アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

835 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇 ⑥

2021-04-30 06:24:31 | 日記

⑥  お二人の晩年  京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。

 

修学院離宮

後水尾上皇は、譲位した後は健康も回復したのか、魅せられたように自由に活動している。一番目立つのは修学院への行幸である。岩倉、幡枝御所を中心に離宮建設場所を求めてしばしば訪ねている。平安の昔、嵯峨天皇が、嵯峨野に隠棲の地を定め、後に門跡寺院である大覚寺という官寺を建設したのと同じ構想をもっていた。慶安4年(1652年)、徳川家光が没すると独断で「落飾」し法皇となった後水尾は、この地を仏道の拠点と考えていたのかも知れない。寺院の建設は実現しなかったが、現在も見学希望者の絶えない「閑放の地」を立派につくりあげた。

 

修学院御幸の時は、必ず東福門院を伴っていた。この徳川和子について、前出の熊倉功夫氏『後水尾天皇』には、「むしろ庶民にこそ受け入れられた。」と書いている。莫大な財力をバックに、派手好みとして巷にも噂の和子は、尾形光琳の実家である呉服屋「雁金屋」から膨大な衣装を注文していた。それは「御所染め」と言われ、中宮和子は京都に於けるファッションリーダーとなっていた。武家出身だがむしろ庶民の憧れの的とされ、和子に最初の皇子が誕生した時には、町の人々のお祝いの踊りが市中から中宮御所にまで繰り広げられたという。戦乱の世が治まり、公武合体が庶民にも好ましく思われたのだろう。

また、36名にも及ぶ後水尾のお子達の良き母親でもあった。特に、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と他の女房からの所生とは言え、3人の天皇をすべて自らの子として即位させている。幕府に遠慮したり、経済的に不自由することの無いようにとの深い配慮である。最も象徴的なのは、先にも書いたが、およつ御寮人の子である梅宮(文智女王)との交流である。梅宮が居た門跡寺院円照寺を、修学院離宮造営にあたり大和に移転するにあたっては、誠に手厚く配慮している。一方、梅宮の方もその好意に深く感謝の気持ちを伝えている。そして、その梅宮は東福門院の臨終に際して寝所近くに侍り見送った。延宝6年(1678年)東福門院和子72歳の大往生であった。

そしてそのあとを追いかけるように、同8年(1680年)後水尾法皇も臨終を迎えている。長く生きることが、幕府への最後の戦いだった。暑気あたりからの衰弱と伝えられるが、中宮和子同様老衰による大往生というべきだろう。85歳の長寿は、昭和天皇がそれを超えるまで最長寿天皇であった。昭和天皇のおっしゃった通り「(寿命や医学の発展など)時代が違う。」ことを考えると、別格の長寿と言わざるを得ない。これで、幕府と正面から戦う天皇はしばらく出て来なくなる。清和天皇の追号を希望して「後水尾」としたのはご本人の「御素意」である。京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。

幡枝御所 圓通寺 比叡山を背景にした借景

和子が徳川の財力を背景に後水尾に協力して整備した。


834  あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇 ⑤

2021-04-29 09:01:08 | 日記

⑤ 幕府(東福門院和子)との関係  恐ろしや高貴な「血統の戦い」

後水尾天皇 (中公文庫) | 熊倉 功夫 |本 | 通販 | Amazon

 ここで、後水尾天皇の皇子・皇女を、お相手ごとに羅列する。お相手の方をA~Gの7名の方々とし、その間に36名のお子様を生ませておられる。もちろん記録に残るものに限られる。腫物に悩まされるものの、一方そちらではすこぶる健康な天皇が、多くのお子を成すのは大変結構な事だ。高貴な方達の重要な役目の一つが「生殖活動」である事は何度も書いて来た。しかし、不自然ではないか。健康な男子であれば生殖に最適な年齢は、10代後半から20代前半である。ところがおよつ御寮人事件の四辻与津子との間の2名以外には、20代のみならず譲位するまでは、その中宮和子との間しか子がいない。女性に興味の薄い天皇ではない。上皇となって多くのお子を作っている事から見ても晩年までお元気でいらっしゃる。まことに不思議なことだ。幕府に遠慮して、在位中は側室を持たなかったのか。実は幕府に忖度して子が出来ても処分したらしいのだ。

そのあたり、熊倉功夫氏『後水尾天皇』中公文庫(第3章寛永6年11月8日譲位)には、細川三斎(忠興)が当時の世間の噂を息子の忠利に書状で書き送った内容を紹介している。なんとその中に、衝撃的箇所があった。後水尾の退位の理由を縷々書いているのだが、「御局衆のはらに宮様たちいかほども出来申候を、おしころし、または流し申し候事」という。つまり、隠れた(言えない)理由として、天皇の中宮和子以外の女官に出来た皇子が殺されたり流されたりしていたというのだ。つまり、徳川家の直系の子以外には決して皇統を継がせないという事である。文面からは複数のお子が処分されたことと思われる。そのあたり前出の川口氏の小説には、与津子との間にできた男子である賀茂宮も毒殺された事を示唆している。

 確かに、女帝であるとは言え明正天皇という徳川家の血筋が即位してからは、猛烈な勢いでお子を成していらっしゃるのだから、噂とは言えあり得る話である。一方、それでも和子との間に2名の男子が誕生している。しかし、二人とも早世している。これも不自然ではないか。成長したのはすべて皇女である。偶然なのか、朝廷側の逆襲なのか。いずれにしても徳川家と朝廷のどす黒い戦いがあったのである。後水尾天皇は今までの天皇と違って武力は行使できなかったが、ものすごい戦いを行っていた。

琴瑟相和」(きんしつそうわ)の意味

 ただ、救いはお二人が、「琴瑟相和す」関係であったのだろう。中宮和子との間には計7名のお子が出来ている。前出の小説でも、初夜に早くも天皇は警戒心を解き、その純粋で無垢な人柄に魅了されたとなっている。確かに今に残る和子の肖像を見ると、誠に可愛いお顔をされている。また教養にあふれ京都の多くの寺院の再興に努めている。さらに、その臨終の折り、枕頭にはおよつ御寮人の子文智女王がいたという。なぜかホットする話だ。それにしてもげに恐ろしや高貴な「血統の戦い」というものは。

 

資料 後水尾天皇(上皇)皇子・皇女一覧(A~Gのお相手別、出生順に記載)

  • お相手

A中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678)

B典侍:四辻与津子(?-1638)

C典侍:園光子(壬生院)(1602-1656)

D典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)

E典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677)

F典侍:四辻継子(権中納言局)(?-1657)

G宮人:水無瀬氏子(帥局)(1607-1672)

  • お子 数字はお子の誕生時の後水尾の数え年齢

B23第一皇子:賀茂宮(1618-1622)

B24第一皇女:文智女王(1619-1697)円照寺

和子入内

A28第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)

A30第三皇女:女二宮[注釈 1](1625-1651、秋月院妙澄大師)

A31第二皇子:高仁親王(1626-1628)

A33第三皇子:若宮(1628)

A34第四皇女:女三宮昭子内親王(顕子内親王)(1629-1675)

譲位

D36第五皇女:理昌女王(1631-1656) - 宝鏡寺宮門跡

A37第六皇女:女五宮賀子内親王(1632-1696) - 二条光平室

C38第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)

D38第五皇子:某(1633)

A38第七皇女:菊宮(1633-1634)

D39第八皇女:光子内親王(1634-1727)

C39第六皇子:守澄法親王(1634-1680) - 初代輪王寺宮門跡、179代天台座主

G40第九皇女:新宮(1635-1637)

C42第十皇女:元昌女王(1637-1662)

G42第七皇子:性承法親王(1637-1678) - 仁和寺御室

D42第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)

D44第九皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡、東寺長者

C44第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)

D45第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)

E45第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)- 181・184・187代天台座主

C46第十三皇女:桂宮(1641-1644)

D46第十四皇女:理忠女王(1641-1689)

E47第十五皇女:常子内親王(1642-1702) -近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母

D48第十一皇子:穏仁親王(第3代八条宮)(1643-1665)

F50第十二皇子:尊光法親王(1645-1680) - 徳川家光猶子・知恩院宮門跡

D52第十三皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡、園城寺長吏

E54第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706) - 一乗院宮門跡、興福寺別当

F56第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680) - 183・186代天台座主

E56第十六皇子:尊證法親王(1651-1694) - 182・185代天台座主

F59第十六皇女:文察女王(1654-1683)

E59第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)

E62第十七皇女:永享女王(1657-1686)

 

  • 熊倉功夫氏『後水尾天皇』118頁と、インターネット情報などを参考に筆者作成
  • 筆者感想 40代の生殖活動のものすごさは、現代のお父さんたちには羨ましい限りだ。

833  あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇  ④

2021-04-27 20:04:56 | 日記

 

④ 春日の局  遂に幕府に宣戦布告した。

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 従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、昔は良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険さえある厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)に直接施術するのはタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王(桂離宮創設者)が同じ病で死去している。

 しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の理由は前項で述べた「紫衣事件」である。しかし加えて、さらに許しがたい事件が重なった。それが「春日の局参内」問題である。以下、緊迫感ある経緯を時系列で書くと。

寛永6年 8月    幕府、天皇へ譲位の延期を要請

8月27日 和子女子出産(またしても徳川家血統の男子誕生の夢破れる)

           これを受けて、家光の乳母「お福」を使者にして天皇の実情を伺いに派遣決定

    10月10日 お福改め「春日の局」 御水尾天皇に拝謁し天盃を賜る

    10月15日 後水尾天皇から土御門泰重に密命降る

    10月24日 宮中で神楽 春日の局のみ見学(後水尾天皇参加せず)

    10月27日 土御門泰重に女一宮を内親王に叙すことでの調査指示   

    10月29日 女一宮を内親王に叙す

    11月 2日 中院通村を大納言に昇任

    11月 8日 公家衆に伺候命令  その場で譲位伝える。

 以上の経緯を眺めると、それまでの許しがたい状況に加えて、無位無官の武家の娘「お福」が幕府の使いとして参内することがきっかけになって、後水尾天皇がにわかに対応していることが分かる。因みに、お福とは、本能寺の変における明智光秀の第一の侍大将であった斉藤利光の子である。本来なら、「謀反人の子」なのだが、家光の乳母として大奥に揺るぎない地位を築いた女性である。簾内とは言え無位無官では天皇に拝謁できない為、急きょ「従三位春日の局 藤原福子」の称号を与えた。何故、これほど明智光秀ゆかりの人物を重用したのだろうか。「本能寺の変」を徳川家康の陰謀とする説は、このような事実から出ている。話を戻す。従来なら、このような重大決定は幕府に許可を取るか、せめて事前に伝えなければならない。その様な手続きも飛ばしている。

徳川秀忠 - Wikipedia秀忠

 遂に、幕府に宣戦布告したようなものだった。最後は、一人の公家とも相談せずおひとりで決断したようだ。しかし、もっと許せないことがあった。さらに続く。


832  あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇  ③

2021-04-27 08:47:29 | 日記

 

3    紫衣事件  朝幕の力関係は幕府優先が確定した。

金地院崇伝 | 世界の歴史まっぷ黒衣の宰相 金地院崇伝

 さらに、「紫衣事件」という後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に「紫」を使う事は最高の地位を現わすもので古来より朝廷がその許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で、幕府はみだりに朝廷が紫衣を授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。10年以上経て幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。

 この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題としたかである。この間、あえて幕府は黙殺し法度はずっと有名無実化していたのであり、当然紫衣を許された僧侶が複数いる事を幕府も将軍も知っていたのである。ここで登場するのが、金地院崇伝で、南海坊天海上人と並び江戸初期の幕府の政策全般に関わった政治家かつ高僧である。特に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、この年(寛永4年)になり、江戸城で一つの覚書を提出する。その内容はつまり、「元和の法度」(慶長20年改め元和元年)以降の出世(勅許)を尽く無効としたというものであった。浄土宗だけでも29通の綸旨(勅許)が無効とされるもので宗教界はパニック状態に陥る。朝廷のみならず有名な高僧が次々に抗議し、大徳寺の沢庵宗彭和尚や玉室宗珀、江月宗玩が、「抗弁書」を提出した。崇伝は、「甚だもって上意にかなはず」として一蹴した。結果、沢庵、玉室の二人は配流と決まった。因みに崇伝は、この頃京都では、「天下の嫌われ者」と言われた。

大徳寺 山門「金毛閣」

 さて、後水尾天皇はこのことでどう対応したか。元和以来の多くの綸旨が無効にされ、大徳寺や妙心寺の高僧達が、不届きものとされ衣をはがれ、さらに流罪に処されたのである。言わば、天皇ご自身ののど元に刃を向けられたようなものであった。「主上にとってこの上の御恥はないとの儀」と細川三斎(忠興)は述べている。この事件は、勅許よりも法度、天皇よりも将軍が上であることを天下に知らしめたに等しい。まさに朝幕の力関係は幕府優先が確定したのであった。

 後水尾天皇は、再び譲位を武器に戦いを挑んだ。この時、天皇が詠んだ御製は、

「 思う事 なきだにいとう世中に 哀れ捨てても おかしからぬ身を 」 で、その無念がうかがえる。

ここで、重要な事は、中宮徳川和子との間に男子の誕生はあったが、いずれも早世であったことだ。女一宮(長女)のみが生育していたので、幕府は譲位を許すと徳川の血統は一代限りになってしまう事にある。なんとしても二人の間に健康な男子が誕生することが切望された。

 

 しかし、後水尾天皇にはもっと差し迫った肉体的「事情」があった。それを次回に書く。


831  あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇  ②

2021-04-26 08:44:09 | 日記

② およつ御寮人事件 青年天皇の恋心を踏みにじられ幕府への敵愾心が。

幡枝御所 圓通寺 上は比叡山を借景とする庭園。

 後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為には二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して、戦乱で荒廃した京都の巨大寺院の修理・再建を促して、その膨大な財力を削ぐよう仕向けた。それでも心配で仕方ない。とうとう、方広寺の梵鐘の銘文にいちゃもんをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。

そして、もう一つの仕事は、公武合体である。徳川家から朝廷への「入内」という策を企てる。すなわち自らの孫娘を天皇の后にすることで、古来より藤原氏がとった手段で、天皇の外祖父の地位を獲得することである。具体的には、秀忠の第5女子である和子(まさこ)が、慶長12年に誕生していてこの姫を考えていた。後水尾天皇の12歳下ということになる、年齢的にはやや無理はある。因みに、幕末将軍家茂に嫁いだのは、「和宮」で、名は、親子(ちかこ)である。それぞれ立場は反対だが、融和を象徴する「和」の文字を名に持つお二人の姫は公武合体の運命に翻弄されたのである。

 しかし、入内直前に大変な事が発覚した。後水尾天皇の典侍(そば近くに侍る女性)である四辻御与津(よつつじおよつ)に子が出来ていることが発覚したのだ。すでに20代半ばになっていた天皇に子が出来たことに何の不思議もないのだが、出来た子が皇子であったこと、さらに和子の母が「お江与の方」であることだ。お江与の方とは、淀君の妹であり信長の妹お市の方の3姉妹の一人である。戦国の渦中に生きたお江与は、極度の「悋気」持ちであった。因みに、夫である秀忠の隠し子の保科正之は、会津藩初代藩主という優秀な大名になったのだが、お江与を恐れて生涯父子対面は叶わなかったほどだ。そのお江与が後水尾天皇に対して激怒したのである。

 結局、およつの兄四辻季継を含む公家衆6名に対して、流刑などの重刑が下された。さらに、およつ自身も程なく洛外に追放される。そのあたりは川口松太郎氏の名著「およつ御寮人」に詳しい。そしてその事は、後水尾天皇の逆鱗に触れた。因みに「逆鱗」は天皇にのみあるもので、庶民に逆鱗はない。しかしこの時代、天皇が武士と戦うとしても手段は限られている。唯一の手段は、「譲位」だった。後水尾の最初の戦いだ。

 ここで、戦国武将の生き残り藤堂高虎が登場する。身長190cmに及ぶ武闘派筆頭だが、生涯に9人主君を変えたという世渡りの上手い武将でもある。天皇に公武合体を強要し、公家衆を通じて、「此儀我等不調法に罷成候はば、切腹仕り候までにて候」と、あからさまに脅した。後水尾は事実上の初恋の女性とその子との別れを突き付けられたのである。およつとの年齢差は不明であるが、魅力的な女性であったのだろう。川口氏の小説では、事件以降も岩倉の山荘「幡枝御所」(現在の圓通寺)にお忍びでしばしば会っている。もう一人皇女(梅宮)も生まれている。この梅宮が後の文智女王で和宮(東福門院)とも深く交流する。因みに問題となった最初の皇子は早世している。生きていたら天皇の地位にもなるお子であったはずなので幕府による暗殺かとも言われる。

 青年天皇の恋心を踏みにじった幕府への敵愾心は、後々まで影響する。