アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

523 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第53代 後花園天皇

2019-01-31 09:10:09 | 日記

  53 平安京 53代 通算 102 代 後花園天皇

 「後花園天皇」の画像検索結果

在位 1428年~1464年

業績(事件) 中興の英主

父   伏見宮貞成親王 

別称  

死因  病死

御陵 後山國陵

宝算 52歳

 

南北朝時代は、100代後小松天皇の時に、北朝(持明院統)に統合することで解決されたが、その後、101代称光天皇から102代後花園天皇までは、旧南朝方(大覚寺統)が、まだその皇位奪還を目論んでいた時代だ。しかしその後、南朝方の動きが歴史上なくなる。後深草天皇から始まる持明院統の正嫡に戻ったこの天皇は、「中興の英主」と称えられている。

先代称光天皇からは、八親等離れた親王の登場だったが、この血統が現在の今上陛下につながる。中興の英主に称えられるその理由は、南北朝の騒乱の中で混乱を極めた三種の神器が、嘉吉3年に禁闕の変で南朝方に奪われる。しかし2年後南朝方から奪い返し、ここに完全に三種の神器が揃いその後現在の今上陛下まで伝えられている。

さらに、この時期から世情怪しく、土一揆や〇〇の変、〇〇の乱などが頻発する。それに対して治罰綸旨をしばしば発する。幕府に鎮圧するように命じる天皇の命令書のようなもので、結果天皇の権威高揚につながった。そして、晩年自らの不徳(帝王不徳の責)を理由に出家をした。世間は、幕府(足利義政)の無責任さを批判する一方、この天皇を称えたという。しかしその後も、奢侈に明け暮れる足利義政に対して漢詩をもって諷刺したエピソードが残る。文化的な功績も多く残し薨去後、京都京北の常照皇寺(山國陵)に葬られる。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外 コラム

2019-01-31 08:58:40 | 日記

ここで、箸休め。加後号。

〇〇天皇と後〇〇天皇というのを並べて見た。実に26例ある。52名の天皇だから、平安以降75名中52名の天皇が加後号に関わる。

 

50 桓武天皇かんむ104 後柏原天皇ごかしわばら

51 平城天皇へいぜい105 後奈良天皇ごなら
52
嵯峨天皇さが88 後嵯峨天皇ごさが
53
淳和天皇じゅんな111 後西天皇ごさい
54
仁明天皇にんみょう89 後深草天皇ごふかくさ
55
文德天皇もんとく
56
清和天皇せいわ108 後水尾天皇ごみずのお

57 陽成天皇ようぜい107 後陽成天皇ごようぜい
58
光孝天皇こうこう北朝6(100) 後小松天皇ごこまつ
59
宇多天皇うだ
60
醍醐天皇だいご96 後醍醐天皇ごだいご

61 朱雀天皇すざく69 後朱雀天皇ごすざく
62
村上天皇むらかみ97 後村上天皇ごむらかみ
63
冷泉天皇れいぜい70 後冷泉天皇ごれいぜい
64
圓融天皇えんゆう北朝5 後圓融天皇ごえんゆう
65
花山天皇かざん
66
一條天皇いちじょう68 後一條天皇ごいちじょう
67
三條天皇さんじょう71 後三條天皇ごさんじょう
72
白河天皇しらかわ77 後白河天皇ごしらかわ
73
堀河天皇ほりかわ86 後堀河天皇ごほりかわ
74
鳥羽天皇とば82 後鳥羽天皇ごとば
75
崇德天皇すとく
76
近衞天皇このえ
78
二條天皇にじょう94 後二條天皇ごにじょう
79
六條天皇ろくじょう
80
高倉天皇たかくら
81
安德天皇あんとく
83
土御門天皇つちみかど103 後土御門天皇ごつちみかど
84
順德天皇じゅんとく
85
仲恭天皇ちゅうきょう
87
四條天皇しじょう
90
龜山天皇かめやま99 後龜山天皇ごかめやま
91
後宇多天皇ごうだ
92
伏見天皇ふしみ93 後伏見天皇ごふしみ
95
花園天皇はなぞの102 後花園天皇ごはなぞの
98
長慶天皇ちょうけい
北朝1 光嚴天皇こうごん
北朝2 光明天皇こうみょう110 後光明天皇ごこうみょう
北朝3 崇光天皇すこう
北朝4 後光嚴天皇ごこうごん
101
稱光天皇しょうこう
106
正親町天皇おおぎまち
109
明正天皇めいしょう
112
靈元天皇れいげん
113
東山天皇ひがしやま
114
中御門天皇なかみかど
115
櫻町天皇さくらまち117 後櫻町天皇ごさくらまち
116
桃園天皇ももぞの118 後桃園天皇ごももぞの
119
光格天皇こうかく
120
仁孝天皇にんこう
121
孝明天皇こうめい
122
明治天皇めいじ
123
大正天皇たいしょう
124
昭和天皇しょうわ
125
今上天皇

  

 このような追号を付ける場合、大きく三つのケースがありそうだ。

親子・祖父の場合尊敬を込めてつけると皇統の正当性をアピールできる。桜町・後桜町、桃園・後桃園が直近で分かりやすいケースだ。次に多いのが、業績への憧れである。後醍醐天皇は、延喜・天暦の治(藤原氏の摂政を置かない天皇親政)の醍醐・村上天皇に憧れて生前から追号を決めていた。後白河天皇も長期にわたる院政を敷いた白河天皇に憧れたと思う。そして、離宮やゆかりの場所が同じケースで、後水尾天皇(水尾は清和の別称)は、右京の地、水尾を好んでいた。

すべてにわたり解説する知見は筆者にはないが、平城・後奈良や陽成・後陽成など理解不能のものもある。また、桓武・後柏原や、仁明・後深草、淳和・後西など異称(別名)が分からないと加後号と分からないものもある。

それにしても加後号の多い事。このようにして皇統の継続についての強い思いと、先人の苦労がうかがえる。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外 年を重ねると「気にいらない事」が多い ③

2019-01-31 08:12:40 | 日記

③ 心斎橋筋が歩けない。

「心斎橋筋」の画像検索結果

御存じ大阪のメインストリート心斎橋筋が、外国人観光客の為に歩けない事になっている。東京の読者の為に言い添えると、有名な御堂筋は東京で言うところの銀座だ。アーケードはない。もっぱらブラブラするのは屋根のある心斎橋筋である。巨大商店街である心斎橋筋は、北は本町から南は難波の高島屋まで3~4キロの大阪のおしゃれな買い物スポットである。因みに、大阪では南北の通りは、〇〇筋。御堂筋の他に浪速筋、堺筋、谷町筋などある。東西の道は〇〇通りである。本町通、北浜通、長堀通などがある。

さて、心斎橋筋。日本の風習は、人は左側通行だろう。車が左、人は右と教えるのは車優先の車道の話だ。神社の祭りや商店街では左側通行は、当たり前だ。しかし現在の御堂筋は無秩序極まりない。逆走だけでなく、突然立ち止まり話し込む、そして巨大ドラッグストアの前では、しゃがみ込み大きなスーツケースを全開して荷物を詰め込んでいる。最近は減ったが自撮り棒で撮影する輩も多い。加えて通行禁止の自転車走行の連中がいる。これは日本人にも多いので困ったものだ。

とにかく歩けない。まっすぐ歩けない。一定の速度で歩けない。ストレス無しでは歩けない。

そこに発見した。昨日夕方、まっすぐ速度落とさずに堂々と歩くおじさんを発見した。雑踏の中をまっすぐ歩くため、その後ろは一瞬人間の空白地帯となる。筆者はその真空地帯をついて歩いて見た。実に心地よい。

しかし当然、人とぶつかりまくる。当たりそうになると慌てて避ける人もいるが、あまりにも堂々としているので当たっても文句言う人はいない。若い女性などは突き飛ばされるか、さもなくば肩を骨折する。左側面を定規で描いたようにまっすぐ歩くので、当たるのは向こうが悪い、そのような主張が全身にみなぎっている。ただし、自らぶつけているような印象はない。あくまでも自然にまっすぐ歩き、決して避けないだけである。

自分でもやって見たが、強面のお兄さんにぶつかり、「なんじゃ!こらっ(怒)」とすごまれて直ちにやめた。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

522 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第52代 称光天皇

2019-01-30 12:14:13 | 日記

 

 52 平安京 52代 通算 101 代 称光天皇

 「称光天皇」の画像検索結果

在位 1412年~1428年

業績(事件) 病弱

父   後小松天皇 

別称  

死因  病死

御陵 深草北陵

宝算 28歳

自らの血統を残せなった天皇は、病弱で奇行多い天皇とされることが多い。兄弟姉妹に皇位を譲る事が出来ればまだ良いが、いとこやそれ以上さかのぼっての皇統に引き継ぐ場合は、新血統の正当性を主張したい余り、前天皇を貶める事が多い。神代では、武烈天皇がその例だが、平安以降でも冷泉や陽成などいくつかその疑いがある。歴史は、今目の前にいる権力者の為に書かれるものである。

今回の、称光天皇は後光厳天皇の直系だが、その父光厳帝まで遡り8親等離れた伏見宮に引き継がざるを得なかった。

 後小松天皇の第一皇子であったが、生来の病弱ですぐに第二皇子の小川宮を後継者に決めていた。その為、父後小松上皇とはずっと不仲だったようだ。その間、朝廷内部を調停したのは室町第4代将軍義持である。まだ幕府や将軍がしっかり権力と信頼を得ていた時代であった。残念ながら称光天皇に業績的な記録はなく、以下の話が伝わるのみだ。

太刀や弓を好んでいた為、金のムチで女官や近習をしばしば打ち据えた。17歳の時、愛した内侍が妊娠した時、自分の子ではないと言い張った。いずれも大罪ではないが天皇の奇行としては残念な話だ。

いずれにしても、後継者をつくることを唯一の目的に生殖活動を強いられる天皇が、さほど性欲の強くない場合どれほどのストレスか。性欲はありながら配偶者以外の女性に恵まれない我々現代の男性には理解できない。

なお、追号は、48代称徳天皇 49代仁光天皇から一文字ずつ取っている。50代は絶倫の桓武天皇なので皮肉な追号と言わざるを得ない。

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

521 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第51代 後小松天皇

2019-01-30 09:57:12 | 日記

  51 平安京 51代 通算 100 代 後小松天皇

 「後小松天皇」の画像検索結果

在位 1382年北朝~1392年(南北統一)~1412年

業績(事件) 南北朝統一へ

父   後円融天皇 

別称  

死因  病死

御陵 深草北陵

宝算 56歳

以前から小松天皇はいないのになぜ、後小松?って思っていたが、小松とは、光孝天皇の異称であると分かった。光孝天皇はその子の宇多天皇そして醍醐天皇と続き、その追号は、自らの血統を長く続けたことでその尊敬と憧れの気持ちが込められていると推察する。

即位は異例な事で、義満の室町御所(幕府)で行われた。すべての事が三代将軍義満の掌(たなごころ)のままであった。この天皇から「即位灌頂」という儀式が慣例となっている。「灌頂」というからには真言密教の儀式だ。決められた印を結びその後登極する(高御座に上がる)儀式で、神式の天皇家には異例だが、三種の神器が揃わないという異例なこの時期にそれに代わる天皇の権威付けをするためのものと言われる。

当時6歳の後小松は、院政の父後円融上皇の意のままで、その後円融上皇は義満の意のままであった。残念ながら南北朝統一も天皇の業績ではなく、義満の最後の政治課題であったのだ。南朝に示した統一の条件は、①三種の神器を譲る事(国譲り)②大覚寺統、持明院統の交互即位、であった。①で明らかなのは南朝を正統としたことで、その事は大きい意味を持つ。南朝の後亀山天皇はそれを認めて天龍寺に入った。しかし、年号は、南朝の「元中」を廃止し、北朝の「明徳」が継続したので事実上の南朝滅亡である。しかも再び大覚寺統の天皇が即位する事は今日に至るまでない。要は、騙されたのである。

時代は室町幕府の絶頂期と重なる。有名な、「明」の使者が日本国王としたのは足利義満だった。この事から義満が皇位簒奪を企てたと後世の歴史家は見ている。いずれにしても弓削道鏡以来の皇統の危機であった時代だ。

因みに、大徳寺住職一休宗純は、後小松天皇の御落胤とされている。その所縁のお寺「酬恩庵」には、菊の御紋章のついた御廟がある。私は、晩年の、一休さんの性欲の強さから天皇家の血筋と確信している。一休さんは70歳を超えてから「森女」という盲目の若い女性を愛した。一休さんはその営みについて詳しく文章で残している。狂雲集という日記のようなもので「狂雲」とは一休さんの号だが、まさに狂ったように振舞っている。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする