⑮ 平安京 15代 通算64代 円融天皇
在位 969年~984年
業績(事件) 藤原氏全盛の時代へ
父 村上天皇
別称 朱雀院上皇
死因 病死
御陵 後村上陵
宝算 32歳
村上天皇の皇子で、冷泉天皇の同母弟である。禅譲とは言え兄弟やいとこへの皇位継承は普通穏やかではない。円融天皇も御多分にもれず藤原摂関家に翻弄された人生であった。3名の皇后・中宮を見れば歴然だ。まず、藤原こう(女偏に皇)子は、藤原兼通の娘、次が詮子で兼家の娘、兼家と兼通は兄弟でありライバルであった。そして3人目は、藤原頼忠の娘で遵子、同じ藤原家だが政敵の関係である。義理の父がすべて政治上の敵であることで、円融天皇の立ち位置が分かる。詳しくは書かないが、頼忠→兼通→兼家の順番に権勢が移動する。最初のこう子に皇子が誕生していれば若しかしたら兼通の血脈で次期天皇が生まれたかもしれなかった。円融天皇はどの后にも平等に接し勤めたが、皇子は詮子にのみ産まれている。後の一条天皇である。結果、次代の花山天皇を挟んで一条天皇になり、兼家の息子3兄弟の時代へと続く。
この時期、政治手腕や勉学努力より高貴な血筋が重視された。国家を安定的に運営するためには高貴な者だけの狭い世界で結婚を繰り返した。いとこ同士の結婚は当たり前に行われているし稀ではあるが異母兄妹の結婚もあった。とにかく自分の子に高貴な相手と子を成すかどうかが最大のポイントとなるのである。わら天神の通称で有名な敷地神社や染殿皇后創設の染殿地蔵など、受胎祈願のお寺や安産を願う神社は、ほとんどこの時期の創設である。
円融天皇は花山天皇への譲位後、比較的自由な上皇の身で、詩歌管弦の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都諸寺への御幸も行った。また、一条天皇実現後は、幼帝を指導して院政の意図があったともいわれるが、すでに時代は藤原全盛期を迎えつつあった。晩年過ごした円融寺で崩御し、諡号はその寺名に因む。