Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

旅行日記2:カーチャ・カバノヴァー

2014年02月14日 | 音楽
 ベルリン国立歌劇場の「カーチャ・カバノヴァー」。指揮はサイモン・ラトル。ラトルがヤナーチェクのこのオペラをどう振るかが最大の興味だった。

 結果的には、極彩色の後期ロマン派の延長線上にあるヤナーチェクだった。激しく起伏し、えぐるような、うねるような、熱い演奏。これは意外だった。じつはもっとクールな演奏を予想していた。なぜこうなるのか。これが今のラトルなのか。でも、そうとも思えないが――。

 これは一つの推測だが、今やラトルの‘楽器’となったベルリン・フィルと、バレンボイムの‘楽器’であるシュターツカペレ・ベルリンとの個性のちがいに起因するのではないだろうか。オーケストラとの駆け引きにたけたラトルのことだ、バレンボイムの個性に染まったこのオーケストラに反応してみせて、さらにその先を行こうとしたのではないだろうか。

 ともかく、こうやって演奏されたヤナーチェクだった。そこにはヤナーチェク特有の透明さ、あるいは自由な息遣いはなかった。あくまでもドイツ的にがっしり構築された、寸分の隙もないヤナーチェクだった。

 歌手もそれに見合うものだった。カーチャにエヴァ=マリア・ウェストブロック、姑のカバニハにデボラ・ポラスキという布陣。これはどう見てもワーグナーだ。その歌唱力は強力だった。声が分厚いオーケストラに対峙している。オーケストラの演奏ともども、これはワーグナー、シュトラウスをくぐり抜けたところのヤナーチェクだった。

 もしヤナーチェクがこれを聴いたらどう思うだろうと想像した。ドビュッシーの「海」に感嘆したヤナーチェク、あるいはプッチーニの「蝶々夫人」を愛したヤナーチェク。「蝶々夫人」はプッチーニの音楽のなかでもその繊細さで際立っている。そのヤナーチェクがこの演奏を聴いたら――。

 演出はアンドレア・ブレート。舞台は荒れ果てた倉庫のような建物のなか。ヴォルガ川は床に転がっている古いバスタブ。このオペラで重要な役割を果たすヴォルガ川は、バスタブに矮小化されているわけだ。幕切れでカーチャはバスタブのなかで手首を切って自殺する。これでは実も蓋もない。カーチャの魂は救われない。

 カーチャの閉塞感を現代に置き換えた演出だ、とはいえるだろう。それはラトルの指揮とも、ウェストブロック、ポラスキの歌唱とも呼応して、ドイツ表現主義的な世界を表出していた。でも、ぐったり疲れた。
(2014.2.6.シラー劇場)
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