アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

960回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑯

2023-01-31 08:42:00 | 日記

その3 桓武天皇の即位 

・しかし、またまた大事件が起こる。新都工事責任者の側近中の側近である藤原種継が暗殺された。

刀剣ワールド】長岡京への遷都三都の位置関係

当然反対派の仕業と疑われた。しかも桓武天皇の弟で次期天皇の早良親王の関与が疑われた。捕らえられた早良親王は、無実を訴え長岡の乙訓寺で食を絶ち憤死する。結果、本邦最大級の怨霊となる。その怨霊を恐れて新都建設を断念せざるを得なくなる。怨霊が政治を動かしていた時代だ。冤罪で死んだ高貴な方の地位が高ければ高いほど強い怨霊となるのだ。後日、崇道天皇と追号するがそれでもおさまらず長く祟りをなした。遂に長岡を捨てて山城の地に都建設を託す。現在の平安京である。そこは四神相応の地であった。

桓武天皇?平安の覇王 :20220902120658-00328:シャインウェルス ...

しかし、筆者が思うのは桓武天皇の功績は、何と言っても子沢山だと思っている。多くの皇子・皇女を作り、姓を与えて臣籍降下させた。ご存知「桓武平氏」の始まりだ。次の功績は、蝦夷の平定だ。坂上田村麻呂の活躍で東北の鎮圧は一時的にせよ実現した。これも大きい、戦費が半端じゃなかったので都の経営に専念できた。三番目は渡来人の登用だ。これもその後の日本に大きく影響する。百済系の母を持つ桓武天皇は、技術力に優れた渡来人を多く使った。都を移したのはむしろ渡来人の多いこの地を選んだと言う説もある。当時の宮廷人の二割以上は渡来人だったようだ。韓国人・朝鮮人と差別するのは如何にナンセンスか、ヤマト朝廷は彼らの祖先の貢献なしには語れないのである。仏教や織物、鋳造術など何でもかんでも取り入れる日本人の柔軟性は古代からあったのだ。ただ、桓武死後、まだまだ新都平安京は安定せず、次期天皇(平城天皇)が大乱を仕掛ける。


959回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑮

2023-01-30 15:25:33 | 日記

その3 桓武天皇の即位

桓武天皇の政治改革と二大事業【東北平定と遷都】 | 楽しく ...桓武天皇

この章の主役桓武天皇は、このようなドロドロした激動の奈良王朝の中で誕生する。父の光仁天皇(白壁王)は皇位継承から全く無縁の人であった。親王(天皇直系)でもない王(皇族の子)の身分からの即位は当時珍しく、その子山部王(後の桓武天皇)の母は、高野新笠という渡来人でありせいぜい官僚としての出世を望む程度であった。父の即位以前、天皇は、天武天皇系で繋いでいたが、すでに書いたように称徳天皇の弓削道鏡御宣託事件があり、(それを救った和気清麻呂、筆者は清麻呂は万世一系の皇族と日本国にとっての大恩人だと思っている。)大混乱にあった為、天武系ではなく天智天皇系に次期天皇を探す事となった。その為、政治的意欲の無い60歳の光仁天皇に大命が下った。そして、皇后は井上内親王で、伊勢斎宮より復帰して皇后となった人だ。この人間模様が複雑な事件を招いた。 既述の通り井上内親王呪詛事件である。

光仁天皇~天武系から天智系へ | 日本の歴史 解説音声つき

ここでもう一度登場人物を整理する。①主役、井上(いがみ)内親王、②夫光仁天皇、③天皇の子(母は井上内親王)他戸親王、④天皇の子(母は違う)山部王(桓武天皇)、⑤官僚藤原百川(式家)、以上が主な人物である。まず、井上皇后は、聖武天皇の長女で5歳の時処女を強要される斎宮に任じられその後30歳で帰京した。なんと38歳で内親王を生み45歳で皇太子の他戸親王を生んだ。当時では相当の高齢出産だが、困った事に長く男性関係を禁じられていた為、帰京後は性に目覚め盛んに男を求めたらしい。光仁天皇とも関係が良好であったが、天皇はすでに60歳を超えての即位であった為十分にお相手が出来なかったのか多くの男性を物色する中、何と腹違いの息子の山部王と男女の関係を持ったともいう。父の光仁天皇が戯れに紹介したところ本当に閨に連れ込んだらしい。(諸説あります。)そんな中、皇后が天皇を呪詛したという訴えがもたらされる。藤原百川が調べたところ事実と認定され、皇后と皇太子の他戸親王が庶民に落とされ、後日同じ日に亡くなった。同時に亡くなったので自然死ではない、扱いに困った光仁天皇の苦肉の策だった。自殺か処刑か不明だが、結局二人は、平安初期「最高の怨霊」になって行くのである。

Emperor Kōnin - Wikipedia

結果、朝廷は新たに山部親王(桓武天皇)の立太子と藤原百川始め「藤原式家」の牛耳るところとなった。無論二人の陰謀であろう。(二人が怨霊になったのが何よりの証拠だ。井上皇后は山部王とは肉体関係など何もなかったのではないか。)因みに、井上皇后の娘酒人内親王を桓武天皇は后として迎えている。この親子はいずれも淫乱の癖があったようで、日本後記に以下のように記載されている。「容貌殊麗。柔質窈窕。(中略)(桓武天皇の)寵幸方盛。(中略)性倨傲にして、情操修まらず。天皇禁ぜずして、その欲する所に任す。婬行(あるいは媱行)いよいよ増して、自制する事能はず」と記されている。淫行が自ら制御できないとは・・・・。しかし、古代の淫行は大らかだったのだ。子孫を残していく本源的能力である「性」へのこだわりと旺盛な欲求を抑えきれないのだ。

このように、奈良時代末期の複雑な状況が背景にあった。簡単に言うと、天武天皇系と天智天皇系の確執と、奈良仏教界の台頭が微妙な影響を及ぼしていたのだ。正当な皇統である天智系として即位した桓武天皇は、一切のしがらみから逃れたく思い遷都を思い立つ。平城の都は、これより「南都」と呼ばれる。


958回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑭

2023-01-28 11:45:22 | 日記

その2 光仁天皇の即位 「新しい皇統の確立」

秋篠寺

 その光仁天皇即位にも、やはりひと騒動あった。天武天皇系の智努王(民間に臣籍降下し文屋浄三)を推す吉備真備一派と、白壁王(光仁天皇)を推す藤原氏一派との対立が始まる。白壁王は、天智天皇の孫だが后が天武系の聖武天皇の皇女(井上内親王)だったので中立の立場と思われた。しかもすでに62歳と高齢で酒好きの政治的野心の無い人物とみなされたようだ。決着は、藤原氏の陰謀体質そのものの、称徳天皇の「遺宣」(天皇の遺言)を偽作するという奇策?であった。加えて反対派への武力での威圧もあり、なんとか白壁王の即位で光仁天皇の誕生となった。

当時の藤原氏は北家の永手、式家の良継らが主流で、一族挙げての策略であった。当然、道鏡の放逐と和気清麻呂の復権も成功した。しかし、后の井上(いがみ・いのうえ)内親王がたちまち元凶となる。井上内親王は天武・聖武の正統である自らの子(他戸親王)を皇太子にしていた。しかし、あろうことか夫の光仁天皇を呪詛したという疑いで皇后を廃された。すぐに他戸(おさべ)親王も廃太子され記録には二人同時に死んだことになっているので、殺害されたということだろう。なぜ、夫を呪詛する必要があったのか。実は、光仁天皇にはもう一人長男の山部親王(のちの桓武天皇)がいて藤原氏はそちらを推していた。普通ならば他戸親王に決まるところを井上内親王とその一派の焦りが原因かと思われるが、死んで怨霊になる条件として冤罪など怨みを残して死ぬことが定説なのでその後、井上親子が怨霊となっていることから、むしろ藤原氏が先手を打った陰謀とする方が妥当だろう。藤原氏の陰謀と権力志向の象徴的事件である。しかし、山部親王が桓武天皇になる(立太子する)のもそう簡単ではなかった。光仁天皇自身、山部以外に意中の親王がいた。それでも山部親王に落ち着くのは、すでに藤原氏の政治力と陰謀力が抜きんでていたことが分かる。

悲劇の聖女・井上内親王の伝説。謀略と裏切り、理不尽な死から ...井上内親王の陰謀

当時の藤原氏は、式家の良継・百川兄弟の全盛期で、北家は魚名が当主で、北家の台頭はこれからだ。依然として官僚や皇室の権力闘争の中での皇位継承が続き、奈良時代末期は誠に不安定な中にあった。


957回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑬

2023-01-27 15:29:03 | 日記

本編の1⃣ 49代光仁天皇~50代桓武天皇 ドロドロの奈良王朝からの独立

 

その1 時代背景 「貴種を守る為の闘いの果てに」

欽明朝と蘇我氏の登場 | 古代の歴史

 継体天皇以降、皇室は皇族内で貴種(血統)を守る為に必死に戦った。ただ、皇室内の男系男子で繋ぐという合意が出来つつあったが、まだ豪族の力が大きく、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力豪族との折り合いを付けながらであった。一方、皇室内では同族婚姻を繰り返し血の濃い身内で皇位を守って来た為、男系男子の原則を守ることは出来たが、権力の確立が十分でない中、奈良時代末期には、皇位継承者が壮年に達しない場合は女性天皇も登用しその歴史を繋いでいる。

 例えば、欽明天皇のお后で35代皇極天皇は、途中弟の孝徳天皇(軽皇子)に譲るものの実子である中大兄皇子の成長を待って譲っている。中大兄皇子とは、大化の改新を経てすでに実権を握っていた天智天皇である。その天智の皇女鵜野讃良姫(持統天皇)は弟の天武天皇の后なので、甥・姪との結婚である。また持統と天武のお子の草壁皇子の后は持統の妹の元明天皇なのでこちらは甥と叔母の結婚だ。兄妹でも腹違いなら結婚した例もあり、正に貴種の血は貴種の中で守る姿勢が鮮明であった。

壬申の乱とは誰vs誰の戦いで背景やきっかけは何か解説!白村江の ...

 しかし、むしろ血脈内の争いはすさまじく常に争いの種が絶えなかった。特に、壬申の乱(※)後、天武系、天智系の確執は残り、奈良時代は皇統の落ち付かない時代を過ごす。極めつけは孝謙天皇(重祚して称徳天皇)である。聖武天皇の皇女である孝謙天皇(阿倍内親王)は、女性で唯一の皇太子に擁立された方で早くから天皇になるように育てられた。従って、生涯独身でありその為に晩年、祈祷僧弓削道鏡との醜聞をうわさされる。最初の即位時は母の光明皇后と藤原仲麻呂(恵美押勝)に実権があり、その仲麻呂に推された淳仁天皇(天武の孫)に譲るが、仲麻呂失脚の後再び即位(重祚)し実権を振るおうとする。しかし、その後体調を壊しその治療に当たった道鏡にすべてを任せた。あろうことか、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を天皇にしようとした。その為、和気清麻呂が改めて神託を受けに行くと、「臣をもって君とする、いまだこれあらず。」と報告し、なんと清麻呂は、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名され左遷される。結果的には、称徳天皇の崩御により実現しなかったが、日本の歴史上唯一皇位簒奪の危機が現実的に迫っていた。後に清麻呂の名誉は回復され、現在は京都の護王神社に祀られている。日本の国体を守った大英雄である。

第49代天皇 光仁天皇 | 日本の歴史を分かりやすく解説!!光仁天皇(白壁王)

 このような大混乱の時代を治める次の天皇には光仁天皇(白壁皇子)が選ばれる。天智天皇の孫で、后が聖武天皇の皇女井上内親王で天武天皇にも血統が近い事から選出された。すでに62歳だったが、この時期40歳以上の大人(壮年)でなければ天皇になれないという考え方があったようだ。皇室はようやく落ち着いたと期待したが、とんでもない事件が相次ぐ。まずは、一番の身内である井上皇后の謀反という重大事件から騒乱が始まる。安定的皇位継承どころではない。


956回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑫

2023-01-26 11:02:04 | 日記

 

その5 継体天皇の意味  継体天皇以降は女系天皇?

継体天皇の倭(やまと)入り|日本の歴史 解説音声つき

 継体天皇の皇位継承は、現代の皇位継承議論の大いに参考になる。継体が応神天皇から5世隔てた子孫であるとされたことから、当然、地方の有力豪族による王朝交代説が疑われている。しかし重要なのは天皇の血筋であることが天皇の条件であったことだ。記紀の記載に非現実的な記載があることは否定できない。しかし、王朝(皇室)はその後を考えて最大限の努力をしている。それは、王妃だ。継体もその子の安閑天皇・宣化天皇もともに王妃には、2代前の仁賢天皇の皇女を迎えている。つまり男系ではないが、女系(天皇の実子である女性)で繋ごうと必死の策をとっている。結果、宣化天皇との間に生まれた石比姫命と継体のもう一人の子である欽明天皇とが結婚し男子(敏達天皇)を産んでいる。ややこしい話だが、女系では見事に血統は繋がった。嫁と姑が姉妹という事になるが、古代では近親相関が多く、むしろ高貴な血筋はその血脈の中で守って行こうと考えていた。

 現在の皇室典範では、女系天皇は認めないがむしろ古代では女系天皇も女性天皇もあったという事を知っておきたい。ただし、その為には重要な原則として現在ではありえない血の濃い結婚が繰り返された事と、さらに歴史の改ざんがあったことは認めざるを得ない。ただし、後者は現代でもあるようだ。

 しかし、まだまだ豪族たちが天皇の地位を奪うチャンスはあった。九州地方などに大きな内乱があった事や、継体天皇崩御後、兄弟たちで皇位を争うがこともあったようだ。継体が苦労して大和に入る過程で力を付けた新興勢力の蘇我氏が推す欽明天皇と、大伴氏・物部氏が推す安閑天皇と宣化天皇とが対立した。それぞれの朝廷が並立した可能性もある。安閑・宣化天皇の在位がそれぞれ4年であり当時では短命すぎる事と、お二人とも相次いで亡くなっていることから、争いは短期的に収束したようだ。重要なのは、豪族が権力を争うのは、どの天皇を担ぐかであり、自らが天皇の地位を奪いあうのではない事だ。戦争に至るまで、有力豪族は自らの血筋の女性を天皇に送り込んで天皇の祖父の立場を目論む時代になって行く。

 従って、天皇が絶対的権力を武力によって保持するという時代も変化する。豪族に担がれた欽明天皇は、豪族たちの合議制によって政治が決められていて、天皇発案の新羅征伐は却下され、また仏教を取り入れることにも長く反対された。このように他国では当たり前である前の王朝を武力で滅ぼして新たな王朝が立ち上がる王朝革命はなく、万世一系の天皇を頂く日本の国家形態(国体)が確立したのがこの時代だ。鎌倉時代に慈円が『愚管抄』で述べたように「この日本国は初めより王胤は外へ移ることなし。」と、単に個人的器量のみが国王になれる要素ではないことはこの時代に成立した。また、慈円は、継体天皇の即位についても、「武烈失せ給いて継体天皇を臣下どもの求めに応じて参らせし、」と、悪い王を替え適任の王を立てたのでその結果これらの天皇の子孫は今に至るまで皇位を継ぎ栄えていると称えている。決して謀反や革命とは言っていない。

古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ④即位の力の源泉は鉄 ...

 そしてその後、数々の皇位継承の危機での重要な先例となった。その際の重要なことは、①いかなる場合でも天皇家以外の人物が即位してはならない、②抜きんでた勢力を持った臣下の者がいても決して天皇にはならない。のである。また、継体天皇は臣下によって推戴された初めての天皇としても重要な先例となって行く。