アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

909 新シリーズ 令和に巡る京の神社   第22番 晴明神社

2022-02-28 10:48:43 | 日記

第22番 晴明神社

京都市上京区堀川通一条上る晴明町806-1

主祭神    安倍晴明御霊神

堀河通今出川の交差点から、東に白峯神宮。南に晴明神社がある。徒歩5分ほどの距離だ。晴明神社は近年、急に参詣者が増えた。しかも若い女性を中心に異常なブームとなっている。言うまでもなく夢枕獏氏の「陰陽師」シリーズの大ヒットとその映画化が決定的ブームの火付け役を担った。特に、晴明歿後千年となる2005年(平成17年)には安倍晴明千年祭が行われ一層話題になった。筆者の記憶では、それ以前は社殿も今のように整備されていなくてひっそりとしたものではなかったかと思う。以前の方が霊力を感じたのは筆者だけではないだろう。とにかくいつ行っても賑わっている。なお、堀河通りに面して1の鳥居を設けたのは昭和25年で、となっている。平成29年には2の鳥居も出来た。

安倍清明は平安時代の陰陽師・天文学者であった人で、花山天皇の退位を事前に予想し有名になった。その後も数々の霊力を発揮し数代の天皇に仕えて、晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇はその遺業を賛え、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。なお、隣接して千利休の屋敷があったところでその碑が建っている。

また、堀河通りを挟んで「一条戻り橋」があり境内入口にその模型がある。戻り橋は元々は、一条大路の堀川を渡る橋として平安京創設時に架橋されたのだが、「戻橋」という名前の由来については学者の三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた修行中の子浄蔵貴所が棺に祈ると、清行が一時生き返り、父子がひと時別れを惜しんだという伝説による。その後、占い橋としても数々の逸話を生む。また、戦国時代には処刑された武将たちの晒し首の場でもあった。千利休もこちらに首を晒された。近くに邸宅があったことはすでに書いた。

そのような橋なので、「出戻り」につながる為、嫁入り行列はもちろん嫁入り前の娘さんもこの橋には近づかなかった。逆に、太平洋戦争時、出征する京都の兵士たちはここを渡り無事戻れるように願った。京都の人は様々な縁起を担ぐのだ。神社の前のバス停は、「晴明神社・一条戻り橋前」となっている。(写真)

境内には、安倍清明の生涯を紹介する絵や、晴明の石像、樹齢300年の楠の御神木、厄払いの桃などあり見どころは多い。中でも晴明が念力で掘り当てた「晴明井」は必見だ。今でも清水が湧き出ていて飲料にも適している。確か井戸の五芒星型の蓋はその年の恵方を向いているはずだ。

鳥居の扁額には、「晴明桔梗」とも言われる「五芒星」が掲げられている。晴明による陰陽道における重要な祈祷呪符の一つだ。若い女性たちはそれぞれインスタ映えを求め撮影に余念がない。その後、お揃いの五芒星印の紙袋に一杯の縁起物を購入し帰路につく。さて、願いは何なのか?


908 新シリーズ 令和に巡る京の神社 第21番 白峯神宮

2022-02-27 08:29:37 | 日記

第21番 白峯神宮

 

京都市上京区今出川通堀川東飛鳥井町261

主祭神 - 崇徳天皇、淳仁天皇

摂社 柊大明神(厄除・延命長寿の神 例祭2月節分)

今宮大神(無病息災の神 例祭10月9日)

白峯天神(学業成就の神 例祭3月25日)

糸元大明神(織物繁栄・和装の神 例祭10月10日)

世の中に恨みを残して死んだ高貴な方は、怨霊になる。そしてその祟りを封じ込めるために篤くその御魂をお祀りする。そのような神社は多い。京都では上京の御霊神社をはじめ、菅原道真の天神信仰や17番で紹介した福王子神社もそれと推定した。霊力の強さは生前の地位の高さと死に至る理不尽さに比例する。こちら白峯神宮の主祭神の崇徳上皇は前天皇という最高の地位にあった上に、異母兄弟である後白河と争った保元の乱の敗北により無残にも讃岐に流され憤死した。しかも舌を噛み切ってその血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」書き込んだのだ。霊力の強さは間違いない。

崇徳という最高の贈り名(崩御後のお名前)を与えたが、その後平氏の世となり「まさに民(清盛)が(孫の安徳天皇を利用し)国を支配した。」これらを祟りと見たのだ。贈り名に「徳」の文字が付く天皇は不幸な死を迎え怨霊を疑っていると思われる。因みに、平将門・菅原道真と合わせて日本の3大怨霊とする。

崇徳天皇は四国の地で篤く祀られていたが、幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている上皇を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じた。そしてその遺志を継いだ明治天皇が上皇の御霊を讃岐国から京都に迎えた。明治と改元する前日であり明治天皇が参拝し翌日、改元の宣命を発した。それほど明治新政府への並々ならぬ意気込みと、崇徳上皇の祟りを恐れたのである。

さて、そのような重い経緯を持つ当社であるが、この地が蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の屋敷の跡地であり摂社の精大明神はその守護神であることから、現在ではサッカーの神様とされ、さらに球技全般およびスポーツの守護神となった。このあたり京都の大らかさが見受けられる。従って、拝殿周囲の提灯には各種スポーツ団体の寄進のものが多く。社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたサイン入りのボールがところ狭しと並んでいる。いまや怨霊封じ込めの雰囲気はなく、スポーツを楽しむ平和な日本の象徴となっている。お守りや縁起物もスポーツにちなんだものが有名で、叶う輪(かなうわ)という腕輪など微笑ましい。

境内には、京都市指定天然記念物の樹齢800年の小賀玉の木(おがたまのき)や、蹴鞠の碑とともに蹴鞠を奉納する新霊域(蹴鞠庭)、各摂社が見られる。

以下に年中行事を記載する。

2月節分 節分祭(鬼遣い豆まき神事)

3月16日 交通安全祈願祭

4月14日 春季例大祭 淳仁天皇祭(蹴鞠奉納) 10:30

5月 5日 子供の日 武道奨励繁栄祭・古武道奉納報告祭 9:00 11:00

6月30日 夏越大祓祭(茅の輪くぐり)

7月 7日 精大明神例祭(七夕祭・山城舞楽・蹴鞠 14:00 ・小町踊り奉納奉告祭) 16:30

9月21日 秋季例大祭 崇徳天皇祭(薪能) 11:00

10月吉日 観月祭・献燈講大祭(望月の日)(管絃・舞楽) 18:00

11月15日 伴緒社祭(御弓神事)七五三詣

11月23日 新嘗祭(日供講大祭・献茶式・潜龍大明神祭・御火焚祭)

以上、ウキペディアより

本年の天皇誕生日にお伺いした。神職にお聞きしたところ「特別な祈祷」を行ったとのことで、しばし歓談をしたが、四国の静かな環境で1000年余り祟りながらも静かに過ごしていた崇徳上皇の御霊は、突然に王城の地京都に還幸されたが、ご本人には1000年の眠りを起こされて大変迷惑しただろうと意見が一致した。もはや祟る気力も失せたか?


907  新シリーズ 令和に巡る京の神社 ⑳ 櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)

2022-02-24 12:02:26 | 日記

第20番 櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)

 

京都市上京区大宮通盧山寺上る西入社横町277番地

御祭神 高沙大神・春日大神・武甕槌命 他19柱

ご利益 良縁結び・悪縁切り

往年のたたずまいはない

世の中には、良縁・奇縁を求める人以上に、縁切りを求める人がなんと多い事か。なさぬ仲の不倫や望まないパートナーとの縁を切りたいなどと言う話は誠に多い。さらに、ビジネス上や近所付き合いなど複雑な現代社会では、関わりたくない相手とのストレスが人生を狂わしている。SDGsでは、多様性を重要視するが、一方的に考え方を強要するのはストレスの原因でもある。陰湿ないじめやSNS上での誹謗中傷は切れない「悪縁」に対する心の闇の発露でもある。嫌な人間が死ねばいいとか、会わずに済めばどんなに幸せか。このような望みが叶えられる神社が昨今大流行りだ。祇園東山の安井金毘羅宮なども有名だが、こちらは誠にマイナーだが、その霊力は尋常ではない。

上京の北の端、西陣地区のど真ん中の織家町に隠れるように鎮座している。筆者は2度お参りしたが、いずれも道に迷った。社伝によれば、文徳天皇(850年)の皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため大和国三笠山から春日の大神をお迎えしたのが始まりとされる。当時は谷川が流れていたのであろう、その場所が山城国櫟谷(いちいだに)という。また、「七野」とは、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野のことで七野の惣社として祀られたとされる。

本殿

そして重要なのは、宇多天皇(894年)の皇后が薄れた天皇の愛を復活させてほしいと祈った話だ。その折、白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通り祈った所、天皇の愛情が戻ったとされる。それ以来、社前に白砂を積めば「浮気封じ・愛の復活の願い」が叶うといわれ、白砂も「高砂山」と呼ばれる。(写真)現在では、パートナーの浮気相手に密かにまじないを施すと縁切りさせることが出来るとも。もし読者の方で不倫をしていて、知らないうちに手元に「封じ物」(小さな白砂粒)が見つかったら相手の配偶者が密かに仕込んだものと思って間違いない。

縁切りセット?

また、当地は伊勢神宮の斎王同様、平安から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎王が身を清めて住んでいた場所でもあった。従って、「紫野斎院」と称された。(写真)

嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王を初代とし、約400年続き後鳥羽天皇の皇女礼子(いやこ)内親王をもって廃絶した。天皇の女子(内親王)など高位の未婚の処女をもって任命された。現在では、葵祭の「斎王代」にその伝統が引き継がれている。勿論、未婚の市内の女性が選ばれる。残念ながら多様性の観点から、未婚とは言え穢れなき童女かどうかの条件はない。

なお、重要な事だがこちらでご祈祷を受ける際に、氏名・住所・相手の氏名など情報を記入しても絶対に守秘義務は守られ、自宅に郵送物も送らないとの事だ。さらにおかれた状況が厳しい場合、参詣せずとも郵送でもご祈祷が叶えられるとの事。もっと驚くのは「特別ご相談」といって「 ご神前にて宮司がゆっくり落ち着いてお悩み等をお聞きします。」との事で、「ご神威を仰ぎまつりて神のさし示される正しい道に従って心穏やかに、将来を進んでいただけるよう、最良の進路を明瞭にお話申し上げます。」とまでHPには書かれている。世の中にはこの手の悩みを持ち、相談相手に困っている人が多いのだろう。コロナ禍のさなか、コロナそのものでなくなる人も多いが、心的ストレスで命を落とす弱い人たちにも注意する必要がある。

やはり、「不倫は文化」ではない。倫理にもとる野蛮な行為である。バレなけば良いと思っているあなた!現に慎みを。

ポチも見ている。


906  新シリーズ 令和に巡る京の神社 ⑲ 建勲神社

2022-02-21 11:07:37 | 日記

 

第19番 建勲神社

京都市北区紫野北舟岡町49 

御祭神    贈太政大臣贈正一位           織田信長公           

配 祀    従三位左近衛中将              織田信忠卿

西陣地区を眺める

織田信長を御祭神に祀る神社がある。日本は「八百万の神の国」と言われるように家康も秀吉もみんな神様になった。もっと言うならば、靖国では「英霊」と言うように国に殉じた人はすべて神様になる国が日本なのだ。

拝殿前

場所は「船岡山」。京都三山という、「双ヶ岡」「吉田山」と合わせてそう呼ぶ。いずれも神聖な場所とされる。すぐ南には「西陣」、北には大徳寺の伽藍が広がる地域だ。本殿のある場所からは、西陣地区から東方の左京区方面、遠くには比叡山も眺められる。大鳥居からの石段は数分で本殿にたどり着くが、不摂生の小生は早くも息が上がる。途中、信長が好んで謡ったとされる「敦盛」の一節が石碑となって置かれている。さらに一段上に、拝殿・本殿と続く。拝殿の内面周辺には、信長の強力な配下の36人の武将の絵が飾ってある。正面に向き直り、作法通り天下国家の繁栄を祈る。

「敦盛」の石碑

戦国の世を泰平に導いた信長は、明智光秀の謀反により本能寺に倒れた為か、いつまでもファンは多い。歴史は天下統一を目前に光秀が天下を簒奪しようとしたとされるが、小生は信長の狂信的な権力志向については限界があったと考える。西の毛利氏や東に上杉氏・北条氏などの梟雄がまだまだ天下への望みを持ち、光秀以外の配下の武将も戦乱に明け暮れ疲弊の極致にありさらに、本願寺など宗教界を長く敵に回すなど脆弱な状況にあったとも言える。そう考えると、謀反は光秀以外にも可能性があったのではないか。

本殿

なお、昨今の戦国ブームに加え「歴女」の出現で、多様な御朱印やお守りなどのグッズが多種多様になっている。社務所の受付の前に立つと、「凶の出やすいおみくじ」という看板。他の神社よりも凶の数を多くしておりますと言う。面白い。こうなれば運試し、凶を出すために挑戦した。結果はめでたく凶だった。神社の人の説明によると、「凶が出れば今が一番悪い時」「これから運気上昇」との事。なるほど、めったにおみくじなどしない小生も思わず引いてしまった。しかもその内容は徹底して悪いもので、旅行・商売・婚姻・願望すべて叶わずであった。婚姻以外はショックだった。

因みに、秀吉がこの地に追悼の寺(天正寺)を建立しようとしたが生前に間に合わず、時代を経て明治天皇より建勲神社の神号を賜り、永久に国家安泰・万民安堵の神とし、崇められるようになった。このように現実社会で英雄と称えられた人物の遺徳をしのぶ神社も京都には多いのだ。


905  新シリーズ 令和に巡る京の神社  ⑱ 平岡八幡宮

2022-02-19 10:02:38 | 日記

第18番 平岡八幡宮

京都市右京区梅ヶ畑宮ノ口町23番地

主祭神    誉田別命(応神天皇)

周山街道を高雄に向かう途中にある神社で、その高雄の神護寺と関係が深い。神護寺を創建した空海(弘法大師)が、その守護神に僧形の八幡神像をご神体として宇佐八幡宮社から勧請した。京都で一番古い八幡宮社となる。有名な石清水八幡宮の創建は100年近く後清和天皇の時代だ。神護寺と同様、鎌倉時代に僧文覚が再建した。

全国にたくさんある八幡宮は応神天皇を御祭神にし、后である神功皇后とともに祀っている事が多い。新羅征伐で有名な事実上女帝であったとされる戦う皇后のイメージが大きく、また幼名八幡太郎で有名な源義家の影響もあり武家(特に源氏)から崇敬を集める。従って、勝負事の神様のイメージが強い。

まっすぐで長い参道を自動車で一気に登り、本殿の前まで行く。拝殿の前では、15日の正月明けの行事「左義長とんど祭り」の跡が残っていた。また、こちらは「花の天井」が有名。室町幕府の絶頂期足利義満が描かせたものを、江戸時代末期に復元したものだ。普段は見えないが特別な時に公開している。その社殿の前で柏手を打ち祈願し本殿を見上げると、切妻造りの立派なもので京都市内最大級の規模を誇るものだそうだ。

さらに、その本殿内陣には「願い事をすると白玉椿が一夜で開花した。」と言う故事にゆかりの「熨斗袋から紅白椿」を描いたものがある。それに因んだのか社務所庭園には「しだれ八重の白玉椿」が、咲くと言う.

お守りの種類も豊富で楽しく、境内も注意して見れば摂社や為朝(鎮西八郎源為朝)の「試し石」、俳人鈴鹿野風呂の句碑など見どころが多い。素朴な神社だが長い歴史と強い霊力を感じる。充実感を得て帰路についた。