アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

876  あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑲

2021-08-31 09:18:22 | 日記

その4 ここまでの着眼点

 

ⅰ狂気とされる天皇 

 

政権が変わった時、新政権はその正当性を強調したい為に前政権の最後の権力者を貶める。源頼朝が政権を奪った平氏の最後の棟梁平宗盛や、鎌倉幕府の最後の執権北条高時、さらに信長が滅ぼした最後の将軍足利義昭など、いずれも統治能力に欠けるイメージが強い。天皇家でも、武烈天皇や陽成天皇などそうと思われる天皇は何人かいらっしゃる。今回の陽成天皇は、退任後かなりの長壽であった事、奇行、蛮行は20歳までの血気盛んな青年期だけだった事、文徳・清和・陽成の系統への復活の可能性もあった事など、総合的に考えるとおよそ人格に異常のあった方には思えない。退位当時、皇統が変わってしまうとは思ってもいなかったが、別の血統が正統となった為に、後世「奇行の帝」と言われてしまったのだ。

 

ⅱ皇統を繋ぐ役割の天皇に「光」の尊号  

後漢の光武帝・劉秀 (@kob_tay) | Twitter後漢 光武帝

 天皇の崩御後の呼び名を、「諡号」と言う。生前の業績を考慮し次期天皇が贈ることが多い。一方、住んでいた御所や御陵の所在地に因む、清和とか白河とかは単に「追号」と言い区別している。ただし、安徳とか崇徳など「徳」のつく諡号は、死後の怨霊を恐れた場合もあるので、この事だけで十分に研究の材料になる。さて、「光」のつく諡号は3名の天皇だけだ。中国では漢王朝の光武帝が有名だが、劉邦が興し一旦滅亡した漢王朝を復興した劉秀(後漢初代)は、後に光武帝と呼ばれた。光の字義は、「能紹前業」といい「よく前業を継いだ」という意味だ。このように「易姓革命」による王朝交代を繰り返す中国とは違うが、一つの皇統を繋ぐ日本でも本流が傍流に、傍流が本流にと血統の変遷は行われた。光仁天皇の場合、桓武天皇が後漢の光武帝と同様、父を王朝の再興・創始者と見なしたのだと解釈できる。同様に、光孝天皇においても子の宇多天皇が、傍流からの即位について正統性を強調するために「光」のつく諡号をあえて選んだと思われる。勿論、桓武天皇も宇多天皇も、あえて自らを正統な後継者と主張する必要があるほど、まだまだ政権基盤が盤石ではなかったこともうかがえる。なお、「光」がつくもう1例は、時代を大きく隔てた江戸末期の光格天皇で大変重要な天皇であり後で詳しく書く。また、現在の皇統には入っていないが、北朝の天皇には、光厳・光明・崇光・後光厳・称光と多くの天皇の諡号に「光」がついている。正当な皇統は南朝ではなく北朝だという執念すらうかがえる。

 

ⅲ 臣籍降下後の復帰 

 

 宇多天皇は、皇室から離脱し一般貴族からの即位という前代未聞の継承だった。ただ、自らの子には皇位を継承させない意思を表明していた光孝天皇はすべての子供(26名)を源氏姓を与え臣籍降下させていた。自らの思い通り後継者を決めたい基経への気遣いであった。その内、源定省(さだみ、後の宇多天皇)は、以前、陽成天皇の時代には王侍従をしていた。現在なら、宮家に生まれた男子が皇室を離脱(臣籍降下)して、民間人として宮内庁に一般職員として天皇や皇后の身辺にお仕えしていたところが、その後突然に天皇なったようなものである。従って、陽成上皇との関係は微妙で、『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っている。しかもしばらくの間は、陽成が復位を画策しているというので宇多天皇周辺は警戒していたようだ。 いずれにしても、光孝・宇多の系統は本流となって行くわけで、現代の皇位継承問題には大きな示唆を与えている。太平洋戦争終結時、GHQの指示により多くの宮家・皇族を臣籍から降下させたことで、現在では民間人だが、皇室の男系男子と言える血筋の方が何人かいらっしゃる。その方たちの皇室復帰の議論は、多くの問題を含むものの宇多天皇の事例を思えば、無視してはならない貴重な前例である。


875  あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑱

2021-08-30 09:31:37 | 日記

その3 宇多天皇への継承へ

 しかし、光孝天皇は在位3年で崩御する。つなぎの天皇だったので、即位後自らの親王たちをすべて臣籍降下させていたのは、あくまでも前天皇の文徳・清和天皇の系統が正統とみなされていたので、自ら権力に邪心がない事の証だった。すなわち、藤原基経は自分の娘佳珠子所生の清和天皇の第七皇子で、貞辰親王(さだときしんのう)に継がせるつもりだった。基経の野望と言うよりは、世間の見方も、光孝天皇の子に天皇を継がせる意見はなかった。しかし、予定より早く光孝が崩御したので、仕方なく臣籍(皇室の配下である公家)にいた源定省(みなもとさだみ)を急遽親王の身分に戻し、皇太子とした。異例中の異例で誕生した宇多天皇である。

第一回定例会資料 菅原道真「宮滝御幸記略」をめぐって

 ただ、新天皇に基経は強烈な「恫喝」で臨む。それは※阿衡の紛議という。しかし、基経は事件後、別の娘温子を宇多天皇の正妃として入内させ自ら和解している。「恫喝」と言ったのは、正に挨拶代わりの「先制攻撃」だったと言うことだ。しかし、正統と自認する陽成上皇の鬱憤はおさまらず、暴発的奇行はこの時期にも多く見られる。また、宇多天皇の行列を見た陽成上皇は、「当代は家人にあらずや。」と、怒りを表わした。事実、宇多天皇は、定省王時代陽成天皇の侍従として仕えていた。世間的にも、光孝・宇多天皇は決して正当な系統から出たのではないという考え方が主流であった。通常、天皇になる可能性のある皇子には早くからその日の為に、諸芸や帝王学を教え込んでおくのが当たり前なのだが、このお二人はその準備期間もないままに天皇になってしまったのだった。もしかしたら陽成上皇の再登場を画策する動きもあったのではないか。

 しかし、大きな存在感のあった基経が生きている間は、そのバランスが取れていたが、基経の死を境に徐々に、文徳・清和そして陽成の系統から、光孝・宇多の系統が当たり前になって行く。基経は宇多天皇の31歳も年上だったが、次世代の藤原時平は天皇より4歳若かった。一方、宇多は菅原道真を登用し天皇親政の姿勢を強めて行く。しかも摂関家の血を引いていない皇太子(醍醐天皇)を立てて、自らの皇統を正統とすべく先手を打っていた。

 因みに、その時平が醍醐天皇の時代になって、政敵道真を排除し権力を独占しても、清和・陽成の系統に戻すことは考えもせず、むしろ自らの娘穏子所生の朱雀・村上を支持し摂関家の全盛期を目指す。従って、今なお長生きしていた陽成上皇の復活はもはやありえない状況にまでなっていた。すでに退位後30年近くの時を経て、世間の皇統の正統が清和・陽成から宇多・醍醐の方が当たり前となるまで変化していた。

 

  • 阿衡の紛議

天皇に即位した宇多天皇が、基経を関白に任じる詔勅を出した。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。基経は、阿衡は中国の殷代の官であるが、阿衡は位貴く地位は高いが職務を持たないとして大問題となる。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。結局天皇は先の詔勅を取り消した。


874あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑰

2021-08-29 11:22:40 | 日記

その2 藤原基経との関係(光孝天皇の登場)

 

イラストで学ぶ楽しい日本史

藤原北家の当主は冬嗣、良房と続きその子に適当な子がいなかったのか、甥である基経を養子とし全権を委ねた。この時、藤原氏の総帥はその基経であるが、彼は、養子に乞われたこともあり極めて優秀であった。ただ、直系の後継者でなかった為か、何かにつけて自らの権威を強化することに異常な執念を燃やした。生まれながらのぼんぼんではなかったのだ。これが、陽成・光孝・醍醐と3代の天皇にわたり確執を生む。しばしば辞任をほのめかして、政権に揺さぶりをかけて天皇を脅した。古来、高い地位に就くときは儀礼的に「辞退」することが美徳とされた。しかし、彼は本当に出仕を辞めてしまうことがあったという。つまり「自分がいなければ何も出来ないでしょう?」と、言わんばかりに天皇に圧力をかけて来たのだ。陽成天皇即位後の元服時にもそのような事態があったようで、基経のお陰をもって即位したものの天皇も自我に目覚め基経との確執が表面化する。その結果が陽成天皇の数々の奇行に繋がったと考えられるし、一方、基経から見ると奇行が目立つ天皇を制御できなくなってある種の嫌気がさしていたとも考えられる。陽成天皇を退位に持ち込めば、外祖父という藤原氏の伝統的権威取得の手段を放棄することになるのだが、基経にはそのような特権を得なくても自らの実力に自信があったとも考えられる。

 いずれにしても皇位継承から見ると由々しき事態が出立していた。さらに、後継の光孝天皇は仁明天皇直系とは言え、3代さかのぼり55歳の老齢天皇の誕生になる。以前紹介した桓武天皇の父光仁天皇の即位事情に非常に似ている。いずれも「光」の文字が諡号についている。これは偶然ではない。


873 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑯

2021-08-27 08:42:41 | 日記

③ 57代陽成天皇~59代宇多天皇 綱渡りの継承劇

 

その1 狂気の天皇 陽成天皇

十月二十八日は陽成天皇と醍醐天皇の祭日・・・菅原道真の運命を変えた ...陽成院

 

 歴史には、狂気の王がしばしば登場する。権力を握ってから狂気化する場合、狂気なるものが王権を持ってしまった場合、さらに狂気なる振りをすることで自らの命を守る場合など、色々ある。しかし、勝者が残す歴史は王統の変更(政権の交代)があれば必ず前政権の最後の王者を貶めている。それは、新政権の正統性を強調したい為に行われる歴史書の鉄則だ。陽成天皇もその例えである。しかし、宮中における殺人事件(自ら犯行を疑われる)など、史実に基づく真実も多く「若気の至り」どころではない激しいもので、相当荒れた性格であったらしい。何せ生後2か月で皇太子、9歳で即位したのだからその素質を見極めて天皇になったのではない。父の清和天皇同様、藤原氏の庇護があってこその即位であり、もしかしたら、自らの主義主張を持った人間であれば青春の一時期「荒れる」こともあろうかと推量する。その証拠に、陽成天皇の奇行の記録は、即位後数年から退位時までに集中し、退位後長寿を全うするまでは誠に常識的な老後(あまりにも長い)を送っている。従って、陽成天皇の狂気は、後世の藤原氏や藤原氏に取り込まれた歴史家の忖度により、過大に表現されたものだと思う。いずれにしても、すでに皇位は、奪うものでも素養適切を判断してなるものでもなくなっていた。ひとえに藤原氏の都合のみが決定の判断であった。


872 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ⑮

2021-08-26 11:47:40 | 日記

その4 皇位継承の基本形 「皇位は奪わない」

藤原氏 - Wikipedia藤原氏の家紋(下り藤)

 この時代重要なことは、「皇位は奪わない」ものにした事だ。藤原氏はいつでも天皇家を滅ぼし自らの一族に皇位を奪うことも出来た。しかし、天皇家の神秘性を利用しその実権をのみ奪い取る方が、合理的で権力と財力を得るにはうま味があることに気づく。これは世界にも例がない日本固有の権力形態となって行く。皇位は奪うのではなく天皇の権威を利用して、権力(実権)を奪うのである。天皇は男系男子という限られた制約の中で継承していくが、藤原氏は増殖を繰り返し政権の中枢のみならず、荘園制度を利用して地方政治にも根を張り、和歌や雅楽などの文化にまで支配が及んで行く。

 

例えば、旧家の本家と分家の関係になぞらえればどうだろうか。本家が如何に衰えて分家が栄えようと、本家は本家であり法事や慶事の時の拠りどころである。分家が如何に財力や権力を持とうと分家には違いがなく、本家の権威には及ばない。天皇家という本家を担いでいれば分家は一族の中で相応に自由に振る舞える。因みに、藤原氏の祖先は神話の「天児屋命」であり「アマテラス」に仕えた。天の岩戸の伝説や天孫降臨の際にも伴っていて、皇室に最初に仕えた「神」ということになっている。従って、大神になるのではなく、大神(皇室)に仕えることで一族の存在意義を見出したのである。その後、藤原氏の嫡流近衛家鷹司家九条家二条家一条家五摂家に分立し、五摂家が交代で摂政関白を独占し続ける。また、五摂家以外にも、三条家西園寺家閑院家花山院家御子左家四条家勧修寺家日野家中御門家など数多くの支流・庶流がありそれぞれ独自の得意分野を誇る。源平藤橘(げんぺいとうきつ)と言われる日本の姓の源流の中でも、藤原氏が圧倒定な存在感と子孫の数を持つに至る。なお、源氏・平家や鎌倉幕府における北条氏、室町幕府の足利氏などと皇族との関係性はまだまだ研究の余地がある。そして江戸幕府においては、「禁中並公家諸法度」でしばりを強め、一方で幕末には皇女和宮を将軍家に迎え公武合体を目指すなど特異な経緯をたどる。最後は、大政奉還により遂に政治の実権を皇室に返上する。まさに、「建武の中興」以来の大変革に至る。