89 アチャコの京都日誌 再びの京都 光悦寺に行って来た。
前回の続き
まず、本阿弥光悦とは、
本阿弥家はもともと刀剣の鑑定(めきき)や研ぎの家であったが、
刀剣以外への幅広い才能を家康に認められ、この地、鷹峯に広大な土地を賜った。
寛永の三筆の一人にも選ばれている能書家。(書が上手い)
また、俵屋宗達などと琳派の創設者でもある。尾形光琳がいたので(琳派)
その本阿弥光悦の墓がある「光悦寺」入り口は見逃しそうな狭いエントランス。
京都は、このエントランスを重んじる。
結界とも言う。神社の鳥居が典型的だ。俗世間と神域の境目をはっきりさせている。
寺ならば、山門・三門だ。茶室ならば、露地や躙り口。普通の生活とただならぬ非日常をはっきりと分けている。
その様に見ると、ここ光悦寺のエントランスが格別良い。
人とすれ違うにも苦労するような狭い長い参道を歩く。なだらかな下り坂を引き込まれるように歩く。
左右に迫る青紅葉。紅葉の季節には絶景だろう。足元には、長い歴史を感じる杉苔が続く。
歩き出した時に流れていた汗は、次第に引いている。本堂前の受付に着くと、すっかり俗世間を忘れている。
数々の茶室を見て回る。
有名な「光悦垣」緩やかなカーブが美しい。
奥には、鷹峯三山という緩やかな山並みを、借景として眺めることが出来る。
ゆっくりと光悦の墓を拝んで帰る。
もう一度、エントランスを振り返る。
ただ、光悦。身分制度に厳格な保守的な思想の持主であったようだ。
従って相当な秀吉嫌いで、成り上がり者と批判している。
関ケ原の直後から大阪の陣までの、まだ徳川政権が安定していない時期、
家康は太閤びいきの多い京都で、光悦をプロパガンダに上手く利用したのではないか。
結局、腹黒同士の駆け引きか?