アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

475 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第15代 円融天皇

2018-12-28 18:00:28 | 日記

⑮ 平安京 15代 通算64代 円融天皇

「円融天皇」の画像検索結果

在位 969年~984

業績(事件) 藤原氏全盛の時代へ

父 村上天皇 

別称 朱雀院上皇

死因 病死

御陵 後村上陵

宝算 32歳

 

村上天皇の皇子で、冷泉天皇の同母弟である。禅譲とは言え兄弟やいとこへの皇位継承は普通穏やかではない。円融天皇も御多分にもれず藤原摂関家に翻弄された人生であった。3名の皇后・中宮を見れば歴然だ。まず、藤原こう(女偏に皇)子は、藤原兼通の娘、次が詮子で兼家の娘、兼家と兼通は兄弟でありライバルであった。そして3人目は、藤原頼忠の娘で遵子、同じ藤原家だが政敵の関係である。義理の父がすべて政治上の敵であることで、円融天皇の立ち位置が分かる。詳しくは書かないが、頼忠→兼通→兼家の順番に権勢が移動する。最初のこう子に皇子が誕生していれば若しかしたら兼通の血脈で次期天皇が生まれたかもしれなかった。円融天皇はどの后にも平等に接し勤めたが、皇子は詮子にのみ産まれている。後の一条天皇である。結果、次代の花山天皇を挟んで一条天皇になり、兼家の息子3兄弟の時代へと続く。
この時期、政治手腕や勉学努力より高貴な血筋が重視された。国家を安定的に運営するためには高貴な者だけの狭い世界で結婚を繰り返した。いとこ同士の結婚は当たり前に行われているし稀ではあるが異母兄妹の結婚もあった。とにかく自分の子に高貴な相手と子を成すかどうかが最大のポイントとなるのである。わら天神の通称で有名な敷地神社や染殿皇后創設の染殿地蔵など、受胎祈願のお寺や安産を願う神社は、ほとんどこの時期の創設である。

円融天皇は花山天皇への譲位後、比較的自由な上皇の身で、詩歌管弦の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都諸寺への御幸も行った。また、一条天皇実現後は、幼帝を指導して院政の意図があったともいわれるが、すでに時代は藤原全盛期を迎えつつあった。晩年過ごした円融寺で崩御し、諡号はその寺名に因む。


474 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第14代 冷泉天皇

2018-12-28 11:59:51 | 日記

⑭ 平安京 14代 通算63代 冷泉天皇 狂気の天皇を装ったか?

「冷泉天皇」の画像検索結果

在位 967年~969

業績(事件) 狂気の天皇

父 村上天皇 

別称 冷泉院

死因 病死?

御陵 桜本陵

宝算 61歳


 

冷泉天皇の即位には、二つの異例を書かねばならない。

まず、先代村上天皇の第1皇子広平親王を差し置いて弟の後の冷泉天皇が皇太子となった事だ。平広親王の母は藤原元方の娘で、藤原南家の出身であった。世はすでに北家の時代であり、立太子は生後すぐ行われた。孫の天皇即位で外祖父となる事だけを楽しみにしていた藤原元方は憤死に近い死に方をする。因みに、元方は身内のあいつでの不幸や、何より冷泉天皇の精神の異常などを考えると、「怨霊」になったとされている。その霊力は子の花山天皇にまで及んでいる。

異例な事の次に、冷泉天皇が精神異常と見なされた為すぐに皇太子選定の必要があった事だ。冷泉に子はまだなく、弟の為平親王と、守平親王の二人の中で決める事になり、当たり前なら兄の為平親王だが、弟の守平親王が立太子し円融天皇となる。これは、為平親王の母が源高明の娘で、こちらも藤原北家の政敵である為だ。翌年、密告により高明は左遷される。「安和の変」という。この頃になると藤原家の陰謀は陰湿で見え透いている。すでに世の中は冤罪でも抵抗できないほど藤原北家摂関家の時代になっていたのだろう。

ところで、「狂乱の君」と言われた冷泉天皇だが、世の中には狂乱を装う事で身の保全をする者もいる。しかし冷泉天皇については、後の花山天皇のように退位後の宗教的・文化的業績をも残すこともなく亡くなっている。残念ながら「元方の怨霊」の仕業と考えざるを得ない。その奇行とは、『足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた。幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた。清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ。病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた。退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難するときに牛車の中で大声で歌を歌った。』

などが伝わる。いずれも悪戯程度である。精神異常とまでは言えないと筆者は考える。陽成天皇と同様長寿であった事も気になる。

因みに、諡号は崩御した場所が、冷泉院であった事からつけられた。冷泉院天皇と呼ばないのは、院号の場合、冷泉院院となるからである。従って、冷泉天皇という。後西天皇が本当は、後西院天皇であることと同じ理由である。


473 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第13代 村上天皇

2018-12-27 20:45:36 | 日記

⑬ 平安京 第13代 通算62代 村上天皇 

「村上天皇」の画像検索結果

在位 946年~967

業績(事件) 天皇親政の時代

父 醍醐天皇 

別称 天暦天皇

死因 病死?

御陵 村上陵

宝算 42歳

 

先々代醍醐天皇同様、摂政を置かなかった事から「延喜・天暦の治」と称され絶賛される。「神皇正統記」(訳本新書版)を見てみると、異例なことに数ページにわたり書いている。まさに絶賛している。中国王朝にも賢王が23代と続くのはまれな事で、誇りに思うという事や村上源氏の祖として後世に及ぼした功績についても称賛している。しかし、村上天皇は成人の後即位しているので、あえて摂政を置く理由がなかった為であり実質の政治は藤原実頼・師輔の兄弟が左大臣・右大臣を務め取り仕切っていた。天皇は、華麗な王朝文化を指揮し女官との艶聞が絶えない方であり、記録に残るだけで22名の皇子・皇女を残している。経済的な理由から臣籍降下させて源氏    姓を与えるしかなかったのだ。また、前天皇の時代ではあるが平将門の乱や藤原純友の乱(承平・天慶の乱)、加えて宮廷人の贅沢が原因で財政はひっ迫していた。その為、物価高騰により朝廷への歳入が滞っていた。「古今著聞集」には、率分堂(大蔵に収納すべき官物の倉庫)に草が生えていたと書いている。いかに困窮していたかが分かる。

以上のことを考えると、高級宮人にすれば良い時代だったかも知れないが、「天暦の治」として後世評されるような御代ではなかったと筆者は推察する。

「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」(勅命とあらばたいへんおそれ多いことなのでお断りはできませんが、もしこの紅梅に毎年巣を作るウグイスが帰ってきて我が家はどうなってしまったかと尋ねられたら、さて私はどのように答えたらよいのでしょう)

この歌は、村上天皇が御所の梅の木が枯れた時、無理やり京のはずれのある家の梅の木を御所に移植させた。その見事な梅の木の枝に短冊がかかっていて、そこに書かれていた歌である。「鶯宿梅」として「大鏡」に書かれた有名な逸話だ。作者は紀貫之の娘と伝わるが、庶民の朝廷への複雑な感情を現わしている。聖王ならばこんな皮肉の歌が後世に伝わるはずがないのではないか。


472 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第12代 朱雀天皇

2018-12-27 08:25:12 | 日記

⑫ 平安京 第12代 通算61代 朱雀天皇 

「朱雀天皇」の画像検索結果

在位 930年~946

業績(事件) 承平天慶の乱

父 醍醐天皇 

別称 特になし

死因 病死?

御陵 醍醐陵

宝算 30歳

 

後世天皇親政の時代を、醍醐・村上時代と言うが、間に朱雀天皇がいらっしゃる。残念ながら存在感は薄い。まず、菅原道真の怨霊を一番心配する時期に育ったために、幾重もの几帳の中で全く外に出ずに育てられた。まさに「温室育ち」であった。事実病弱で、女御もそばに寄せず当然皇女も皇子も誕生の期待は薄かった。

醍醐・村上時代には置かなかった摂政を置き政治を任せた。藤原家は忠平の時代で結果として朝廷との蜜月関係を構築した。さらに、在位中承平・天慶の乱と重なりその鎮圧に忙殺される。平将門が東国で、藤原純友が西国でそれぞれ反逆の旗を挙げた大乱だ。世が乱れるのは「天子の徳の無さ」と考えられる時代である。朱雀天皇自身が早世していることもあり、政治的にも文化的にも功績は残っていない。まさしく道真の怨念と言わざるを得ない。

因みに、母の藤原穏氏は、自身の子である皇太子であった保明親王が早世してしまい、その子もすぐに亡くなってしまった。しかしその後、当時としては驚異的な事に38歳で朱雀天皇を生み、41歳で村上天皇を生んだ。結果2代に亘り国母を勤め70歳まで生きた。母の生命力が皇統の維持に貢献したのだった。


471 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第11代 醍醐天皇

2018-12-26 09:45:18 | 日記

⑪   平安京 第11代 通算60代 醍醐天皇 

「醍醐天皇」の画像検索結果

在位 897年~930

業績(事件) 延喜の治

父 宇多天皇 

別称 小野天皇

死因 病死

御陵 後山科陵

宝算 46歳

 

この時代の登場人物を書きだすと、醍醐天皇の治世の大事件「昌泰の変」で廃された菅原道真は有名だが、その父菅原是善も5代の天皇に伝えた文章博士だった。(今回の京都検定に出題されたが、筆者は思い出せなかった。)また、天皇の后妃穏子は五条后と呼ばれその後も長く後継者選定に関わり朝廷の安定に努める。子の源高明は安和の変で廃される事となる。また、藤原基経は「阿衡の紛議」で有名。母の胤子は藤原勧修寺流の祖となる方だ。さらに父の宇多天皇は夏に雪景色が見たいと絹織物で山をおおいそれが「衣笠山」の由来となった。小野東風・紀貫之もこの時代の文化人だ。

世は、遣唐使廃止をきっかけに、国風文化の全盛を迎える時で三筆・三蹟の時代であり歌や歴史書も多く残る良い時代だった。醍醐天皇の父は、一旦臣籍降下した後に天皇になった方であったが、「寛平御遺誡」をもって詳しく厳しく王者の作法を子の醍醐天皇に示した。しかし「昌泰の変」で道真を左遷した。父宇多上皇の影響力を廃する暴挙に出たのだ。延喜の治として徳深い天皇という評価だが、その為に近年では学者による評価は微妙になっている。

結果として、第一皇子とその子を早くに亡くすなど、道真の怨霊に悩まされる。晩年はその対応に終始し政治どころではなかったと言う。一方、醍醐天皇の逸話として「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」というものであるが、民の身を偲ばれ、旱魃の時には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉苑の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。このように天皇自身がリーダーシップを取って政治・文化の振興に努めたとして天皇の治世を絶賛されるが、一方菅原道真追放については「聖代の瑕」とするなど評価がまちまちなのだ。

この後京都の町を長く支配する怨霊の「道真天神信仰」を考えると、道真への遠慮もあり絶賛するのみという訳にはいかなかったのだろう。今でも京都では毎月21日を弘法の日、25日を天神の日として大きな市が出る。