アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

918 新シリーズ 令和に巡る京の神社  第31番 下御霊神社 怨霊たちも味方に

2022-04-21 18:49:04 | 日記

第31番 下御霊神社

京都府京都市上京区信富町

主祭神    崇道天皇 他戸親王 井上大皇后 藤原大夫人 橘大夫 文大夫 火雷神   吉備大臣 霊元天皇

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した時、御霊の祟りであるとして、京都御所の産土神として崇敬された経緯は上御霊神社と同じである。特に、崇道天皇(早良親王)を主祭神としていることも同じだ。下御霊神社は愛宕郡出雲郷の出雲路にある下出雲寺御霊堂に祀られていた。そして北には上出雲寺御霊堂と呼ばれていた上御霊神社があった。その後幾つかの場所を経て、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。さらに市内には出雲寺という寺が二つあり、一つは上京区に現存する。また、山科にある天台宗門跡寺院である毘沙門堂は正式には、護法山出雲寺というのが本来だ。4つの出雲寺がそれぞれ歴史を経て神社や寺として歴史を伝えているのだ。なお、当社の宮司は、出雲路敬栄氏である。

現在は、丸太町通りの寺町を下ってすぐにある。社殿は天明の大火で旧社殿が焼失したのち、仮皇居の内侍所の仮殿を移築したものである。関係者によると、内侍所とは賢所であり皇位の証である「神鏡」を一時奉斎されていた場所であり、仮とはいえ誠に恐れ多い建物であるとしている。また、江戸時代中期の霊元天皇は特に崇家の念が篤く、当社に崩御後その御魂を合祀されている。その為もあり境内には多くの摂社・末社があり、歴史と格式の高さがうかがえる。なお、江戸時代の国学者・儒学者の山崎闇斎先生の御魂を封じた垂加社を祀る猿田彦神社もある。ただ全体的に傷みがひどく、現在、修理の為の献金を募集している。

訪問時、5月の神幸祭の神輿の準備がされていて、祭事などは、上御霊神社と日程の多くが同じであった。なお、名残の八重桜の見事な姿を見る事が出来た。


917 新シリーズ 令和に巡る京の神社  第30番 上御霊神社 怨霊たちも味方に

2022-04-18 11:09:44 | 日記

 

第30番 上御霊神社

上御霊前通りから見る

京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495

主祭神    崇道天皇 他戸親王 井上大皇后 藤原大夫人 橘大夫 文大夫 火雷神  吉備大臣

鳥居には菊の紋章

怨霊思想は古代では主たる考え方であった。あらゆる禍が誰かの「怨み」を「晴らす」ことで発すると思われた。「怨み(恨み)をかう」ことは避けなければならないのだ。その霊力は怨みの深さ大きさに比例し、何より当該人物の社会的地位で決まる。従って、高貴な方が怨みを残して死ぬと大きな「怨霊」となる。それが天皇や天皇の皇子で皇位につく可能性のあった方ならば国を滅ぼしかねない霊力を持つ。

平安初期の最大の怨霊が、崇道天皇である。桓武天皇の弟君の早良親王のことで、奈良平城京から長岡京に遷都時の大事件で兄桓武への謀反を疑われる。皇位争いと絡めて冤罪でありながら流され憤死する。たちまち怨霊となり平安初期関係ある重要人物の多くを呪い殺す。よって天皇位につかないにも関わらず天皇号を与えられここに祀られた。後日、仁明天皇・清和天皇の御世に他の7柱とともに合祀され「八所御霊大明神」とも呼ばれる。その後の崇徳天皇とともに平安京2大怨霊として今日まで篤く篤く奉られている。

摂社にはあらゆる有力な神をまつる

拝殿では神輿の組み立て中

応仁の乱勃発の地

場所は相国寺のすぐ北、上京区の北限にあり、現在は境内の領域は広くないが、当時、「御霊の森」と言われここに陣を構えた東軍の畠山政長が戦を仕掛けたのが応仁の乱の始まりだ。境内にその石碑が建っている。また、芭蕉の「半日は神を友にや年忘れ」の句碑もあり江戸時代にも特別な場所との認識だったようだ。伺った4月下旬はちょうど5月1日の神幸祭の準備で、御神輿の組み立てが行われていた。昔は、5月18日の還幸祭迄、京都御苑の今出川御門から入った神輿が御所の朔平門(北辺の門)に奉安され天皇が親しくご覧になられたらしい。

注目すべきは、その神輿2基は後陽成天皇、後水尾天皇の御寄進で、祭りの際に使用する指鉾15本余りすべてが歴代天皇か豊臣家、あるいは東福門院(徳川家で後水尾天皇妃)からの寄進であることだ。皇室からの崇敬の念の深さが分かる。

芭蕉の句碑

現代になって、ご利益は家内安全から安産祈願・学業・事業繁栄まで幅広い。このように「怨霊」をむしろ幸運をもたらす「恵みの神」とする柔軟な考えが日本にはあり、今日では恐れをいだくどころか地域に親しまれる神社となっている。天神信仰の北野天満宮も縁日には毎度多くの人で賑わい、受験シーズンには合格祈願のメッカとなっている。こちら上御霊神社では毎月18日には「囀市(さえずりいち)」という縁日が立つ。食料品が中心だが日用品など雑貨なども並ぶ地元の恒例行事だそうだ。恐らくその時は、8柱の怨霊や呪いの神も微笑んで平和な日常を見守っていて下さると思う。

なお、鳥居前に店を構える「からいた」は、唐板と言い神前菓子である。残念ながらお休み中で味わえなかった。

水田玉雲堂 からいた

御霊神社祭日

歳旦祭    一月一日

節分祭    節分の日

紀元祭    二月十一日

祈年祭    春分の日

御霊祭社頭之儀    五月一日

御霊祭渡御之儀    五月十八日

御内儀春季祭       五月二十日

大祓式    六月三十日

例祭       八月十八日

七五三祝              十一月十五日

火焚祭    十一月十八日

新嘗祭    十一月二十三日

御内儀秋季祭       十一月二十八日

大祓式    十二月三十一日

月次祭    毎月一日

囀市 毎月十八日

 


916 新シリーズ 令和に巡る京の神社  第29番 梨木神社 参道にマンション

2022-04-07 12:56:39 | 日記

第29番 梨木神社

 

京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680

主祭神    三條實萬 三條實美

 

神社や寺院の中には財政が苦しく、トンデモな判断をする場合がある。

京都御苑の東隣にある梨木神社は、三条實萬(さねつむ)公と子の實美(さねとみ)公の2柱を祀る。五摂家に次ぐ公卿最高の家柄である三条家の幕末における2人の親子は、宮中の故実礼典に精通し学問を究めていた。特に、父の實萬公は光格・仁孝・孝明と明治直前の3人の天皇に仕え主に武家伝奏役を務め朝幕関係のかなめになっていた。朝廷の威信回復に大きく寄与し没後「忠成公」とおくり名され、さらに明治18年にこの地に神として祀られた。境内地は、平安の昔、藤原良房公邸宅「染殿第」のあった地で、實萬公の生誕の地でもあった。大正時代になって子の實美公も合祀された。實美公も長州への「七卿落ち」を経験するなど維新の重要人物であり新政府でも一時内閣総理大臣を兼任するなど貢献し葬式は「国葬」とされた人物である。従って、皇室への畏敬の念を持つ信者に支えられ、境内には、3代目の京都知事北垣国道の撰文により建てられ有栖川熾仁親王が筆を入れた顕彰碑が建っている。

鳥居の向こうにマンション

さて、京都御苑の東の入り口「清和院御門」の前にあるこの神社の鳥居の前に立つ。本殿の方を向いて深く頭を垂れて遥拝する。そして目を前に向けるとそこには高級マンションが鎮座しているではないか。本殿は見えない。あたかもマンションの住人に向かって拝んでいるようなものだ。これこそがトンデモな判断と言いたい。実は社殿の修復等の資金集めに苦慮していた時に、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の定期借地権で貸し、その賃貸料を社殿の修復費用に充てることとしたのだ。京都の神社やお寺の財政状態は実は苦しく、文化財の保存には苦慮していて敷地内に学校や幼稚園など経営している光景はよく目にする。境内一杯駐車場にしていることも多い。しかし、参道のど真ん中にマンションを建てたのは聞いたことはない。実はその為当社は神社本庁から離脱して独立し、別表神社の列から当社は外されている。

染井

歌碑

因みに境内の染井(井戸)の水は、京の3名水(縣井・佐女牛井)の一つで今でもこんこんと湧き出ていて飲料に適した清水である。その時も2~3人並んでいてペットボトルに汲んで持ち帰って行った。なお、京都(御所)三名水と混同されることがある。こちらは醒ヶ井・県井・染殿井の三つ。あと、ノーベル賞受賞者湯川秀樹の歌碑など、意外に見どころの多い神社だった。

帰り道は、御苑内をそぞろ歩きしながらとした。