持ち出さなくても、ヨーロッパ人ならだれでも知っているサロメの逸話の自由な翻案と銘打てばよいような作品だった。
それはそれでよい。オペラではよくあることだ。あとは音楽さえよければ――というわけだ。その音楽はよかった。聴かせどころがいくつかあった。たとえば第1幕最後のサロメとジャンの二重唱や第2幕前半のエロデ王のアリアなど。
なので、このような珍しいオペラを紹介してくれた東京オペラ・プロデュースに感謝すればそれでよいのだが、いつもその活動を支持し、せっせと足を運んでいる者として、一言いわせてもらうなら、今回は少々低調だった。その理由はいくつかある。わたしなどがいうまでもなく、関係者はよくわかっているだろう。在京では随一のユニークな活動を続けている団体だけに、今後さらなる切磋琢磨をお願いしたい。
(2012.6.23.新国立劇場中劇場)