12月30日、この日は大掃除をしようと思っていた。何気なく朝刊を見たら、NHK-FMの「名曲のたのしみ最終回スペシャル」という番組が目に入った。12:15~17:00。これは聞かなければならない。大掃除は翌日まわしにした。
早めに昼食を済ませて、テーブルの上にラジオを置き、12:15を待った。番組開始。懐かしい吉田秀和さんの声が聞こえてきた。
「名曲のたのしみ」は1971年に始まったそうだ。わたしはその年、大学に入った。それからしばらくして、畏友のS君から吉田さんの文章を教えてもらい、「名曲のたのしみ」も聞くようになった。以後、毎週欠かさず――むさぼるように――聞いた。
1975年の放送が再現された。スカルラッティのソナタを、ギレリス、ホロヴィッツ、ハスキルの演奏で聴き比べるものだ。なんとなく記憶がある。当時聞いたような気がする。ハスキルは、当時も今も、一番好きなピアニストなので、その演奏が入ったことが嬉しかった――その記憶が蘇ってきた。
吉田さんの声が若々しい。1975年といえば吉田さんは61~62歳。ちょうど今のわたしの年齢だ。当時の吉田さんの声はこんなに若々しかったのか、と驚いた。若々しいというだけではなく、一種の甘味がある。近年の、なんの飾り気もない、枯れた木のようにぶっきらぼうで、しかも親しみのある声とは、相当ちがう。ずっと吉田さんの声を聞き続けてきたので、気が付かなかったが、それなりの変遷はあったのだ。
「名曲のたのしみ」は、吉田さんの没後も、残された録音が放送され、さらに録音がなくなった後は、残された原稿を代読するかたちで続けられた。年内にすべてが終わるはずだったが、もう一つ原稿が見つかった――ということで、その原稿が代読された。ラフマニノフが、コレルリ、ショパン、パガニーニの主題による各変奏曲を書いたことを引き合いに出して、話をベートーヴェンのディアベリ変奏曲につなげるものだった。演奏はロマノフスキー。
感傷的かもしれないが、それを聞いて、涙がこみ上げてきた。もうこれでほんとうにお別れなのだと思った。親しい人の葬儀のときに流れる涙に似ていた。
番組には多くのリスナーの声が寄せられた。やはり昨年亡くなった丸谷才一は、吉田さんを、アリストテレス以来もっとも成功し、もっとも幸せな批評家と呼んだけれども、けっして大袈裟ではなく、ほんとうにそうかもしれないと思った。
早めに昼食を済ませて、テーブルの上にラジオを置き、12:15を待った。番組開始。懐かしい吉田秀和さんの声が聞こえてきた。
「名曲のたのしみ」は1971年に始まったそうだ。わたしはその年、大学に入った。それからしばらくして、畏友のS君から吉田さんの文章を教えてもらい、「名曲のたのしみ」も聞くようになった。以後、毎週欠かさず――むさぼるように――聞いた。
1975年の放送が再現された。スカルラッティのソナタを、ギレリス、ホロヴィッツ、ハスキルの演奏で聴き比べるものだ。なんとなく記憶がある。当時聞いたような気がする。ハスキルは、当時も今も、一番好きなピアニストなので、その演奏が入ったことが嬉しかった――その記憶が蘇ってきた。
吉田さんの声が若々しい。1975年といえば吉田さんは61~62歳。ちょうど今のわたしの年齢だ。当時の吉田さんの声はこんなに若々しかったのか、と驚いた。若々しいというだけではなく、一種の甘味がある。近年の、なんの飾り気もない、枯れた木のようにぶっきらぼうで、しかも親しみのある声とは、相当ちがう。ずっと吉田さんの声を聞き続けてきたので、気が付かなかったが、それなりの変遷はあったのだ。
「名曲のたのしみ」は、吉田さんの没後も、残された録音が放送され、さらに録音がなくなった後は、残された原稿を代読するかたちで続けられた。年内にすべてが終わるはずだったが、もう一つ原稿が見つかった――ということで、その原稿が代読された。ラフマニノフが、コレルリ、ショパン、パガニーニの主題による各変奏曲を書いたことを引き合いに出して、話をベートーヴェンのディアベリ変奏曲につなげるものだった。演奏はロマノフスキー。
感傷的かもしれないが、それを聞いて、涙がこみ上げてきた。もうこれでほんとうにお別れなのだと思った。親しい人の葬儀のときに流れる涙に似ていた。
番組には多くのリスナーの声が寄せられた。やはり昨年亡くなった丸谷才一は、吉田さんを、アリストテレス以来もっとも成功し、もっとも幸せな批評家と呼んだけれども、けっして大袈裟ではなく、ほんとうにそうかもしれないと思った。