Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

飯守泰次郎/シティ・フィル

2012年01月19日 | 音楽
 飯守泰次郎さんが東京シティ・フィルの常任指揮者を退任する時期が近づいてきた。今年3月に退任するから、常任指揮者として同フィルを指揮するのは、昨日とあとは3月定期だけだ。飯守さんが常任指揮者に就任したのは97年9月なので、足かけ15年になる。けっして短い期間ではないが、昨シーズンのベートーヴェン、今シーズンのチャイコフスキーがすばらしい出来なので、絶頂期に去るような感じがする。飯守さんを支持する聴衆としては、一抹の寂しさを禁じえない。

 昨日は「チャイコフスキー交響曲全曲シリーズ」の第3回だった。1曲目の交響曲第1番「冬の日の幻想」はスコアを丹念に追っているような演奏で、だんだんもどかしくなってきたが、第4楽章に入ると輝かしさが出た。

 2曲目は交響曲第6番「悲愴」。第1番とは打って変わって、練り上げられ、流動性のある演奏だった。これは、たんなる名演というようなレベルではなく、飯守さんという指揮者が人生をかけて追求してきたものが、行きつくところまで行った演奏だ。なんといったらよいのだろう。人生の極点といってもまだ曖昧なような気がする。なにか透徹した境地に立つ演奏だった。

 言い換えるなら、わたしがそこで聴いたのは、人生とはなにか、音楽とはなにか、美とはなにか、指揮者とはなにか、オーケストラとはなにか――そういう問いだった。そういうことを思えることなど、めったにあるものではない。類まれな意義深い演奏だった。

 終楽章の最後の音が消え入るように終わったとき、ホールは静寂に包まれた。一人として拍手をする人はいなかった。だれもが息を呑んでいた。飯守さんの指揮棒がそっと下ろされるのを待ってから、割れるような拍手と歓声が起こった。

 シティ・フィルはよい聴衆をもっている。飯守さんの音楽にたいする真摯な姿勢が集めた聴衆だ。

 思えばこの15年間、すべてがよかったわけではない。たとえばマーラーでは思い入れが空回りしているようなところがあった。でもそれは仕方がない。わたしは昔、故山田一雄が好きだった。山田一雄=ヤマカズさんも空中分解することがあった。それもまたヤマカズさんだった。聴衆はそういうことにも付き合うのだ。

 3月定期がいよいよ最後だ。なんだか平常心では臨めない気がする。それは飯守さんも同じかもしれない。
(2012.1.18.東京オペラシティ)
コメント (2)
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