アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

887 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 30

2021-09-15 09:58:36 | 日記

5、後鳥羽の君主意識  権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。

百人一首99番「後鳥羽院」 - らいちゃんの家庭菜園日記百人一首から

ここでどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとしすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。さらに、貴族には大臣・武士には将軍・僧侶には僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は、在地領主の為の政権を在地領主が支えるという独立した関東政権構想であり「東国国家論」とも言うべきものであった。相対立するようだが、その共存を考えたのが実朝だったのではないか。つまり東国支配に留まる鎌倉幕府が、朝廷の権威を最大限に利用し安定的に治め、地盤を固めることによっていずれは西国も支配下に治めて行くという目論見だ。その後、江戸時代に「大政委任論」という考え方が出て来たが、それを先取りするような考え方だ。その為には、朝廷と対立するのではなく、幕府の強化のために皇族将軍を置いて、むしろ朝廷崇拝を一層高めるという政策だった。その為に実朝は、朝廷の忠実な近臣になろうとした。天皇⇨将軍⇨御家人という統治ラインを考えたのである。実朝が、初代頼朝の右大臣を越えて太政大臣にまで地位を挙げ得たのは、後鳥羽と実朝の深い読みがあったと見るべきとした。幕府にとって「対立」することには何のメリットもないのである。しかしそれは義時と後鳥羽では成り立たず、御家人たちからは、実朝は朝廷へ迎合したとしか見えなかったのだ。

加えて、後鳥羽の国家意識は、極端なものであった。三種の神器を欠いた即位であったことによるコンプレックスが終生付きまとったのか、強い「復古主義」の実践者となった。延喜・天暦の醍醐天皇・村上天皇の時代に憧れた。それは、勅撰和歌集を「新古今和歌集」(古今和歌集は醍醐天皇の勅撰)と命名したことに顕著に現れている。従って、自らも朝廷儀式の勉学に励んだ。時には、無知な公家衆にもきつく叱責されたようだ。また、自由闊達を標ぼうするが、自由も闊達も後鳥羽が考え与えるものであって、部下である公家たちが天皇や上皇の権威を冒すような振舞いがあれば、「戯れと雖も、頗る恐れあり」(明月記)と叱責した。突然に激怒するようなこともあったようだ。権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもので個人の自由ではなかった。そのような神経質な対応は、いつの時代でも人望を得ることはない。そのような後鳥羽にとって、義時は「自由に振舞う不埒者」に見えたのだ。 しかし時代の趨勢を俯瞰的に読む力は後鳥羽上皇には無かった。


886 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 29

2021-09-14 10:03:47 | 日記

四、事件の経緯(終結)  時代を読めなかったという事か。

北条政子とは?演説や夫、墓・家系図・名言や悪女などの性格について解説!

「乱」の経緯は概ね以下の次第である。承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、京の南、鳥羽宮に「流鏑馬揃え」を口実に兵を集める。実は、予てから流鏑馬をしばしば実施しカモフラージュしていたものである。翌15日、上皇方が京都守護の伊賀光季邸を襲い、同時に義時追討の院宣を発する。この時点では上皇方は、院宣の力を信じ相当な御家人が参加すると読んでいた。一方、鎌倉には、早くも19日に京都から逃れた伊賀邸の家人が上皇挙兵を伝える。ここで大混乱する鎌倉御家人を前にして、北条政子の有名な「大演説」が行われる。何者かの讒言に基づき理不尽な義時討伐の院宣が出て、我等鎌倉(すなわち武家社会)を滅ぼそうとしていると言い、「故右大将頼朝、関東を草創以降の(中略)恩、山岳より高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。名を惜しむの族は、・・・・。」という涙ながらの大演説で方向は定まった。

大事なのは、義時個人の討伐が、鎌倉幕府倒幕にすり変わったことである。この時点で、事件の顛末は定まったと言っても良い。もちろん、御家人の中には「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく」と公言する者も多かったとも言われる。しかし、22日には東海道、東山道、北陸道の三方向から軍勢が出発し、当初18騎で出発したものが最終的には19万騎という大軍勢になったと『吾妻鑑』には書かれている。いささか誇張が過ぎるものの、早くも6月5日には戦端が開かれ6日には、岐阜尾張川付近で上皇方は大敗する。意外に兵が集まらず大混乱する上皇は、比叡山に登り僧兵の協力を求めるがこれも不調に終わる。6月13日、仕方なく宇治川の防衛に総戦力で当たるが、翌日には洛中に幕府軍がなだれ込む。鎌倉方の進軍が予想以上に早く、西国武士の多くが参戦する前に勝敗が決していたという。敗走して来た武将たちが、御所において「最後の一戦」を試みるが、なんと上皇は自らの保身に動く。門を固く閉ざし、早速「この度の乱は謀臣の企て」だと、幕府に使者を送る。しかし、乱後幕府はそれを許さず、三上皇を配流する。幕府軍総大将の義時の嫡子泰時は、京の六波羅に滞在し戦後処理と西国経営に乗り出す。上皇方の武将たちも尽く処断される。因みに、3000箇所の所領が没収され幕府方の御家人の恩賞として与えられた。

鎌倉時代】100 鎌倉幕府三代執権北条泰時と御成敗式目【日本史】 - YouTube

以上が事件の概要である。後鳥羽上皇、順徳上皇の配流は当然だが、積極的に乱に参加しなかったものの土御門上皇は自ら配流を申し出たもので、その人柄がうかがえる。また、後鳥羽上皇の「保身」については、祖父である後白河上皇も同様で、平清盛、木曽義仲、源義経、頼朝と手玉に取った手法に似ていて、その処世術に通ずるものであり特に驚くべきことではない。しかし、後白河と決定的に違うのは、後鳥羽は配流となった点である。泰時個人の討伐のつもりが、北条政子が鎌倉幕府の倒幕だと解釈させた機転にやられたのである。

要するに、時代を読めなかったという事だ。


番外 俺にも言わせろ!!

2021-09-12 08:35:31 | 日記

中国が、新政策を打ち出した。

若者のテレビゲームに興じる時間を制限すると言う。また、芸能活動についても過度な資金援助を目的とするものや、中世的なメークを禁じるなどだ。

要するに、将来を担う若者たちにゲーム中毒にならず、男とも女とも見分けつかない軟弱なことを規制すると言う事だ。

何故だろう。共感してしまう。我が子、我が孫が、ゲーム没頭したり過度に飾り立てた中性的な格好をしていたら注意するだろう。

中国の覇権主義や人権蹂躙事件には、批判的な感想を持つのだが、このような退廃的な風潮への規制には、なんでもかんでも自由だと叫ぶ日本の、我がまま気ままな自由に比べて正しいように思う。

コロナの震源地でありながら、全体主義の効果を駆使しいち早くコロナを退治したことも、中国国民には我が国の正統性を確信したのではないか。

中国は、左翼の先にあるのではない。右翼の象徴的な施策の先にある。共産主義や社会主義を標榜する政党の先に未来はなく、日本の保守の施策こそ中国に対抗できるものと思う。

高市早苗氏に、地上波メディアが一斉に情報操作を行っている。切り取り報道をしたり、ゲストに呼ばなかったり、ソフトな無視を決め込んでいる。

思想的な左翼・右翼論争は昭和の時代に終止符が打たれた。今は、合理的か不条理かを考えるべきであり、時に中国すら参考にすべきだ。今ここにあるコロナ禍は、一定の全体主義的規制も必要ではないか?


885 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 28

2021-09-10 08:49:23 | 日記

三、事件の経緯(発端) 後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけ。

 

 事件は、「乱」なのか「変」なのか、単に「合戦」なのか。合戦には違いないが、「変」というと偶発的・短期的なもので、本能寺は「変」である。「乱」は、計画的に準備された戦乱であり戦争に近い。だから応仁の「変」とは言わない。しかし「乱」には反乱の意味合いもある。従って、戦前までは上皇が反乱するのはおかしい、逆賊はあくまでも北条義時であるという「皇国史観」に基づいて「承久の変」と言っていた。しかし、現在教科書には「乱」を採用している。従って、上皇の謀反と言う異常事態である。

○鶴岡八幡宮で暗殺された実朝はその後… | 熱く散って逝ったもののふ列伝実朝暗殺の様子 公暁が陰から狙う。

 さて、承久元年(1219年)1月、雪中の鶴ケ岡八幡宮で、3代将軍実朝が暗殺されると遂に時代が大きく動く。以下、坂井孝一氏『承久の乱』をもとに経緯を書く。今までの定説によると、その一報を聞いた後鳥羽上皇は、狂喜し「倒幕」の機会をうかがうようになったとされている。その伏線として、実朝を右大臣にまでして「官打ち」にしたとされる。官打ちとは、身分不相応な高い位につけて「呪い」をかける事である。しかし、最近の研究でそれでは辻褄の合わないことが多いことが分かっている。 また、実朝のイメージの「武者らしくなく和歌など文化的才能しかなかった。」というのも疑わしい。2代頼家のあと統治者として次々と政策を打ち出して、むしろ政権発足以来の成果を挙げている。しかも、頼家のように御家人たちが反発した形跡もないのである。急きょ担がれて将軍になったが、地道に努力して御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、遂には権威と権力でしっかりと幕府を運営していた。ただ、不可思議なのは後継者を作っていない事だ。将軍など英雄には必須の生殖能力に問題があったのか、性的な嗜好によるものなのか、「源氏の正当な血統は自分の代で終わり、自らは高い官職について家名を挙げたい。」と言っている。(坂井氏『承久の乱』)さらに、次期将軍には後鳥羽の皇子を請来するという事を考えていた。意外にもこれについては、母の北条政子始め鎌倉御家人一同が協力して動いている。その事から考えられるのは、「一族の骨肉の争い」に終止符を打ちたいという気持ちは鎌倉御家人の全員の共通したものだったのだ。

 将軍を皇室から招き、自らは「幕府内院政」という立場で武家政治を行う。一方、朝廷で院政を敷く後鳥羽との連携を目指していたのである。場合によっては、実朝は政治は次世代に任せて上洛し、後鳥羽と歌合せなどを楽しみたいとまで思っていた節がある。このように、実朝の施策は後鳥羽の考え方と相いれるものだった。呪いの「官打ち」ではなく、二人の蜜月関係と解釈した方が辻褄が合う。

 しかし、その実朝が暗殺されたのである。公暁という青年の愚挙が、歴史に多大な影響をもたらした。しかもその直後、御所が焼失するという大事件が勃発する。鎌倉将軍が摂関家(九条家)から招くことに決定すると、京都においては、源三位頼政の孫源頼茂が将軍職を狙って反乱を起こす。後鳥羽が鎮圧軍を出したが、こともあろうに御所を燃やしてしまう。鎌倉の権力争いが、京都まで飛び火した形だ。この後、後鳥羽は御所再建に苦闘するが思うようにいかない。そもそも鎌倉の執権義時がしっかりしていればこんな事態にならなかったはずだ、と、考えるようになる。そして遂に、義時討伐の決意をする。決して倒幕ではない。思うような幕府にするために立ちあがったのだ。倒幕が目的ならば、頼茂の反乱に協力しこそすれ兵を出すことはない。繰り返すが、後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけだ。

 

  • 源三位頼政 平氏政権の中でも重用された源氏の長老。以仁王と組んで平家討伐の兵を立ち上げるが、敗走し宇治の平等院で切腹。

884 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 27

2021-09-09 09:07:01 | 日記

 

後鳥羽天皇

2,源家と皇室  不倫・不貞・略奪・そして兄弟親子の殺し合いなどなんでもあり。

源通親 - Wikipedia源通親

ここで平家討伐以降の源氏一族の推移を確認する。源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解(讒言による)を受けて奥羽平泉で討たれた。範頼も遂には、猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、源氏一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達に無理やり権限をはく奪され、それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企家を頼りに実母政子の北条家と対立する。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。頼家の同母弟3代将軍実朝も、頼家の遺児公暁により殺害され、その公暁も直後報復にあい殺される。公暁の弟も後日共謀を疑われ殺されている。そしてその後、頼朝の異母弟である阿野全成の遺児である時元が将軍の地位を狙い挙兵するが失敗し自殺する。その弟道暁も今後の憂いを絶つため北条氏に殺害される。お分かり頂けているかどうか、頼朝一族はここに根絶したのだ。八幡太郎義家を祖とする源家本流は根絶やしとなった。この間、北条政子は執権北条家の者とはいえ、実子を含む近親者をことごとく失いどんな思いだったのだろうか。幕府は、執権北条家の独裁に向けて突き進んで行った。

  一方、皇室(朝廷)は、後鳥羽上皇が治天の君として独裁(親裁)を始める。ただし、後鳥羽の長子土御門天皇は温和な性格で、後鳥羽とは反りが合わず、承久の乱においても消極的であったと伝わる。そこには複雑な事情があった。土御門の実母(在子)の母範子は藤原範兼の子で、後鳥羽の乳母であった。また、次代の弟の順徳天皇の実母(重子)の母兼子も藤原範兼の子で、こちらも後鳥羽の乳母であった。つまり後鳥羽の寵愛を受けた二人の女性は従妹同士だった。ややこしいのは、土御門の母が、あろうことか自分の母が寵愛を受けていた男と密通してしまう。これが後鳥羽が在子を母に持つ土御門を嫌う決定的な要因かと思う。その密通の相手は希代の策士と言われた源通親である。通親は村上源氏の末裔で、高倉天皇の側近として世に出て来た人物で、平家とも近しい関係を築く。しかし平家滅亡後は源氏にも後白河にも重用されるなど、一定の勢力に属さず上手く世渡りをしている人物だ。後白河上皇崩御後は、その最大の荘園を相続した勢力につくなどしてこの時期にうまく一気に政治勢力を伸ばしている。そのような時、自ら面倒を見ていた在子(親子とも男女の関係)が、後の土御門天皇になる皇子を生んだのだ。「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と言われ、「源博陸」と称され人生の絶頂を迎える。このようにしたたかな通親は、一方で朝幕間の重し役でもあった。当然、この源通親の死が、後鳥羽が強行策に転じる一つのきっかけとなった。従って、土御門上皇は性格上の問題もあったが、母親の関係からも積極的に関与できなかったのである。いつの時代も閨の出来事が政治に影響すると複雑な様相を呈する。

北条政子に憧れ続けた、人生だった。|こうみく|note北条政子

このように、朝廷にも幕府にも不安定な要素が内在していたのが、鎌倉時代初期の特殊性である。後世、我々は幕府が北条得宗家の支配になって行くことを知っているが、この時期どのような展開もあり得た混迷期であったことは間違いない。それにしても不倫・不貞・略奪・兄弟親子の殺し合いなど現代人には理解不能の世界だ。

だから歴史は面白い。