Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

東京オペラシティ・アートギャラリー「野又穰展」

2023年08月14日 | 美術
 東京オペラシティ・アートギャラリーで野又穫(のまた・みのる)(1955‐)の展覧会が開かれている。チラシ(↑)に惹かれて行った。

 チラシに使われている作品は「Forthcoming Places-5 来るべき場所5」(1996)という作品だ。一見すると、上下2段の温室がある。その下には樹木の茂みが見える。樹木の茂みと比較すると、上下2段の温室はタワーマンションくらいの高さがある。もちろん現実にはあり得ないが、温室も樹木も見慣れた形なので、穏やかな風景画に見える。

 今、上下2段の温室といったが、展覧会場で実見すると、下の球体は温室ではなく、水族館だと分かる。中の熱帯植物と見えたものは水草だ。水草の周りを無数の魚が泳いでいる。下は水族館、上は温室という構成は、熱帯の水中と陸上を模した構築物のように見える。

 個々の物体は見慣れたものだが、その意外な組み合わせ、または意外なシチュエーションが、見る者の想像力を刺激する――その点でシュールレアリスムの画家・マグリットを連想させる。だがマグリットのような刺激性はなく、穏やかな日常性の中にある。題名もマグリットのような詩的・哲学的なものではなく、むしろ素っ気ない。

 一方、社会批評を感じさせ作品もある。本展のHP(↓)に画像が載っているが、「Babel 2005 都市の肖像」はその典型だ。画面の中央に巨大なビルが立つ。一見して、現代のバベルの塔だ。それは美しいともいえる。だが、ビルの周囲は荒れ果てた大地だ。都市が崩壊した跡のようでもある。あちこちにブルーシートのテントが張られている。テントはビルの下部まで侵食する。テントの脇には焚火の煙が見える。人がいるのか。よく見ると、ビルの1階には大砲が並んでいる。侵入者を阻むかのように。

 「Bubble Flowers 波の花」(2013)もHPに画像が掲載されている。都会の夜景だ。交差点を行き交う車のライトが幾筋も流れる。ビルの窓から煌々と光が漏れる。そして(人々の群れだろうか)泡のような無数の光が浮かぶ。美しいと思う。だが、本作品と一対をなす「Listen to the tales 交差点で待つ間に」(2013)を見ると、本作品はたんに美しいというだけでは済まない作品ではないかと思う。

 「交差点で待つ間に」は瓦礫と化した都会の風景を描く。灰色一色の世界だ。人の姿は見えない。人の代わりに何匹もの野良犬がいる。子犬に授乳する母犬もいる。犬たちは命をつなぐ。題名からいって、交差点で信号が変わるのを待つ間に幻視した廃墟の風景だろう。東日本大震災から2年後。都会は東日本大震災を忘れたかのように賑わうが、それは脆くはないかと。
(2023.7.7.東京オペラシティ・アートギャラリー)

(※)本展のHP
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世田谷美術館「麻生三郎展」

2023年06月06日 | 美術
 世田谷美術館で「麻生三郎展」が開かれている。麻生三郎(1913‐2000)は1948年から1972年まで世田谷区の三軒茶屋に住んだ。ちょうど日本の高度成長期に重なる。その時期の作品を集めた展示だ。作品からは騒然とした時代が伝わる。

 本展のHP(↓)にいくつかの作品の画像が載っている。「母子」(1949年、個人蔵)は全体的に暗い色調の作品だ。憂い顔でうつむく母親と、まっすぐこちらを見据える娘とが対照的に描かれる。そのような作例は、麻生三郎にかぎらず、当時の他の画家の作品にも見られる。時代を反映した心情の表れだろうか。

 HPには画像がないが、「赤い空」(1956年、東京国立近代美術館)は画面全体が燃えるような赤に染まる。赤はこの時期の麻生三郎の特徴だ。本作品はその典型といえる。夕焼けの反映と思えば思えるが、それ以上に空襲の残像のように見える。背景には黒い煙突や工場のような建物が見える。1956年といえば高度経済成長に入った時期だ。空襲の残像が残る街に復興の槌音がひびく。

 「人」(1958年、神奈川県立近代美術館)はHPに画像が載っている。赤一色ではなく、赤と黒と灰とこげ茶が使われ、画面全体にザラッとした手触りがある。復興の喧騒と埃っぽさが感じられる。背景にはクレーンのようなものや工場、家屋が見える。手前には二人の人物が立つ。母子だろうか。二人ともまっすぐ正面を向く。娘はもちろんだが、母親ももううつむいてはいない。二人の後ろを歩く人物がいる。だれだろう。通行人か。画家自身か。

 上記の「赤い空」と「人」と、そのあいだに描かれた「赤い空と人」(1957年、横須賀美術館)のころが、麻生三郎の頂点だったのではないだろうか。多くの社会問題をふくむすさまじい時代のエネルギーを一身に受け止め、作品に表現する気迫がみなぎる。

 作品はその後、人体が次第に解体され、一見抽象画のような作風に進むが、抽象画とは根本的に発想がちがうようだ。「ある群像」(1967年、神奈川県立美術館)、「ある群像2」(1968年、同)、「ある群像3」(1970年、同)の3点は、抽象画のように見えるが、いずれも目のようなものがはっきり見える。解説パネルによると、これら3点は「激化し泥沼化の様相を呈するベトナム戦争に対する思い」を込めて描かれたという。

 油彩画とは異なり、デッサンは子どもの落書きのように見える。たとえばチラシ(↑)に使われた「三軒茶屋」(1959年、神奈川県立近代美術館)は、家々が立ち並ぶ中を母親が乳母車を押し、その横を男が歩く。麻生三郎の家族の風景だろうか。ほのぼのとした味がある。これが上記の1950年代後半の油彩画と並行して描かれた。
(2023.5.24.世田谷美術館)

(※)本展のHP
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マティスとルオー

2023年05月08日 | 美術
 東京ではいま「マティス展」が東京都美術館で、「ルオー展」がパナソニック汐留美術館で開かれている。パリの国立美術学校でギュスターヴ・モロー教室の同級生だったマティスとルオーは、生涯を通じて友人だった。そんな二人が東京で再会しているようだ。

 マティスとルオーは同じルオー門下であるにもかかわらず、作風は正反対といってもいいくらい異なった。薄い塗りで粗い筆触のマティスと、厚塗りになっていくルオー。宗教的な主題には無関心だったマティスと、宗教的な主題を追ったルオー。二人は2度の世界大戦を経験したが、マティスは作品に戦争の影を落とさなかった。一方、ルオーはケーテ・コルヴィッツに匹敵するような戦争の悲惨さを告発する版画を制作した。

 わたしは前からルオーが好きだった。今回の「ルオー展」をみて、とくに第二次世界大戦後の輝くような色彩の作品群に慈愛のようなものを感じた。慈愛に包まれる感覚だ。わたしは無信仰だが、宗教的な感情に近いものを感じた。

 一方、マティスは苦手な画家だった。生きる喜び(ジョワ・ド・ヴィーヴル)という言葉で表されることのある画風が、わたしにはピンとこなかった。だが今回の「マティス展」で「豪奢Ⅰ」を見て、挑戦的ともいえる尖った作風に衝撃を受けた。その他の作品にもさまざまな試行錯誤の跡が(おそらく意図的に)残されているのを見て、マティスの苦闘が少しわかった。

 二人が最後に会ったのは1953年2月28日だ。マティスは83歳、ルオーは81歳だった。体調を崩していたマティスのもとをルオーが訪れた。娘のイザベルが同行した。事前にイザベルとマティスの娘のデュテュイが話し合い、マティスの体調を慮って、訪問は15分までと決めていた。だがマティスはルオーを引き留め、1時間以上にわたって昔話に花を咲かせた。ルオーが滞在先に戻ると、マティスから電話がかかった。マティスはよほど嬉しかったのだろう。「これで僕は10歳ほど若返ったよ!」といった。

 マティスは3月5日に手紙を書いた。「若かりし頃の様々な瞬間に舞い戻った心地だった。おそらく、もうこのように思い出が蘇る機会は二度とやってこないだろう。心からお礼を申し上げたい」と。ルオーは返事にモロー教室のころに歌った戯れ歌を書いた。「呪われし絵描きときたら/己の絵の上で漏らしたり/ションベンで絵の具を混ぜてチョイと描けば/シニョレッリ風レンブラントの出来上がり」と(ジャクリーヌ・マンク編、後藤新治他訳「マティスとルオー 友情の手紙」↑より)。老人二人の友情が美しい。

 マティスは翌1954年11月3日に亡くなった。享年84歳。ルオーは1958年2月13日に亡くなった。享年86歳。
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東京都美術館「マティス展」

2023年05月05日 | 美術
 東京都美術館でマティス展が開かれている。パリのポンピドゥー・センターの作品を主体にマティス(1869‐1954)の作風の変遷をたどる展示だ。マティスの代表作も多い。以下、とくに強い印象を受けた作品の3点に触れたい。

 まず「豪奢Ⅰ」(1907)(画像は本展のHP↓で)。画集では見たことがあるが、実際に見るのは初めてだ。これほど大きな作品だとは思わなかった。縦210㎝×横138㎝の堂々たる作品だ。主張の強さを感じる。それはどんな主張か。画面にむかって左側のひときわ大きな女性の、挑戦的ともいえる傲然とした風情が印象的だ。安易に近寄ると撥ねつけられる思いがする。親しみやすさや感情移入を拒むものがある。

 その女性を直角三角形の垂直線にして、底辺に一人、斜辺に一人の女性が描かれる。底辺の女性は垂直線の女性の脱ぎ捨てた衣服を片付ける。斜辺の女性は垂直線の女性に花束をささげる。二人の女性は垂直線の女性の侍女のように見える。では、垂直線の女性は女主人か。ヴィーナス誕生のヴァリエーションのようにも見える。

 おもしろいのは、絵の具の塗り方にムラがあることだ。丁寧な塗りではない。一気呵成に描いたような荒々しさがある。丁寧な塗りを拒む何かがマティスの中に煮えたぎる。それは苛立ち、憤怒、衝動のようなものか。

 わたしが惹かれた作品は「夢」(1935)だ(画像は本展のHP↓)。青いシーツの上で眠る女性の裸の上半身が描かれる。ある種の絶対的な安らぎが感じられる。武満徹が触発されてピアノ曲を書いたルドン(1840‐1916)の「閉じた眼」(1890)を彷彿させる。

 両腕が不自然に大きい。頭にくらべてアンバランスだ。だが、その両腕の、とくに右腕を描く伸びやかな曲線がポイントだろう。その曲線を描くためには頭とのバランスなど意に介さない。興味深いことには、右腕のわきに描き直された跡が残る。マティスは右腕の位置をどうするか、試行錯誤したようだ。最終的にいまの位置になった。これでよし、と。

 チラシに使われている作品は「赤の大きな室内」(1948)だ(本展のHP↓に画像も)。赤い透明な色面に黒い輪郭線を引いたような作品だ。たとえば画面にむかって右側の四角いテーブルは、天板も脚も背景と同じ赤色なので、透けて見える。椅子の座面も同様だ。物質感が喪失して一種の透明感がある。おもしろいことに、丸テーブルの左の脚の付け根のところに描き直された跡がある。マティスは本作品にも試行錯誤の跡を残した。2点の画中画、2脚のテーブル、2枚の敷物などなど、バルトークの「対の遊び」(「管弦楽のための協奏曲」の第2楽章)を思わせる作品だ。
(2012.5.1.東京都美術館)

(※)本展のHP
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パナソニック汐留美術館「ルオー展」

2023年04月27日 | 美術
 ルオー展が開かれている。パナソニック汐留美術館の所蔵品を主体に、パリのポンピドゥー・センターや国内の美術館の作品を加えた構成だ。美術学校を出たころの娼婦や道化師を描いた作品から、2度の大戦をへて、晩年の輝くばかりの色彩の作品まで、ルオー(1871‐1958)の歩みを辿っている。

 本展のHP↓に「かわいい魔術使いの女」(1947年)の画像が載っている。赤い衣装をつけたサーカスの魔術使いが、アーチの前に立つ。アーチの向こうにはリンゴのような果物、建物の中に立つ人物(わたしには聖像のように見える)、太陽(または月)などが描かれている。ルオー晩年の作品だ。

 会場に掲示された解説によると、第二次世界大戦をはさんで紆余曲折があった末に(細かい経緯は省く)、現在はパリのポンピドゥー・センターが所蔵する作品だ。本作品の1939年ころの写真が残っている。当時、女は裸婦だった。また建物は塔のある建物だった。しかし1948年にチューリヒで開かれた回顧展では、裸婦はサーカスの魔術使いに変わり、建物は丸屋根の建物に変わった。またリンゴのような果物や太陽(月)が加わった。ルオーはその後も手を入れ、最後にアーチを描いて1949年に制作を終えた。

 ルオーの数年越しに描かれた作品は「枚挙にいとまがない」そうだ。「ルオーは、同時進行的にいくつものタブローに取りかかり、一度描いた作品をしばらくそのままにして、後日、あるいは数年後に再び手を加えることもしばしばだった」と解説にある。

 そのような制作方法がルオーの作品の魅力かもしれない。ルオーの作品には長い時間と試行錯誤が堆積しているのだ。その端的な表れは厚塗りの絵の具だろう。何度も何度も塗り重ねられ、ついには絵の具が盛り上がった作品は、油彩画というよりも、ステンドグラスのような感触を持つ。そこにはルオーの労力の跡がある。

 よく知られている逸話だろうが、ルオーは1939年に画商のヴォラールが亡くなった後、相続人を相手に、未完の作品の返還を求める訴訟を起こした。訴訟は1947年にルオーの勝訴に終わった。翌年に未完の作品807点中688点がルオーに返還された。ルオーは同年、高齢のために完成が難しいと判断した315点を焼却した。そのエピソードも、上記のルオーの制作方法を知ると納得できる。

 「かわいい魔術使いの女」は穏やかに微笑む。慈愛に満ちた微笑みだ。慈愛はルオー晩年の作品に共通する。若いころの娼婦や道化師を描いた暗い作品からそこまで、よく来たものだ。晩年の作品にはルオーの長い人生が堆積している。
(2023.4.20.パナソニック汐留美術館)

(※)本展のHP
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SOMPO美術館「ブルターニュの光と風」展

2023年04月02日 | 美術
 「ブルターニュの光と風」展が始まった。フランス北西部の大西洋に突き出したブルターニュの小都市カンペール。そこの美術館の引越し展だ。

 全体は3章で構成されている。第1章は「ブルターニュの風景―豊饒な海と大地」。サロン(官展)の画家の作品が中心だ。サロンに反抗した印象派の画家たちの視点からは、保守的な作品に見えるかもしれない。でも、穏やかで品がある。個性を競った近代絵画を追って疲れた目には、ホッとするものがある。

 チラシ(↑)に使われた作品は、アルフレッド・ギユ(1844‐1926)の「さらば!」だ。漁船が難破して、息子が波にのまれる。父親が最後の口づけをする。ブルターニュ地方ではこのような事故は日常的にあったそうだ。わたしはチラシを見たときには、上半身裸の人物は女性だと思った。どのような状況かと思った。キャプションを読んで納得した。もしカンペール美術館に行ってこの作品を見たら、どんな状況かわからなかったろう。引越し展のありがたい点だ。

 先を急ぎたいが、もう一点、テオフィル・デイロール(1844‐1920)の「鯖漁」もあげておきたい。画面の3分の2を海が占めている。男たちが小さな漁船に乗って鯖(さば)漁をしている。漁船は波にもまれている。男たちは漁に夢中だ。空は夕焼けに染まる。夕日が海に反映する。男たちを祝福するように。

 第2章は「ブルターニュに集う画家たち―印象派からナビ派へ」。モネ、ゴーギャンなどの作品もあるが、比較的まとまっているのは、ナビ派の画家たちの作品だ。その中でも強い印象を受けたのは、セリュジエ(1864‐1927)の「ル・ブールデュの老婦人」だ。海岸沿いの崖を背景に、老婦人の顔が大きく描かれる。その絵肌が(絵の具が退色したように)艶を失っている。キャプションによれば、下地を施さずに、古拙さを意図した技法だそうだ。どこかの倉庫から発見された由来不明の作品のような趣がある。

 第3章「新たな眼差し―多様な表現の探求」では、19世紀末から20世紀前半の作品が並ぶ。美術史的には「バンド・ノワール(黒い一団)」と呼ばれる画家たちの作品がいくつかある。たとえばシャルル・コッテ(1863‐1925)の「嵐から逃げる漁師たち」は、嵐をはらんだ暗雲の描写がリアルだ(本展のHP↓に画像がある)。

 「バンド・ノワール」以外の画家では、ド・ブレ(1890‐1947)の「ブルターニュの女性」に惹かれた(本展のHP↓)。点描法のようでもあるが、それともちがう「トレイスム(格子状技法)」と自称する技法で描かれている。明るくポジティブな作品だ。
(2023.3.31.SOMPO美術館)

(※)本展のHP
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「佐伯祐三」展

2023年03月07日 | 美術
 「佐伯祐三」展が開催中だ。パリの抒情的な風景画で知られる佐伯祐三(1898‐1928)のわずか30年の人生、そのうちのパリ生活だけなら、わずか3年にすぎない、まるで生き急いだように見える人生と画業をたどることができる。

 佐伯祐三のパリ生活は2回に分かれる。最初は1924年から1925年までの約2年間、次は1927年から1928年までの約1年間だ。本展では最初のパリ生活で生まれた作品を「壁のパリ」、次のパリ生活で生まれた作品を「線のパリ」と呼んでいる。それぞれの時期の作品の特徴を端的に表す命名だと思う。

 日本の木造家屋とは異なるパリの石造建築の、ザラッとした壁の手触りに着目して、その再現を目指した「壁のパリ」の作品群と、壁や広告塔に貼られた何枚ものポスターに踊る文字に着目して、文字がまるで生命を持ったかのように自由に飛び跳ね、画面のいたるところに散乱する「線のパリ」の作品群。

 だが、おもしろいことに、「壁のパリ」といっても、その作風がパリに着いてからすぐに生まれたわけではなく、短いけれども、やはり助走期間があったこと、また「線のパリ」といっても、その作風が2度目のパリ生活でいきなり生まれたわけではなく、「壁のパリ」の作品群にすでに萌芽状態で存在したことも、本展を通じてよくわかる。「壁のパリ」と「線のパリ」は画然と区切られるわけではなく、重なり合いながら、一気に進んだ。

 加えて感動的なことは、「線のパリ」で佐伯祐三の画業が終わるわけではなく、さらにその先に進もうとしていたことだ。亡くなる1928年の2月に佐伯祐三は友人たちとパリ郊外のヴィリエ=シュル=モランVilliers-sur-Morinに写生旅行に出かけた。同地で描かれた作品群からは文字が消えて、明確な輪郭線が現れる。明らかに画風が変化する。だがその変化は突然断ち切られる。3月にパリに戻ると、佐伯祐三は体調を崩す。精神的に不安定になる。6月に自殺未遂を起こし、精神病院に入院。8月に亡くなる。

 本展でもっとも惹かれた作品は、「壁のパリ」でも「線のパリ」でもなく、ヴィリエ=シュル=モランで描かれた「煉瓦焼」(本展のHP↓に画像が載っている)と、同地からパリに戻ったときに描かれた「郵便配達夫」(チラシ↑に使われている作品)だ。

 「煉瓦焼」のオレンジ色の強さは、画像ではわからないかもしれない。わたしは何かに打たれたように感じた。「郵便配達夫」は多くの人に知られた作品だ。背景にあるWAGNER(ワーグナー)の文字は、佐伯祐三が音楽好きだったことを思い出させる。両作品には、あふれる生気と簡明さ、あえていえば無邪気さが共通する。それを“絵本”性と呼んでみたい。
(2023.3.3.東京ステーションギャラリー)

(※)本展のHP
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エゴン・シーレ展(3)

2023年03月04日 | 美術
 エゴン・シーレ展。シーレの作品については2月3日と2月15日のブログで触れたが、他の画家の作品にも触れたいものがあるので、もう一度。

 シーレといえば反射的にクリムトとなるが、何点か展示されているクリムトの作品の中では、「ハナー地方出身の少女の頭部習作」が気合の入った作品だ。キャプションによると、学生時代の制作と推定されるそうだ。顔がまるで生きているように描かれている。クリムトの並々ならぬ力量が感じられる。

 もっとも、本展ではクリムト以上にリヒャルト・ゲルストルの作品がまとまっている。ゲルストルは音楽好きのあいだでも多少知られた画家だ。ゲルストルは音楽も好きだった。作曲家のシェーンベルクはゲルストルと親交を結んだ(シェーンベルクは、一時は画家になろうかと思ったくらい、美術も好きだった)。年齢はシェーンベルクが9歳上だが、二人はお互いを認め合っていた。

 だが、ある事件が起きた。ゲルストルはシェーンベルクの妻のマティルデと親しくなり、1908年に駆け落ちした。周囲は大騒ぎになった。マティルデを説得し、結果マティルデはシェーンベルクのもとに帰った。シェーンベルクもマティルデを受け入れた。一方、傷心のゲルストルは自殺した。

 わたしはそのエピソードが記憶に残っていたので、初めてレオポルド美術館を訪れ、思いがけずゲルストルの「半裸の自画像」(本展にも展示されている。画像はHP↓に掲載)に出会ったとき、その出会いに半ばうろたえた。こういう人物だったのか、と。腰から下を白い布で覆い、上半身は裸。まるで運命に魅入られた人物のように見えた。展示室にはヘッドフォンが備えられていた。ヘッドフォンを耳に当てると、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番が流れてきた。上記の事件が起きたころに作曲された曲だ。

 本展で「半裸の自画像」に再会した。背景の紺色は記憶よりも明るかった。そこから浮き上がる人物は「私はここにいる」と言っているように見えた。

 ゲルストルの展示作品の中に「田舎の二人」という作品があった。手前に女性、その奥に男性が描かれている。二人とも野外の明るい日射しのもとに座っている。だがどういうわけか、二人の顔が判然としない。目鼻がはっきり描かれていないのだ。最初みたときは、未完の作品かと思った。キャプションを読むと、女性はマティルデ、男性はマティルデの兄のツェムリンスキー(シェーンベルクに作曲を教えた人だ)という説があるとのこと。制作は上記の事件のあった1908年。顔をはっきり描かなかったのは、なにか意図があったのか。
(2023.1.31.東京都美術館)

(※)本展のHP
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エゴン・シーレ展(2)

2023年02月15日 | 美術
 現在開催中のエゴン・シーレ展。2月3日にシーレの「ほおずきの実のある自画像」と「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」に触れた。シーレの他の作品にも触れたい。

 わたしがもし本展のシーレ作品の中から好きな作品を3点選ぶなら、上記の「ほおずきの実のある自画像」と「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」の他に「頭を下げてひざまずく女」(画像は本展のHP↓に掲載されている)を選びたい。ピンク色を主体に色付けされたデッサンだ。前のめりに倒れたような不安定な姿勢の女性を後ろから描いている。顔は見えない。服がめくりあがり、臀部が露出している。背景も影も描かれていない。女性はなにをしているのか。

 わたしが本作品に惹かれるのは、たしかなデッサン力と女性の存在感と、そしてもうひとつは、その女性はなにをしているのかという謎のためだ。

 本作品と並んで何点かのデッサンが展示されている。その中に「しゃがむ裸の少女」という作品がある。その作品は青色を主体に色付けされている。少女は両ひざを抱えてしゃがんでいる。顔はこちらに向けている。デッサン力も女性の存在感も「頭を下げてひざまずく女」と変わりないが、なにをしているかはよくわかる。

 繰り返すが、「頭を下げてひざまずく女」はなにをしているのか。シーレの作品には、男女を問わず、自慰の姿を描いた作品がある。「頭を下げてひざまずく女」もそうなのか。かりにそうだとしても、隠微な感じはしない。むしろ湧きおこる生命の力を感じる。

 シーレの作品ではもう1点、「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」にも惹かれた。最初みたときには抽象画だと思った。それほど、なにを描いているのか、つかめなかった。作品名を見たときに、ああそうかと思ったが、それにしても異常な点がある。たしかに荒野に立つ1本の木が強風に吹かれて大きくたわむ様子が描かれている。でも、そのたわみ方が尋常ではないのだ。大きな鉤のような形になっている。実景ではありそうもない。

 先日、AERA BOOK「エゴン・シーレ展」(朝日新聞出版発行)を読んで謎が解けた。そのたわみ方はセガンティーニの「悪い母親たち」から来ているようだ。「悪い母親たち」はウィーンのベルヴェデーレ宮殿の美術館に展示されている。アルプスの雪原に一本の枯れ木が立ち、その枝に半裸の女性が絡まっている。堕胎の罪を犯した女性だそうだ。不気味だが、美しい。セガンティーニの傑作のひとつだろう。同美術館はクリムトの「抱擁」が有名で、わたしも圧倒されたが、それ以外では「悪い母親たち」に強い印象を受けた。シーレは当然知悉していただろう。「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」はウィーンが生んだ作品だ。
(2023.1.31.東京都美術館)

(※)本展のHP
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エゴン・シーレ展(1)

2023年02月03日 | 美術
 エゴン・シーレ展が開幕した。ウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に構成したもの。レオポルド美術館はシーレのコレクションでは世界のトップクラスだ。何度か行ったことがあるが、初めて行ったときには圧倒された。

 チラシ(↑)に使われている「ほおずきの実のある自画像」もレオポルド美術館の所蔵作品だ。シーレの代表作のひとつとされている。画像でもわかると思うが、顔に無数の赤や青の斑点がある。一瞬、死相と思ってしまうが、それはシーレを過度にロマンティックにみているからだろう。同時期の水彩画「闘士」にも無数の赤や青の斑点があり、それらは全身の痣のように見えるが、たぶんそうではなくて、表現主義の作風のためだろう。「ほおずきの実のある自画像」も同様だ。

 またこれも画像でわかると思うが、上着に無数の筋が見える。それは服の皺というよりも、むしろ水の流れのように見える。たぶん油絵具が乾く前に絵筆の柄で筋をつけているのだろう。シーレの他の作品でも見られる技法だ。

 作品全体からは強い自意識が感じられる。シーレが本作品を描いたのは1912年。シーレが22歳の年だ。シーレの才能が爆発的に開花した時期であり、また前年には恋人と同棲生活に入った時期でもある。シーレには自信がみなぎっていた。その時期を青春と呼んでいいなら、青春に特有の自意識が感じられ、それがわたしの心の疼きに触れるのだろう。

 シーレの作品の大半は人物画であり、またその多くは裸体画だが、一方で、数は少ないが風景画も描いている。人物画、とくに裸体画はシーレと対象(多くの場合は自分または恋人)とが息苦しいほど密着しているが(それが魅力なのだが)、風景画ではシーレと対象(風景)とのあいだに距離があり、それが安心して見ていられる要因になる。

 本展に展示された風景画の中では「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」に惹かれた(本展のHP↓に画像が載っている)。クルマウとはシーレの母親の郷里で、いまのチェスキー・クルムロフのことだ(世界遺産に登録されている)。その街を俯瞰的にとらえた作品だ。家々の折り重なる構図に工夫が凝らされ、またカラフルな色使いがメルヘンチックだ(その色使いは「啓示」に似ている)。

 シーレは1918年に28歳で亡くなった。スペイン風邪にかかったためだ。シーレは1915年に結婚したが(前記の恋人とは別人だ)、妻とその胎内に宿った子どもも、シーレが亡くなる3日前にスペイン風邪で亡くなった。またその数か月前にはシーレの才能を認めたクリムトもスペイン風邪で亡くなった。本展はパンデミックのいま観るにふさわしい。
(2023.1.31.東京都美術館)

(※)本展のHP
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「亜欧堂田善」展

2023年01月26日 | 美術
 千葉市美術館で「亜欧堂田善」展が開かれている。わたしの家から千葉市美術館までは2時間近くかかるが、行ってみた。

 亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん)といわれても、一体全体なんのことやら、わからない人も多いのではないだろうか。もちろんわたしもわからなかった。そこで少し調べてみると、これは江戸時代の洋風画家・銅版画家の名前であることがわかった。あの鎖国の江戸時代にも洋風画があり、銅版画があったわけだ。

 鎖国だったので、西洋人から洋画を学んだり、銅版画を学んだりすることはできないが、長崎の出島などから外国の書籍が入ってくるので、それを読み(外国語を解する人に訳してもらうわけだ)、そこに掲載されている図版を手本にして、やってみる。そのパイオニア精神といったらいいか、努力と工夫がすごいと思う。

 当時、そのようにして洋風画・銅版画の制作を試みた人は、何人かいたようだ。その一人が亜欧堂田善だ。田善は1748年に現在の福島県須賀川市で生まれ、1822年に没した(昨年は没後200年だった)。生家は農具商を営んでいたが、兄が紺屋を興し、田善も手伝った。その後、兄が没したので、田善が紺屋を継いだ。ところが1794年に(田善が47歳のときに)、田善の絵が白川藩主・松平定信の目に留まり、絵を学ぶよう命じられた。田善が本格的に絵を学んだのはそれからだ。

 本展のチラシ↑に掲載されている2枚の銅版画は、いずれも「東都名所図」に収められている作品だ。上は「二州橋夏夜図」。夏の夜の隅田川の花火を描いているが、それにしてもものすごい花火だ。花火というより、火薬の爆発のように見える。隅田川の花火を描いた当時の作例(浮世絵)は多数あるが、こんな描写は見たことがない。田善の目にはこう見えたのか。それとも意識的なカリカチュアか。

 下の作品は「品川月夜図」だ。品川の遊郭で夜の海を見つめる遊女を描いている。海に映る月の光が美しい。それにしても、上半身をそらせた遊女の姿は、日本人離れして、西洋の女性のように見えないだろうか。

 上記の銅版画はいずれも小ぶりな作品だ(文庫本を横にしたくらいだ)。一方、大型のものもある。それらはさすがに見応えがある。「西洋公園図」(29.5㎝×56.0㎝)や「イスパニア女帝コロンブス引見図」(45.3㎝×45.3㎝)などだ。それらの作品が外国に行ったこともなければ外国人を見たこともない(と思われる)江戸時代の日本人の手によって制作されたことは、なんだか想像を絶する。
(2023.1.14.千葉市美術館)
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ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展

2022年12月26日 | 美術
 国立西洋美術館で「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が開かれている。ベルクグリューン美術館はベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の正面側の向かいの建物にある。現在改修工事中なので、所蔵作品の引越し展が実現した。

 展示作品の総数は108点。内訳は、ピカソ46点、クレー34点、マティス16点、ジャコメッティ5点、セザンヌ4点、ブラック3点で、ピカソとクレーが圧倒的な割合を占める。ピカソ好き、クレー好きの人には見逃せない展覧会だ。

 ピカソの作品は初期の青の時代から始まって、第二次世界大戦中までをカバーしている。その中で1点あげるとしたら、「大きな横たわる裸婦」(1942)をあげたい(画像は本展のHPに載っている)。ピカソがナチス・ドイツの占領下のパリで描いた作品だ。伝統的な横たわる裸婦像だが、その裸体はキュビスム的にデフォルメされている。しかも注目すべき点は、右手首がソファーに縛られているように見えること、腹が大きく切断されていること、そして両足首が交叉して、キリストの磔刑図の足首のように見えることだ。それらは何かの暗示だろうか。色調は暗い。当時のピカソの心象風景が反映された作品だろう。

 一方、クレーの作品は油彩転写素描といわれる技法の作品が多いことが特徴だ。油彩転写素描とは、作品となる紙と原画となる素描と、それに加えて、黒色の絵具を一面に塗布した紙とを用意して、作品となる紙と原画の素描を重ね、そのあいだに黒色の紙をはさみ、先のとがった道具で原画の素描をなぞる技法だ。黒色の紙がカーボン紙のような働きをして、素描が作品となる紙に転写される。線に独特のにじみが出るのが特徴だ。

 何点もある油彩転写素描の作品の中で、あえていくつかあげれば、「雄山羊」(1921)と「知ること、沈黙すること、やり過ごすこと」(1921)をあげたい(本展のHPに画像が掲載されていないのが残念だ)。「雄山羊」は山羊の横顔だ。鼻の上に女性が足を組んで乗っている。山羊はトロンとした目で女性を見つめる。口からはよだれが垂れる。なんともだらしのない山羊だ。クレーの煩悩のユーモラスな表現だろうか。

 「知ること、沈黙すること、やり過ごすこと」は、なまめかしいヌード・ダンサーを描いている。哲学的な題名だが、それはヌード・ダンサーを見つめるクレー自身の自戒をこめた言葉か。これもユーモラスな作品だ。

 一方、「子どもの遊び」(1939)はクレー最晩年の作品だ。第二次世界大戦が勃発し(あるいはその直前で)、クレー自身もナチスから弾圧を受け、また体調も悪化する。そんな暗澹たる日々の中で描いた作品だ。無邪気な子どもを描いているが、どこか暗い。
(2022.12.23.国立西洋美術館)
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小山敬三美術館

2022年11月07日 | 美術
 もう一ヶ月ほど前になるが、小諸市立小山敬三美術館を訪れた。といっても、じつは懐古園を訪れた際に、その隣に同美術館があったので、ついでに立ち寄った次第だ。小山敬三という名前にはピンとこなかったが、館内に入って作品を見たときに、ああ、この画家かと思った。じっと作品を見ているうちに、良さがわかってきた。流行の先端を行くような野心がなく、穏やかな作風だが、それがわたしの感性に合った。

 簡単に経歴に触れると、小山敬三は1897年に小諸で生まれた。藤島武二に就いて洋画を学んだ。詩人・作家の島崎藤村のすすめで1920年にフランスに渡り、シャルル・ゲランの画学校に入った。1928年に帰国。1929年に神奈川県の茅ケ崎にアトリエを構えた。1960年に日本芸術院会員。1970年に文化功労者。1975年に文化勲章受章。1987年に死去した。享年89歳。

 同美術館に収蔵されている主な作品の画像がHP(リンク↓)に掲載されている。最初に載っているのが「浅間山黎明」(1959)だ。夜明けの曙光で紅色に染まった浅間山を描いている。藍色の空には満月が残っている。雲がたなびく。空気が澄んでいる。わたしが展示作品の中でもっとも感銘を受けた作品だ。分類すれば具象画になるだろうが、形態は単純化され、太い描線に独特のリズムがある。色彩的には浅間山の紅色と空の藍色とが対をなし、また樹木の緑色と田畑の黄色とが対をなす。それらの色彩を縫い合わすように残月と雲の白色が配されている。

 本作品は、そこに何が描かれているか、どんな特徴のある作品かが一目でわかるが、その段階にとどまらずに、見れば見るほど、それを描いた画家の淡々とした心境が伝わってくる。わたしはそれが好ましかった。

 HPに載っている画像の中に「初夏の白鷺城」(1974)がある。館内でその作品を見たときに、どこかで見たことがある作品だと思った。帰宅後、小山敬三のことを調べるうちに、東京国立近代美術館所蔵の「雨季の白鷺城」(1976)に行きついた。ともに白鷺城(姫路城)の屋根瓦を描いた作品だ。構図も大きさもほとんど同じだ。両作品は同一テーマの別バージョンといえるだろう。

 同美術館は千曲川を見下ろす高台に立地している。「薄暮千曲の流れ」(1979)はその高台から千曲川を見下ろした作品だ(画像は残念ながらHPには載っていないが)。わたしはその作品を見たときに、あっと思った。まさにその場にいるからだ。作品は黄色のトーンで統一されている。題名に薄暮とあるが、それはすべてのものが灰色に包まれる夕暮れではなく、夕日が最後の輝きを放つ夕暮れのようだ。
(2022.10.13.小山敬三美術館)

(※)小山敬三美術館のHP
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国立西洋美術館の北欧絵画

2022年10月06日 | 美術
 先日、下野竜也指揮都響の演奏会を聴き、その感想を書いたが、当日は演奏会の前に友人と会っていた。友人と別れてから演奏会まで、しばらく時間があったので、国立西洋美術館で常設展を観た。いつもは企画展を見た後で慌ただしく観る常設展だが、今回は時間があるので、ゆっくり観ることができた。

 常設展の最後のセクションに、フィンランドの国民的画家といわれるアクセリ・ガッレン=カッレラAkseli Gallen-Kallela(1865‐1931)の「ケイテレ湖」という作品が展示されていた。フィンランドの湖沼地帯にあるケイテレ湖を描いた作品だ。画面の大半をケイテレ湖の湖面が占めている。鏡のように静かな湖面だ。そこに銀灰色の線がジグザグに走っている。フィンランドの民俗的叙事詩「カレワラ」に登場する英雄ワイナミョイネンが船を走らせた航跡だという。本作品は一見風景画のように見えるが(またそう見てもよいのだろうが)、神話画でもあるのだ。

 わたしは本年6月から9月にかけて同美術館で開かれた「自然と人のダイアローグ」展で本作品に初めてお目にかかった。「美しい作品だな」と思った。本作品が国立西洋美術館の2021年度新規購入作品だと知ったときには喜んだ。今後はいつでも観ることができると。

 今回の常設展ではその近くにデンマークの代表的な画家のヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864‐1916)の「ピアノを弾くイーダのいる室内」が展示されている。イーダとはハンマースホイの妻だ。隣の部屋で妻がピアノを弾いている。その部屋と画家のいる部屋とのあいだにある扉は大きく開かれている。画家はピアノを弾く妻の後ろ姿を見つめる。窓からは明るい陽光が射しこんでいる。静かで穏やかな室内風景だ。

 ガッレン=カッレラとハンマースホイは同時代人だ。その生年からは、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウス(1865‐1957)とデンマークの作曲家カール・ニールセン(1865‐1931)が連想される。シベリウスとニールセンも二人の画家と同時代人だ。しかも興味深いことに、「カレワラ」に題材を求めた点でガッレン=カッレラとシベリウスは共通し、一方、そのような神話性を求めずに、現世的な題材を求めた点でハンマースホイとニールセンは共通する。“フィンランド組”と“デンマーク組”のその違いは偶然だろうか。

 国立西洋美術館の北欧絵画にはもう一点、エドワルト・ムンク(1863‐1944)の「雪の中の労働者たち」がある(今回の常設展には展示されていないが)。スコップやつるはしを持った何人もの労働者が描かれている。意外なことには、ムンクもガッレン=カッレラやハンマースホイと同時代人だ。だがムンクは、ガッレン=カッレラやハンマースホイと並べると、いかにも座りが悪い。
(2022.9.30.国立西洋美術館)

(※)各絵画の画像は国立西洋美術館のホームページの「作品検索」で見ることができます。
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「芸術家たちの住むところ」展

2022年08月02日 | 美術
 用事があって、さいたま新都心に行った。ついでなので、うらわ美術館に行ってみた。JR浦和駅から徒歩10分くらい。ロイヤルパインズホテル浦和という大型ホテルの3階にあった。同美術館を訪れるのは初めてだ。

 同美術館では「芸術家たちの住むところ」展が開催中だ。浦和には多くの画家が住んだらしい。関東大震災の後、東京から多くの画家が浦和に移ったためだ。当時は「鎌倉文士に浦和絵描き」という言葉があったそうだ。

 本展はそれらの画家30人余りの作品を展示したもの。前期と後期に分かれている。いま開かれているのは後期だ。2章構成になっている。第1章は「描かれた土地の記憶」。のどかな田園地帯だった浦和の自然やレトロな洋館建築など、いまでは懐かしい風景を描いた作品群だ。浦和には縁がないわたしにも楽しめる内容だった。

 第2章は「戦後:それぞれの道」。画家たちが戦後、それぞれの作風を追求した作品群だ。そのなかでわたしは瑛九(えい・きゅう)という画家に注目した。実感としては、瑛九を「発見」したといったほうがいい。

 瑛九は1911年に宮崎県に生まれた。1951年に浦和市仲町に移り、翌年、浦和市本太に引っ越した。1960年に同地で亡くなった。わたしは、うろ覚えだが、瑛九という名前を知っていた。作品も目にしたことがある。だが、まとめて見るのは初めてだ。本展では第1章に5点、第2章に8点が展示されている。それらの作品を通して、瑛九とはどんな画家か、初めてつかめたような気がした。

 第1章の5点には、瑛九自身がフォト・デッサンと名付けた技法による作品が3点ふくまれている。写真を基盤とした白黒の影絵のような作品だ。「かえろ、かえろ」、「散歩」そして「あそび」と名付けられたそれらの作品は、ノスタルジックで詩情豊かな、レースのように繊細な作品だ。

 第2章の8点の中では「田園」という油彩画に衝撃を受けた。眩しいほどの夕日に照らされた田園風景だ。夕日が眩しいので、風景はほとんど見えない。風景画というよりも、太陽の圧倒的な力の表現のように思える。人間はもちろん、自然をも超えた、ある絶対的な力の啓示のような作品だ。本作品は瑛九が亡くなる前年に描かれた。そのためなのかどうなのか、ろうそくが燃え尽きる前のような異常な輝きが表れている。画像を紹介したいのだが、残念ながら本展のHPには画像が掲載されていない。上記のフォト・デッサンも同様だ。チラシ↑に使われている作品は瑛九の「作品」(部分)だが、この作品から「田園」は想像できないだろう。
(2022.7.15.うらわ美術館)
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