アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

387 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ① 吉符入りとお千度

2018-06-30 08:22:02 | 日記

アチャコの京都の歳時記 (新シリーズ) 

7月1日 祇園祭

6月30日の夏越の祓が終わると、祇園祭が始まる。

「夏越の祓」の画像検索結果夏越の祓

祇園祭は京都の最大の観光遺産だ。7月の17日の山鉾巡行(前祭)24日の後祭も定着した。特に前祭の前夜、宵山は多くの出店が出て老若男女が四条烏丸界隈に繰り出す。各鋒町の屏風祭と称する町屋のお宝のお披露目も楽しい。

しかし祇園祭は、7月1日がスタートであり、当然八坂神社のお祭りである。その1日は「お千度参り」が行われる。毎年鉾の先頭を行く長刀鉾の稚児が、祭の無事を願って八坂の本殿の周囲を三度巡って昇殿し祈る。(愛宕神社の通夜祭もたった一日で千日参りというが、3度で千度巡った事にしたのか?)稚児を務める主役は「涼み衣装」という夏用の裃に身を包み禿二人を従えての登場である。

「naginata 長刀...」の画像検索結果剛力が担ぐ

今年の稚児は同志社小学校3年の子と、禿2名は同じく同志社小学校そして立命館小学校の3年生だという。いずれも有力者の子であろう。同志社と立命に小学校があったのか?

「naginata 長刀...」の画像検索結果稚児3人

太平の舞を舞い、そして結界を示す注連縄を切る大役が待っている。巡行の前には、位を授与されその後は神様扱いを受ける。(五位の少将で10万石大名)家族も近寄れず、従って、地面には足をつけずすべて剛力が肩に担いで移動する。

「吉符入り」の画像検索結果吉符入り

また、各鋒町では「吉符入り」という神事始めを行いコンチキチンの祇園ばやしの稽古も始まる。一か月間の「祇園祭」の一か月が始まる。


付録

2018-06-29 08:42:25 | 日記

   皇后藤原乙牟漏760-790 - 藤原良継


386 アチャコの京都観光日誌 最終回 桓武天皇 ④ このシリーズありがとうございました。

2018-06-29 08:28:14 | 日記

とうとう最終回。桓武天皇の功績について書いてこのシリーズを終える。

50代 桓武天皇 ④ 功績

「桓武」の画像検索結果

桓武天皇の功績は、何と言っても子沢山だ。多くの皇子・皇女を姓を与えて臣籍降下させた。ご存知桓武平氏の始まりだ。ここで脱線、源氏と平家。平氏と源家とは言わない、何故か?平家とか源家と言うと一定の一族を示す。一族の全体を源氏平氏と言う。つまり清盛を総帥とする平家は滅びたが、平氏は各地に生き残った。平家物語は清盛一族と源氏総勢との戦いだったのだ。しかし頼朝の一族の「源家」は滅んだ。

「田村麻呂」の画像検索結果


さて、桓武天皇の次の功績は、蝦夷の平定だ。坂上田村麿の活躍で東北の鎮圧は一時的に出来たのだ。これも大きい、戦費が半端なかったので都の経営に専念できた。

「秦氏」の画像検索結果蛇塚古墳 秦氏の墓

三番目は渡来人の登用だ。これはその後の日本に大きく影響する。百済系の母を持つ桓武天皇は、技術力に優れた渡来人を多く使った。都を移したのはむしろ渡来人の多いこの地を選んだと言う説もある。当時の宮廷人の二割以上は渡来人だったようだ。韓国人朝鮮人と差別するのは如何にナンセンスか。ヤマト朝廷は彼らの祖先の貢献なしには語れない。仏教や織物、鋳造術など何でもかんでも取り入れる日本人の柔軟性は古代からあった。

「天皇」の画像検索結果その後今上天皇まで皇統は

続く

遂に、50代桓武天皇でこのシリーズは終了だ。インターネットに頼らずなるべく手元の書籍で調べて書いたが、ウキペディアのお世話になること大であった。写真もネットを利用したが著作権に触れるものはないと思うが・・・・。

いずれももうちょっと勉強して本にしたい。売れないだろうけど・・・。

以下に、桓武天皇が関係した妃・皇后と多くの(すべてではない)子供を列挙して終了する。


あんず屋 追悼号

2018-06-29 07:51:39 | 日記

行きつけの飲み屋を持つ。大人の矜持を持つために必要だ。

注文などしない。一人で行く。カウンターの隅に座る。長居はしない。

大人飲みの条件だ。京都祇園のこの店が静かに閉店する。

昨年の開店以来、毎週通った。京都の隠れ家のちょっとした楽しみだった。

客筋の良い店で、知り合いも出来た。その場限りの会話も楽しめた。仲間との会食も良かった。

しかし、やはり一人で訪ね一人で帰る。ほろ酔いで祇園をそぞろ歩いて帰る。至福の時だった。

明日からどこで飲めば良いのか?おかみ!ありがとう。ご苦労様・・・・。♡


395アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 50代 桓武天皇 ③長岡京

2018-06-28 10:44:25 | 日記

桓武天皇 ③ 長岡京

京都観光検定第1回 3級の第一問は、「平安京遷都の前の都はどこにあったか?」であった。4択なので間違いは少なかったが、平城京と答えた人が意外に多かった。

「京都検定」の画像検索結果

答えは当然、長岡京。さて、前回までで平城宮から遷都する理由が明らかになった。

・既存仏教勢力や天武系貴族を押さえる為・天智系の天皇即位を続ける決意表明・陸路しかない平城宮に限界があった事。

などが言われるが、特に、3番目については、長岡京が最適であった。桂川・宇治川・木津川などが合流し淀川に流れ込む分岐点である乙訓地方は、水運の便が良かった。

「乙訓地図」の画像検索結果

また、地下水にも恵まれ現在サントリーウイスキー工場がある事でも明らかなように井戸水の宝庫だった。古代、都の最大の問題は下水処理だった。特に平城京は糞尿処理に困ったと言われる。その点、長岡京は水事情が良く、発掘の結果各家屋に井戸があり、都全体に下水処理のシステムが張り巡らされたと言われる。

「長岡京」の画像検索結果

長く幻の都となっていたが、発掘が進みかなりの部分出来上がっていたと思われる。地元高校教師の中山修二氏の功績が大きい。

長岡京というが、都の大部分は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に所在する。昔の乙訓郡である。今年の選抜高校野球で公立の乙訓高校は近畿大会でベスト4となり初出場したのが話題になった。

「長岡京暗殺」の画像検索結果

しかし、工事責任者の側近中の側近である種継が暗殺された。当然反対派の仕業が疑われた。しかも桓武天皇の弟で次期天皇の早良親王の関与が疑われた。捕らえられた早良親王は、乙訓寺で食を絶ち憤死する。結果、本邦最大級の怨霊となる。その怨霊を恐れて都建設を断念せざるを得なくなる。怨霊が政治を動かしていた時代だ。冤罪で死んだ高貴な方の地位が高ければ高いほど強い怨霊となるのだ。

「早良親王」の画像検索結果

崇道天皇と後から追号するがそれでもおさまらず長く祟りをなした。

遂に山城の地に都建設を託す。そこは四神相応の地であった。