アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

660 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  71番~80番

2019-10-30 08:06:53 | 日記

71番 神光院  京都三弘法の一つ

 

京都市北区西賀茂神光院町120

山号  放光山

宗派  真言宗 単立

開基  慶円

本尊  空海像

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

正伝寺から紫竹通りを南に車で5~10分ほどで神光院に着く。京都に空海ゆかりの寺院が多くあり特に「京都3弘法」として、東寺(教王護国寺)、仁和寺、そして神光院の3寺院は特別扱いである。しかし、創建は一番新しく鎌倉時代の1217年(建保5年)で、空海の活躍した平安初期からは400年後の事なのだが、本尊が空海自刻の弘法大師像なので「西賀茂の弘法さん」と呼ばれている。境内は自由に入れるが拝観寺院ではないので本堂など建造物には立ち入り出来ない。

山門横には「厄除弘法大師道」という大きな石碑があり門を入ると、すぐに小さな池と庭園がある。残念ながらお世辞にも手入れが行き届いているとは言えないが、茶室「蓮月庵」と大田垣蓮月ゆかりの石碑(「蓮月尼旧栖之茶室」と彫られてある)などが見学できる。江戸時代末期の女流歌人大田垣蓮月は晩年ここで隠棲した事で有名、京都観光検定的には、歌碑「やどかさぬ 人のつらさを なさけにて おぼろ月夜の 花のしたふし」が、ここ神光院にある事は必須だ。本堂は左手奥にあるが、外から手を合わせるだけで約10分ほどで一巡できる。

 

7月の「きゅうり封じ」は重要行事だ。同じ空海所縁の蓮華寺でも有名だが、こちらでも土用の丑の頃に、キュウリで体の悪いところを撫でて奉納すると、僧が秘伝の祈祷をしてくれる。秘伝というからどのようなまじないが施されるのか分からないが、ここから暑い夏に向けて伝染病や夏バテに打ち勝つように庶民の願いを受け止めてくれるのだろう。一説には、空海自身がきゅうりが嫌いで、それに悪い厄をすべて託そうとしたとも伝わる。

 

 

72番 等持院  きぬかけの道を行く

 

 

京都市北区等持院北町63

山号  萬年山

宗派  臨済宗天龍寺派

開基  足利尊氏

本尊  釈迦牟尼仏

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衣笠から龍安寺前を経て仁和寺に至る道を「きぬかけの道」と言う。宇多天皇が夏に雪景色が見たいと言うので、山(衣笠山)を白絹でおおったと言う故事に因んでつけたものだ。天皇とは言え我儘が過ぎると思うが、そのきぬかけの道の立命館大学衣笠学舎のすぐ裏に、等持院がある。

等持院は、足利尊氏の菩提寺として有名だが、三条坊門にあったされる等持寺との関係には諸説ある。尊氏が建立した等持寺の別院が現在の等持院である事は間違いないが、等持寺は弟直義と深く関わりがある為、喧嘩別れした舎弟の歴史を抹殺した可能性がある。近年の「室町ブーム」で専門家の研究が進むと面白い話かも知れない。さて、難しい話はさて置いて等持院の見所は、庭園と歴代足利将軍の木造そして墓地である。

そして、方丈から庭園へは降りて回遊できる。まずは、縁側で抹茶接待を受け、甘い菓子と渋い抹茶を頂きながら、「心字池」「芙蓉池」と茶室「清蓮亭(義政好み)」を眺める。見事に整備された絶景である。その後スリッパを借りて庭園に降りて散策する。宇多天皇ゆかりの衣笠山を借景にした趣向凝らした名園だと聞いていた。しかし、すぐ北側は立命館大学の校舎がずらり並んでいる。借景どころか眺めを遮断している。腹を立てるのは早計だ。京都の寺院の財政は苦しい。多くのお寺が工夫を凝らして経済基盤を支えて行かなければならない、幼稚園や学校法人を併設するのは巨大寺院にはよくある事だし、境内を駐車場にしたりもする。こちらは立命館大学に広大な敷地を貸して賃料をもらっているようだ。(諸説あり確認中)仕方ないか?

 

霊光殿に入る。薄暗いお堂の中には歴代の足利将軍の木造がずらり並んでいる。初代尊氏から15代最後の将軍義昭まで並ぶ。ただし5代と14代が抜けている。5代将軍義量(よしかず)は4代義持の長男で父の生前に譲位されて将軍になったが、大酒飲みで親より先に死んだ為、籤で選ばれる6代義教まで将軍空位の時代を招いてしまう。14代義栄(よしひで)は、13代義輝が「永禄の変」で戦国時代最強の「悪人松永久秀」に殺害された為に傀儡将軍にされ、朝廷から室町将軍として正式に就任した形跡がない。さらに義栄自身は京都にいた事もない。そして正面には、徳川家康の木造も安置されている。源氏の正当な後継者として無理やり系図を作成し足利家に継いで徳川家が武家の頭領である事を強調したかったのだろうか。

しかしその為、幕末にはとんでもない事が起こる。尊氏、義詮、義満の三代将軍の木造の首が斬られ鴨川の河原に晒される。「足利三代木造梟首事件」として幕末の象徴的事件となる。京都守護職松平容保は、幕府への反乱と考え、即刻犯人を逮捕し処刑している。さらに明治維新以降は皇国史観の中で足利家自体が国賊扱いされて行く。そのような等持院の重い歴史を考えながら帰路につく時、振り返ると日本映画の父、マキノ省三氏の銅像が見送ってくれた。等持院墓地には映画関係者の墓が多いのである。

 

73番 大仙院   大徳寺一番の塔頭寺

 

京都市北区紫野大徳寺町54-1

宗派  臨済宗大徳寺派北派

開基  古嶽宗亘

本尊  釈迦牟尼仏

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

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大徳寺は誰でも知っている。北大路通の堀川と千本通の中間あたりなので、京都駅からバスで30分、タクシーなら20分ほどで着く。境内は自由に通行できる。京都市内ではよくある光景だが、地元の人には生活道路でもあり堀川通り方面から紫野高校へは大徳寺内を通り抜けるのが近道である。上品そうな女子高生が寺院の境内を笑顔で通り抜けるのは絵になる。いくつかその塔頭を訪ねる事にする。

 

主な塔頭寺院を整理する。

塔頭寺院

創建・所縁

茶室

書院

絵画など

その他

大仙院

古嶽宗亘

特別名勝庭園

方丈(国宝)

大燈国師墨蹟

大徳寺北派

黄梅院

春林宗叔

昨夢軒

 

雲谷等顔

 

高桐院

細川三斎

松向軒

意北軒

 

袈裟型の手水鉢

孤篷庵

小堀遠州

忘全席

直入軒

 

露結 の手水鉢

聚光院

茶道三千家

閑隠席枡床席

 

狩野永徳・松栄

 

真珠庵

一休宗純

庭玉軒

通僊院

長谷川等伯

 

龍光院

黒田長政

密庵

 

 

耀変天目茶碗(国宝)

 

塔頭で一番の格式は大仙院だ。大徳寺北派の総帥で本堂方丈は国宝である。大徳寺では最古の客殿遺構で創建当時の姿をとどめている。「玄関」とか「床の間」と呼ばれる国内最古の建造物である。庭園も国宝扱いで国の特別名勝に指定されている。枯山水庭園は禅の心を現わす奥深いものだが、本稿はそれを語るのが目的ではない。禅僧から「喝」が入るだけだ。

ただし、国宝の方丈と特別名勝の庭園の組み合わせは、必見のお寺である。南側は「大海」を現わし、西側の白砂の簡素な庭、そして東側にまわると「大河」を現わす大きな枯山水庭園が広がり廊橋をまたいで数々の石組の変化が楽しめる。平安時代に書かれた『作庭記』(橘俊綱)にあるような技法が使われているらしい。一説には草木のない枯山水になったのは明治以降だと言われる。

何も考えずしばし幽境の世界に浸りたい。

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74番 聚光院   茶道三千家ゆかりの聚光院

 

京都市北区紫野大徳寺町58

開基  三好善継

 

75番 真珠庵   一休さんゆかりの真珠庵

 

京都市北区紫野大徳寺町52

開基  一休宗純

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大徳寺は、山門である金毛閣など自由に眺める事は出来るが、塔頭寺院については、拝観できる寺院が受付で表示されている。大体の寺院が拝観できないので注意して行く。なお、塔頭寺にはほぼ全部に茶室があり「大徳寺の茶面(ちゃずら)」と呼ばれる。因みに、建仁寺は「学問面」、妙心寺は「ソロバン面」、南禅寺は「武家面」など、それぞれの特徴を言い表しているのである。境内最北にあるのが、芳春院。加賀前田家の寺だ。実質の創設者前田利家の妻まつの法名が寺院の名前になっている。その南に大仙院。さらに南西方向に聚光院がある。寺名は三好長慶の法名であり三好家の菩提寺だが、茶道三千家の墓があることで有名だ。重要文化財の茶室「閑隠席」の一室は利休自刃の部屋とも言われる。また、方丈庭園は利休が石組をしたもので「百積の庭」という国の重要文化財に当たる名勝庭園である。注目は狩野松栄・永徳親子の国宝指定の絵画の数々だ。永徳の「花鳥図」「琴棋書画図」松栄は「瀟湘八景図」「竹虎遊袁図」などがある。残念ながら筆者は実物を見たことはない。

 

真珠庵は、おなじみの一休宗純を開祖としている。一休さんは、トンチで有名だが実は大徳寺を復興させた功績で今日まで言い伝えられているのだ。真珠庵も茶室と庭園が見どころだ。    茶室は金森宗和好みの「庭玉軒」であり、庭園は侘茶創設者の村田珠光作と伝わる「七五三の庭」だ。禅の極意を現わす七五三の石を配置した枯山水庭園である。国宝は、「大燈国師墨蹟」を有する。さらに真珠庵の凄いのは重要文化財の豊富さである。画僧墨渓や長谷川等伯の襖絵など国宝級のものが多い。また、一休禅師ゆかりの墨蹟・絵画・木像などあり時々一部公開している。一休さんの墨蹟で「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」は、悪い事はするな、良い事をせよという意味らしい。「そんなことは分かっています。」と弟子が言ったら、一休さんが「喝!わしは未だに出来ていない。」と言ったと聞いた事がある。先日公開日があり行ってみたら、「釣りバカ日誌」の北見けんいち氏の漫画や、テレビゲームのアートディレクターのイラストなど現代芸術の襖絵が公開されていた。たまに、本来の襖絵の修復中などに現代作品の展示に使われる事がある。まさに「今風」だが、なぜか古刹の方丈にも相応しく見えた。古風な風景と共に楽しんだのだった。

 

 

76番 峰定寺   修験者のお寺

京都府京都市左京区花背原地町772

山号  大悲山

宗派  本山修験宗

開基  観空西念

本尊  十一面千手観音座像

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ

 

ここからは左京区に入るが、まずは京都市内の北東の果てにある峰定寺に行く。このシリーズでは西北の金蔵寺、東南の金胎寺・笠置寺と共に難所と言える。市内の中心通り烏丸通をまっすぐ北に上がりドン突きを鞍馬街道に入りさらに北上する。市内から車でここまで30分ほどだが、さらに小一時間山道を行く。途中すれ違うのも困難な隘路を行くことになる。 

京都は北部に通じる街道が3つあり鯖街道とも言われる若狭街道は、大原を経て日本海まで行く。また周山街道は高雄・栂尾・槇尾を経て京北に行く。今回の鞍馬街道は、鞍馬・由岐神社などを経て美山に行くが、そのまま周山街道にも通じる。こちらは程よいドライブコースだ。

さて、峰定寺へ、山門横の方丈に受付があり住職の奥さんが説明をしてくれる。こちらは修行の場なので、財布以外の持ち物はここに置いて行ってもらいますと、毅然とおっしゃる。特に携帯は写真を撮ることが禁止なので必ず出してくださいとも言われ、巡礼のズタ袋のようなものを渡されそこに財布だけ入れて杖を2本借り覚悟の上、山門を目指した。登り降りに30分、本堂前で瞑想を10分して戻るようにとのご下命だ。1時間以上経っても戻らなければ救助に向かいますと言う。呼吸を整えお経を唱えながら岩場を登る。確かに修行だ。息が上がったところで鐘楼堂にたどり着き鐘を一度だけ突く。あとで聞いたところ熊が出るので警告の鐘なのだそうだ。さらに息も絶え絶えになった頃、見上げるとずっと見たかった懸崖造りの本堂が見える。清水寺の舞台と変わらないその見事に組み上げられた柱が見えた。一瞬疲れも消えて、本堂に上がり舞台から眺めた景色は絶景だ。山並みが遠くまで見通せて、背後には切り立った崖が迫り、すぐにここが修行の場だと分かる。本堂内は見えないが厳かな霊気が漂う。舞台右奥の神仏に備える水が湧き出る有名な井戸「閼伽井屋」を見る。現存最古の遺構である。本尊は十一面千手観音座像で、鳥羽上皇が皇后待賢門院に似せて彫らせたと言う妖艶な姿は現在は収納庫の中だ。祖父白河上皇と孫鳥羽天皇の二人の天皇に愛された悲劇の美女とはどんな姿だったのか、夢想しながら澄んだ空気がご褒美の舞台の高縁に座りしばし深呼吸する。旧国宝で現在は重要文化財を独り占めだ。呼吸していると世界を独り占めしている感覚に襲われる。秘境の寺院を訪ねる至福の時がこのような瞬間だ。

救助が来ないうちに下に降りる事にした。しばし住職の奥さんと歓談する。創建は平安時代末期の修行者の三瀧上人で、その後、鳥羽上皇の勅願を得て堂宇が整った。奈良県の大峰山と並び北大峰とも言われる修行の地である。また、政争で敗れた重要人物の隠里でもあり途中鹿ケ谷の陰謀の首謀者俊寛和尚の眷属の供養塔があった。奥さんは話相手が欲しかったのかずっとしゃべってくれる。冬は3~4mの積雪になるのだそうだ。そのような中で歴史的寺院を維持する苦労を語ってくれた。一方、近くに「美山荘」というミシュラン5つ星の高級料理旅館が来て流行っていることを批判していた。地元の安い食材で作った料理を高級っぽくしているだけだと言う。地元住民の意識はそのようなものだ。

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寺宝である仏像群の話や有名なご神体である「3本杉」の話などお聞きしているとキリがないので十分に感謝の意を表明し退散した。下山中も心地よい空気が御馳走だ。前出の「美山荘」の玄関から出て来た女将のような妙齢な女性と出会う。勇気を出して「お昼頂けますか。」というと、「ご予約様のみです。」との事。

 

77番 実相院  床もみじを見に行く。

 

京都市左京区岩倉上蔵町121

宗派  単立寺院

山号  岩倉山

本尊  不動明王

開基  静基

別称  岩倉門跡・実相院門跡・岩倉実相院

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

岩倉に戻り、いよいよ洛北のお寺を巡る。実相院は枯山水庭園と床緑(床もみじ)が主目的である。鎌倉時代の創建だが、江戸時代初期に後陽成天皇の時、この寺に入山していた室町幕府最後の将軍義昭ゆかりの女性が親王を儲けた事から一気に皇室との関係が深まった。後水尾天皇や東福門院和子もしばしば訪れた。因みに修学院離宮も近い。またその後、東山天皇の中宮宜秋門院から自らの住まいである大宮御所の建物を賜り今日に伝わる。その遺構の一つ、山門の四脚門をくぐり車寄せそして客殿に入る。

堂内はそう広くなく、すぐにお目当ての床緑が見える。撮影できないのでその前の座布団にしばらく座りその情緒を堪能する。黒光りした光沢のある床に移る青葉の見事さに感動する。後ろに安置されている本尊不動明王を拝み。高縁から枯山水庭園を見る。いずれも紅葉の季節に訪れたい。

洛北のお寺は多くが名園を保有している。難しい講釈は抜きに心の安らぎを求めに行きたい。次はすぐそばの圓通寺へ行く。

 

78番 圓通寺  元祖借景庭園

京都府京都市左京区 岩倉幡枝町389

山号  大悲山

宗派  臨済宗妙心寺派

本尊  聖観音

開基  文英尼公

別称  幡枝御所 

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圓通寺も庭園が必見の寺だ。実相院からは車で5分ほどで着く。近くには宝ヶ池など散策場所も多く昔から富裕層の居住地域でもある。

瀟洒なたたずまいの地域に広大な敷地を誇る圓通寺だが、見どころは比叡山を借景にした方丈前庭園だ。借景庭園の王者と言っても過言ではない。本尊の聖観音像のある本堂から比叡山の方向に平面の庭園が視野に広がる。高縁の柱やまっすぐ伸びた杉の大木を通して見ると、あたかもそれぞれ額縁に収まったような絶景である。この景色を見る為だけに来たと言っても過言ではない。

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ここは、後水尾上皇が営んだ「幡枝御所」のあとで、近くの修学院に離宮を完成させた後、門跡寺院として正式に禅寺とした。上皇からは大悲山圓通寺の勅願を賜り、その後霊元天皇の庇護厚く大いに発展した。本尊の左右には江戸時代後半の天皇の位牌が並ぶ。

受付に座る住職としばし歓談する。やはり皇族とは関係が深く、上皇(平成天皇)・上皇后陛下の退位式典にも招かれたらしく、その時、陛下には「退位後は京都にお戻りいただくよう申し上げた。」との事だった。もとより筆者も賛成だ。空気の悪い千代田の地ではなく現在も「王城の地」である京都に「還幸」してもらいたいものだ。皇室関係の話題で大いに盛り上がり、5月始まりの新天皇の「令和カレンダー」を購入して気分よく本日の訪問を終えた。

因みに京都では、東京遷都は正式には発表されていず、今でも天皇は一時東京に行幸しているに過ぎないと解釈している。1200年以上の平安京の歴史からすれば、明治以降120年など大したことではない。なにせ「先の大戦」とは、「応仁の乱」なのだから。

 

79番 妙満寺  雪月花の内、雪の庭を見に行く。

 

京都市左京区岩倉幡枝町91

山号  妙塔山

宗派  顕本法華宗

開山  日什

本尊  三宝尊

洛中法華21ケ寺

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

洛北には数少ない法華宗寺院である。洛中法華21ケ寺の一つであり開山の僧日什が、室町時代に六条坊門室町に法華堂を建立したのが始まりだ。その後の変遷は、多くの法華宗寺院がそうである通りで、火災によりすぐ綾小路東洞院に、応仁の乱後は四条堀川に、そのあと有名な「天文法華の乱」で多くの法華宗寺院と共に泉州堺に移る。その後、後奈良天皇の許しを得て四条堀川に復帰する。そして秀吉の命令で寺町に移り幕末の禁門の変まで何度も火災に合うが復活し、現在の岩倉の地には戦後で昭和も43年になってからだ。現代の寺と言っても過言ではない。近年はつつじの花が数千本植えられ「花の寺」とも言われる。

見所は、方丈内の「雪の庭」である。松永貞徳作庭のこの庭園は、京の「雪月花」の3庭園の一つである。清水寺の「月の庭」と共に二つのみが現存している。いずれも成就院という名の塔頭にある。因みに「花の庭」は北野成就院にあったが現在は廃寺となっている。妙満寺の雪の庭は清水寺と比べると小規模だが趣向を凝らした手の込んだ中庭で本当に雪が積もったら写真マニアが殺到する。

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また、こちらは安珍清姫伝説の『鐘』を保有している。紀州道成寺から秀吉家臣の仙石秀久が京都に持ち帰る時に、そのあまりの重さで途中投げ出したものを妙満寺が引き取った。実物を拝見できるが、そんなに巨大なものではなく鐘の中に変身した清姫が閉じ込められるほどの大きさではない。

筆者は、12月8日の釈迦が悟りを得た事を祝う「成道会」の日に訪ねて「大根炊き」の接待を受けたことがある。お揚げと大根の質素なものだが寒空には有難かった。境内は広く、仏舎利大塔や巨大な方丈など新しい建造物が多く、歴史というより法華信仰者の多さと資金力を感じた。

80番 宝泉院  天然記念物の五葉松を見に行く。

 

京都市左京区大原勝林院町187

山号  魚山

宗派  天台宗

開基  宗快

本尊  阿弥陀如来

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遂に、京都大原にまで足を伸ばす。三千院など見どころの多いエリヤだが大寺院を紹介するのは本意ではない。すぐ隣の声明の寺、勝林院と宝泉院を訪ねる。

まず、宝泉院の見所は二つだ。「血天井」と「五葉松」である。いずれも京都検定的には必須の項目である。このシリーズでも紹介したが、関ケ原の戦いの前哨戦で京都伏見城を守った家康の筆頭の家臣、鳥居元忠が少人数で石田三成に対して籠城戦を戦い、そして敗れたものの時間を稼いだことで、関ケ原の大勝利をもたらす。その功績を称え、遺徳を偲び、自刃した武将たちの血痕の残る伏見城の床の板を、市内数か所の寺院の天井に使っている。養源院・興聖寺・正伝寺などいずれも100寺に入っている。

「五葉松」の方は、金閣寺の「陸舟の松」善峯寺の「遊龍の松」と並び天然記念物であり「京の三名松」という。こちらの「五葉松」は上層部が滋賀の「近江富士」の姿に似せている立派な枝ぶりで、方丈の庭園から眺める下層部の枝ぶりも見事なものだ。しかし近年の気候変動の被害で絶滅の危機にあっている。従って残念ながら養生の為の白い布が巻かれていた。それでも「額縁の庭園」と呼ばれる本堂から柱越しに眺める眺望は格別だ。盤桓園・鶴亀庭園・宝楽園の3庭園を保有する。

寺の創建は鎌倉時代で勝林院の僧坊の一つとして発展した。狭い本堂・方丈内だが、ぼんやり庭を眺めるとしばし時間を忘れる。


659 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  61番~70番

2019-10-29 08:58:48 | 日記

61番 西明寺  季節それぞれの景色を愛でる。

 

京都市右京区梅ケ畑槇尾町2

山号  槇尾山

宗派  真言宗大覚寺派

開基  智泉

本尊  釈迦如来

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ

 

いよいよ周山街道を北上し洛外へ出て京の「三尾」を訪ねる。京都駅から車で小一時間、60番愛宕念仏寺からは15分くらいだ。三尾とは、高雄・栂尾・槇尾だ。高雄は「尾」ではない。東京の高尾山と紛らわしいからか?あるいは、近くの水尾とで三尾ではないのか。

さてこの三山を整理する。

 

高雄山

槇尾山

栂尾山

寺院

神護寺

西明寺

高山寺

宗派

高野山真言宗

真言宗大覚寺派

真言宗単立

開基・開祖

和気清麻呂・空海

智泉

光仁天皇・明恵

国宝など

似せ絵(伝頼朝像他)

薬師如来像など多数

清凉寺式釈迦如来

(重要文化財)

鳥獣人物戯画他

石水院

主な行事

虫払定(春)

柴燈護摩法会

 

トピック

かわらけ投げ

桂昌院が再興

本茶(最古の茶園)

 

 

 

 

この中で、神護寺や高山寺という大きな寺を紹介するのは、このシリーズの本意ではない。西明寺は神護寺の近く、清滝川沿いの山肌に建つ。創建は平安時代初期空海の直弟子、智泉大徳である。当初は神護寺の所属であった。度々の戦乱で幾度も焼失する。洛中から遠い槙尾のこの地にまで戦争の影響があるとはとても考えられないのだが、当時各寺院は争いの拠点になったようだ。

徳川将軍綱吉の母桂昌院の再建と言われているが、後水尾天皇の皇后徳川和子(東福門院)という説もある。西明寺はそこに行くまでの清滝川沿いのそぞろ歩きが楽しい。夏は川の緩やかなところで川遊びする子供たちの歓声が聞こえる。また、秋は紅葉のトンネルをくぐる。冬の寒い時でも雪が降れば写真マニアで賑わう。勿論春から夏に向けての百花繚乱も楽しめる。山すそをかけ上るように山門を入る。狭い境内だが歴史を感じる。本堂内に入って本尊の釈迦如来を鑑賞する。清凉寺式と言われる形式は、中国からの伝来でインド仏像の原像であるらしい、それを摸刻して持ち帰ったものが嵯峨清凉寺のものであり、さらにそれを摸刻したものを清凉寺式と言い鎌倉時代には例が多いと聞いている。時間をかけてゆっくり境内の静寂を楽しんで次に向かう事とする。

 

62番 常照皇寺  史上最も理不尽に耐えた天皇が眠る。

 

京都市右京区京北井戸町丸山

山号  

宗派  臨済宗天龍寺派

開山  光厳天皇

本尊  釈迦如来

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ

 

足を伸ばして右京区の北の果てまで行く。三尾からでも車でさらに小一時間かけてたどり着く。京都市内の喧騒からかけ離れ北山杉の山道を丹波地方に向けてドライブする事になる。常照皇寺という意味深い寺院は京都の奥座敷の更にその果てにある。北朝初代の光厳天皇が南北朝騒乱の果てに、失意の後に出家し開創した寺である。境内奥には、その御陵である山國陵と、後花園天皇の後山國陵もある。

見所は、国指定の天然記念物の枝垂れ桜だ。見事な九重さくらだが近年の気候変動と寿命とで存亡の危機と聞いている。方丈や開山堂から眺める庭園も絶品でゆっくり座って鑑賞したい。

 

常照皇寺は、光厳天皇を語らねば理解できない。そもそも筆者は、この天皇が歴代天皇に数えられていないのは理不尽と考える。明治維新後、神国日本の国づくりを推し進めるあまり、極端な皇国史観から逆賊足利尊氏、英雄楠木正成の構図を作り上げる過程で光厳天皇の存在が薄められた。光厳天皇は、後醍醐天皇から正式に三種の神器を譲り受け即位している。後に「あれは偽物であった。」と、後醍醐天皇に言われたが、そんなことは関係ない。時の天皇が保持している物が「神器」なのである。1331年鎌倉倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が隠岐に流される前に、幕府の推挙により即位した。しかし、1333年隠岐を脱出した後醍醐の詔により廃された。その時、後醍醐天皇は、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」とし、何と即位そのものを否定した。これをもって光厳上皇という。依然として、光厳天皇の時代とも言える。後醍醐天皇の重祚と考えるか、隠岐流罪の間も天皇であったと考えるか。いずれにしても後醍醐天皇に続き、97代天皇とすべきであろうと筆者は考える。光厳天皇は長い上皇時代に、「観応の擾乱」による一時的な南朝方の権力回復により、吉野に幽閉されている。その様に誠に理不尽な人生であった光厳上皇は、晩年夢想疎石を師とし禅僧として、京都の奥深いここに眠った。常照皇寺に残る「光厳法皇像(絵画)」は禅僧そのもののお顔である。

市内から遠く離れて訪ねる価値はある。

 

63番 法金剛院  白川上皇に翻弄された悲運の美女待賢門院が眠る

 

京都市右京区花園扇野町49

山号  五位山

宗派  律宗

本尊  阿弥陀如来

開基  待賢門院

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

JR花園駅のすぐ前、妙心寺三門の西南へ数分のところにある。

待賢門院はこのブログの主役と言っても良い。第74代鳥羽天皇の中宮でありながら、第72代白河天皇の子を宿し第75代崇徳天皇の母となり、さらに鳥羽天皇との間に第77代後白河天皇を産み国母と呼ばれた歴史上稀な女性である。法金剛院はその待賢門院の創建となっているが、平安初期の高級貴族清原夏野の別荘を文徳天皇の発願により天安寺としたものを、待賢門院がさらに法金剛院としたものだ。

国の特別名勝庭園には蓮の花が咲き、日本最古の人口滝の跡である「青女の滝」がある。現在は奥の五位山からの水脈は尽きていて滝とは言えない。さらに浄土式庭園は見事なものだが、池の背景にはマンションが建設されていてややガッカリする。

しかし、見事なのは本尊の阿弥陀如来坐像である。丈六仏(立てば5m以上)なので座像でも存在感があり、慈悲深く眼差しを向けてくれる。平等院の国宝阿弥陀如来坐像と同様典型的な定朝様仏像である。直系弟子の仏師院覚作である。この阿弥陀様の前で晩年の待賢門院が、どのような気持ちで過ごしたのか。まだ女性としての兆しが訪れる前から白河天皇と同衾し、白河の孫の鳥羽天皇に差し渡された後も白河と逢瀬を繰り返し、月経の周期まで調べて後の崇徳天皇をはらんだ。その間、鳥羽天皇には添い寝はしても交合は許さなかった。小説「天上紅蓮」にはその間の描写が生々しい。手淫により処理された鳥羽天皇はどんな気持ちであっただろうか。本堂から庭園など一周しても20分ほどの境内なので、椅子に腰かけて異常な宮廷事情を想像して見た。なんだかそれも良いか、と思えた。

 

64番 広隆寺  秦氏 聖徳太子ゆかりの古い寺

 

京都市右京区太秦蜂岡町32

山号  蜂岡山

宗派  真言宗単立

本尊  太子像

開基  秦河勝

別称  蜂岡寺 秦公寺 太秦寺

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

京福電鉄嵐山鉄道、通称「嵐電」本線の広隆寺駅の前に大きな山門が見える。嵐電は京都の街並みにすっかり溶け込んでいるので、古風なお寺の前を電車が横切っていても全く違和感なくむしろ京都の風物詩とも言える。路線図を貼りつける。駅名を眺めるだけでワクワクする。

さて、このシリーズでは大寺院である清水寺や東寺などは取り上げず、一般にはなじみは薄いが重要な寺院を中心に書いている。ただ今回の広隆寺は誰もが知る大寺院である。国宝指定第1号の弥勒菩薩半跏像で有名だ。言うまでもなく聖徳太子創建の太子信仰の中心寺院である。現在の本尊は、その太子像となっている。

しかし開基は秦河勝という人物である事は余り知られていない。秦氏の事実上の祖である。太古の日本は秦氏をはじめとする高麗氏、小野氏、土師氏、八坂氏などの唐や半島からの渡来人の高い技術のお陰で発展した。中でも秦氏は織物の技術を中心に太秦地区を中心に山城地域の開拓に貢献した。太秦「うずまさ」は、うずたかく積み上げられた織物を現わす言葉である。おそらく中国や朝鮮半島の政争に敗れ苦難の末、日本に渡って来たのであろう。その結果古代朝廷の発展に貢献したのだ。その秦氏と聖徳太子との深い関係が伝わるのが広隆寺である。

本堂奥の「霊宝殿」に安置される国宝仏像の豊富さに驚く。展示されないものも含めると、9個の国宝、34個以上の重要文化財を保有する。詳しい由来はさて置いて講堂本尊の阿弥陀如来坐像の存在感や弥勒菩薩の美しさにしばらく浸っていたい。今回訪問したのは、11月22日お火焚き祭の日であった。 

 

その日は、聖徳太子の御命日という事で、太子への供養と信者たちの願いを込めて護摩木を燃やして、祈祷を行う。ちょうど紅葉の季節の真っただ中で、境内の鮮やかな紅葉も同時に楽しめる。昼過ぎに本堂では丁重な法要が行われる。その後、管主を先頭に山門の前に備えられた護摩壇に火が点けられる。その際の修行僧たちの所作の美しさと、注目すべきは管主様が美しい女性であることだ。古代の尼御前の醸し出す清廉な美しさはこのようなものであったかと思う。そしてその日だけ秘仏の聖徳太子像が御開帳される。本堂での読経の後、順番に一人一人戒壇内に通してもらう。童形の太子像は普段閉じられているので鮮やかな彩色も残っている。その感動だけでもこの日訪ねる価値がある。

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その後、御火焚きの方にまわって、写真にあるように「ご利益」を頭に頂いて、帰路についた。このように京都の寺はなるべく重要行事に合わせて訪ねて行きたい。因みに、こちらの境内社の大酒神社では、京都三大奇祭の一つ「牛祭」があり、1012日に異相の仮面をつけた神様が牛にまたがり、周囲を赤鬼・青鬼が松明をもって巡行する。そして薬師堂の前で祭文を読み上げると周囲の参詣者から一斉に悪口雑言が浴びせられ神様たちは急いで堂内に逃げ込むと言う奇祭だ。残念ながら、是非見てみたいと思うが現在はしばらく行われていない。京都にはまだまだ解明されない奇妙な行事や風習がいっぱいあるのだ。

 

65番 退蔵院  国宝瓢鮎図を鑑賞し思いに耽る

 

京都市右京区花園妙心寺町35

山号  妙心寺塔頭

宗派  臨済宗妙心寺派

開基  波多野重通、無因宗因(開山)

本尊  

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嵐電の帷子ノ辻駅で、本線から北野線に乗り換えて妙心寺駅に向かう。また、京都駅からはJR嵯峨野線花園駅の直ぐ前だ。妙心寺は、臨済宗の大本山の寺で、五山の下だが「算盤面」の名の通り山内は、石畳の通路を巡るあたかも寺内町の様相である。南総門から入りすぐ右手が「龍泉庵」だが普段拝観していない。まずは仏殿を挟んで反対側(西側)の退蔵院を訪ねる。妙心寺搭頭の中ではトップクラスの敷地を誇る。創建も古く、妙心寺創設後すぐの室町初期である。如拙作の日本最初の水墨画と言われる「国宝・瓢鮎図」が余りにも有名だ。レプリカが方丈の前で見られるが、前に広がる庭園も素晴らしい。西側の「元信の庭」も枯山水の石組の豪快な庭だ。暫く瞑想する人も多い。そして昭和の名園「余香苑」に行く。京都では重森三玲が有名だがここは中根金作の作庭だ。門を入ると紅垂れ桜の見事な枝が迎えてくれる。春の満開時に訪れればどんなだろうと想像する。そして左に「陽の庭」右に「陰の庭」とコントラストが楽しめる。瓢鮎図を意識したのだろう「ひょうたん池」の回りを巡る池泉回游式の庭園には、湧き水が池に流れ込む、その心地よい水落の音が耳に馴染みよい。なお、瓢鮎図は禅の公案を示すものであり、小さな瓢箪で大きななまずをどうして捕まえるか?31人の高僧が大真面目に答えている。さて、我々はどんな答えがあるのだろう。

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66番 東林院 沙羅双樹の庭 「諸行無常の響きあり」

京都市右京区花園妙心寺町

山号  妙心寺塔頭

宗派  臨済宗妙心寺派

開基  山名豊国  創建 細川氏綱

本尊  

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妙心寺塔頭をもう少し訪ねる。東林院は、妙心寺境内の東の端に隠れるようにして存在している。普段は拝観していなく宿坊として運営している。また、泊まらずとも精進料理の昼食がいただける。拝観のお目当ては「沙羅双樹の庭」である。御釈迦様が入滅した時、一斉に花開いたと言われる。一瞬に咲き一瞬に散ることで諸行無常の象徴となっている。水の流れ、祇園精舎の鐘の音とともに平家物語の冒頭の文章で無常の象徴で有名だ。

創建は細川氏綱で「三友院」として始まり、その後開基とされる山名豊国が「東林院」と改め、その後山名氏の菩提寺として続く。「沙羅双樹の庭」以外にも、「千両の庭」や「飛竜の宿り木」など狭い方丈内だが見どころは多い。

パンフレットには、「ただぼんやりする 何もしない贅沢があります」と書いてある。

67番 桂春院  一人で物思いに耽りたい庭園

 

 

京都市右京区花園寺ノ中町11

山号  正法山

宗派  臨済宗妙心寺派

開基  津田秀則

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妙心寺塔頭寺院は、通常拝観出来るのは退蔵院、大心院そしてこちら桂春院の3つだけだ。桂春院は、比較的新しい歴史で織田信長の長男信忠の次男、要するに信長の孫にあたる津田秀則が創建した見性院が始まりだ。寺の名前は父母の戒名から一文字ずつ取ったものだ。寺の経緯より、庭園の素晴らしさが特徴だ。清浄の庭、侘びの庭、思惟の庭、真如の庭とそれぞれ趣の違う庭園が楽しめる。方丈に茶席を設けてゆっくり観賞できるようになっている。筆者が伺った時はカップルが恋?を語っていたが、本来は一人で物思いに耽りたいものだ。

 

68番 源光庵  禅の窓・忠臣元忠の血天井

 

京都市北区鷹峯北鷹峯町47

山号  鷹峯山

開基  徹翁義亨 (復古堂)

宗派  曹洞宗

本尊  釈迦如来

別称  復古禅林

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さて、ここからは北区鷹峯を巡る。この辺りは、光悦村と呼ばれている。江戸時代初め京都の芸術家の頭目である本阿弥光悦は、家康からこの地を拝領し一大芸術村を構築した。源光庵の近所には、光悦寺と常照寺という寺院があるがいずれも本阿弥家の寺である。

光悦寺の方は、光悦の死後その庵を寺にしたもので多数の茶室と庭が楽しめる。筆者は、そのエントランスに注目したい。幅1mほど奥行き数十mの紅葉のトンネルを山門に向かう参道は、京都一の寺院エントランスだと豪語している。訪ねる寺は、まず源光庵。数年前に「そうだ京都に行こう。」のキャンペーンで紹介され一躍人気寺院になった。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」を通じて眺める四季の移ろいが楽しい。〇は、拘りのない宇宙であり純粋な悟りを現わし、□は、「生老病死」という人の根本的苦悩を現わす。本堂右横の庭園に向かってこの窓があり、そこに座ったり寝転んだり日がな一日過ごす。まさに贅沢な時間だ。秋の紅葉が一番人気だが、寒いが雪景色も一層趣深い。

寺の創建は室町時代で当初、臨済宗大徳寺派だったが、江戸時代に曹洞宗に改宗した。京都には数少ない曹洞宗寺院である。北山を借景とした枯山水庭園の苔むした趣が良い。「稚児の井」という古井戸からは今でも名水が汲める。

 元忠

しかし本当に注目してもらいたいのは、「血天井」だ。関ケ原の戦いに至る前段階で、家康は京都伏見城を出て奥州の上杉征伐に出かける(実は反石田勢力を徳川に味方させるため)。従って、その留守中に石田三成一派が伏見城を攻める事が予想された。留守居役の鳥居元忠の役目はただ一つ、時間を稼ぐ事だった。主力の兵を残そうとした家康に対して、「天下をお取りになる殿の為に・・・。」と、残兵は最小にするように進言した。彼は家康からの感状(戦場で手柄を後日保証する為その場で部下に渡す書状)を、私と殿との関係でそんな形式は不要だと拒んだくらいの忠臣である。その元忠はすでに死を覚悟していた。事実数十倍の三成勢に対して十二分に時間を稼ぎ、関ケ原での家康勝利を実現させた。後日、伏見城に戻った家康は、元忠始め自害した部下を丁寧に葬るが、床板にしみ込んだ血の跡は取れず、その為床を天井板にして長く弔う事とした。その寺院が京都には数か所ある。七条東大路の養源院、西賀茂の正伝寺、宇治の興聖寺、三千院近くの宝泉院、そしてここ源光庵だ。生々しいその血痕を見上げて欲しい。ぞっとする。(怖)

 

69番 常照寺 現世に未練を残す吉野大夫のゆかりの寺

 

京都市北区鷹峯北鷹峯町45

山号  寂光山

宗派  日蓮宗

開祖  日乾 本阿弥光瑳

本尊  三宝尊

別称  鷹峯檀林

 

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𠮷野門

常照寺は、本阿弥光悦の子の光瑳(こうさ)の創建である。しかし有名なのは、江戸時代伝説の遊女吉野大夫ゆかりの寺であることだ。遊女とは言え大夫クラスは芸能に長けた文化人である。吉野大夫は豪商灰屋紹益が身請けされ若くして亡くなった。美人薄命の典型である。入り口の山門は𠮷野門と言われ、大夫の寄進であり今でも朱色が鮮やかに残る。また、境内奥の茶室には「吉野窓」と言われる底辺がやや欠けた丸窓がある。完全な悟りの境地ではなく未だ俗世間に未練を残す女の情念が表されている。

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吉野窓

本堂正面には「鷹峯檀林」と大きな扁額がかかっている。実質開基の日乾(日蓮宗)がここを檀林(学寮)とした。今で言う学校である。「檀」とは、栴檀、白檀の檀であり香しい植物の事のようで、檀那の檀も同じ漢字だ。梵字で「ダン」を現わす文字としてよく使われる。一方、「壇」は、土を盛った拠点のような意味で、天壇など地名に多く出て来る。壇蜜は「壇」。檀ふみ・檀れいは「檀」なのだ。因みに、「庵」は「菴」でも良いが表千家の茶室「不審菴」だけは「菴」でなければいけない。また京都岡崎の山縣有朋の無鄰菴の「隣」は「隣」でも「鄰」でも良い。さらに斎藤の斎は、それぞれ本人に聞かなくてはならない。今熊野は新熊野でも(いまくまの)と読む・・・・。以上、読者には関心がない事を書いた。(泣)

 

 

70番 正伝寺

京都市北区西賀茂北鎮守菴町72

山号  吉祥山

宗派  臨済宗南禅寺派

開基  東巖慧安

本尊  釈迦如来

正式名 吉祥山正伝護国禅寺

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鷹峯から坂道を降りて、途中「お土居跡」を横に見ながら、玄琢下の交差点を北へ紫竹通りを5分ほど行けば、正伝寺山門に至る。「お土居」とは、秀吉が京都洛中を防御するために造った広大な堤である。市内には数か所その形跡が窺えるところがあるが、この辺りが北限ではないかと思う。いずれ詳しく書こうと思う。「玄琢」とは、江戸時代初期の医師であり医学研究者の野間玄琢の居住地であった為についた地名だ。特に徳川家光の疱瘡を診察し治した事で有名になった。映画「柳生一族の陰謀」(主役萬屋錦之助)では、家光役の松方弘樹はあばた顔で演じていたのは印象的だった。「夢じゃ夢じゃ、夢でござる。」の萬屋錦之助の名セリフが記憶にある。やや脱線した。

話は、正伝寺であった。正伝護国禅寺という正式寺名を持つ格式の高い臨済宗寺院である。創建時は、烏丸今出川にあったがすぐ現在地に移る。秀吉から家康の時代は塔頭も多く広大な敷地であったようだが、現在は山門から本堂へ500mほどの上り坂に往年の繁栄は感じない。建造物は一番奥の「鐘楼」と「本堂」までほとんどない。本堂直前の坂道はやや急だが、そこまではなだらかな上り坂を10分くらい歩く。見どころは、庭園と血天井だ。庭園は枯山水とは言え白砂とサツキで表わす「獅子の児渡しの庭」というこじんまりしたものである。7、5、3の刈込で河を母獅子が児を渡す故事を現わしているそうだ。以前、住職にその由来を詳しく聞こうとしたら、「喝!そんな小難しい事はどうでも良い。感じたままを感じるのだ・・・。」と一喝された。むしろはるか東方向に見える比叡山の山並みを借景にした風景を堪能したい。先日、雪模様の時に白銀の庭をしばらく眺めていたら、静寂の中、突然「喝!」本堂屋根から大量の雪が落ちてきて肝を冷やした。

血天井の説明は別項に譲る。こちらはなかなか生々しい。また襖絵は狩野山楽の作と言われ重要文化財だが、必見は「写経の観音様画像」である。本堂正面左の壁一面に慈悲深い観音様の画像が掲げてある。そして、前の机に虫メガネが置いてある。「何々?」と手に取って画像を見ると、描かれた線はすべてお経であった。米粒以下の小さい文字で延々と観音様が描かれていて、遠目には何の違和感もなく絵画のすばらしさに加え写経の根気には驚嘆しかない。先代か先々代かの御住職が描いたもののようだった。京都の寺院はこのような行く度に新たな発見があるものだ。

 

 


658 アチャコの京都日誌  自己責任

2019-10-25 08:36:16 | 日記

自己責任

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災害が多い。この度の台風被害につき一言いいたい。

被害にあわれた方大半にはお見舞い申し上げる。大半?例えば、超高層マンションにお住まいの方が、エレベーターの停止や断水により不便を被っているようだ。

また、二子玉川付近の浸水被害については、景観を重視しコンクリートの堤防建設に反対したのだそうだ。こちらはさすがに、表立って苦情は聞こえないが、高層マンションの件には同情の気持ちは出て来ない。

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高層がゆえにとても味わ言えない景観を得るために、一般よりも相当高い購入価格で買ったマンションである。庶民感覚からは、「富裕層」なのだろう。

当然、普段の備えを考えていなければならない。食品などの備蓄は勿論、エレベーターでの外出が出来ない事の想定は当然だ。その為の財力はある方達であろう。

避難所に非難をして来た方達の御不満も理解できる範囲と「我まま」な範囲がある。何でもかんでも行政に頼ると、すぐに不満になる。マスコミは、すぐに行政を批判する。

自己責任をこの機会に認識したい。自分が不幸にならないように・・・・。


657 アチャコの京都日誌  長く生きていると面白くない事が多い

2019-10-24 08:16:20 | 日記

長く生きていると、面白くない事が多い。

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学校の先生が、同僚先生をいじめていた事件だ。筆者は、以前から「先生」と呼ばれる方達の品性を疑っている。

 

政治家・医者・弁護士・芸術家・僧侶、そして学校の先生だ。以前の職業柄(元証券マン)それぞれの先生方について、その実態についてコメントしたいところだが、

誤解を覚悟で申し上げると、国家資格や選挙を経ると中には進歩をしなくても日々過ごせる職業だ。

圧倒的多数の先生方は、日々研削を重ねていらっしゃることも知っている。

しかし、小学校の先生は全く新しい知識を吸収しなくても出来る仕事だ。自らの守備範囲さえ押えれば事は済む。繰り返し言うが大半の先生は、苦しみもがいていらっしゃる。

残念ながら、一定のリテラシーを持った父兄たちはそのような学校に、大事な子供を預けない。地域性を十分に見極めるうえに、私立を中心に一部学校に人気が集まるのは当然の事だろう。

教育改革は急務ではあるが、今日明日に改善される期待はない。一方、自分の子や孫を守らねばならない。ある種の「合成の誤謬」であり教育格差は増々拡大する。

今後、外国人就労者の子供達も大勢いる地域もあり、幼児虐待のニュースに接するにつけて「教育」以前に「育児」すら当たり前に出来ない家庭もあるのだ。

経済格差の幅よりも数倍大きな教育格差が存在しているのだ。勉強どころか人道教育も行き届かない学校現場がある。心ある先生は多く「精神疾患」になる。


筆者は、経済的には最底辺にいた為、家庭での教育は全くなかったが、良い先生に恵まれ勉強した。(十分ではないが、)鉄拳も当たり前だったが、理不尽ではなかった。

叩かれる恐怖心は健全ではないが、「ならぬことはならぬ」のである。筆者の小学生5年時の先生は、「連帯責任」を徹底的に教えていた。クラスの誰かが行儀悪い行いをすれば、クラス全員が「鉄拳」を受ける事があった。

今なら、ハラスメント事件だが、時代がそうだったのだ。

最後に、十数年前からの筆者の意見提言を繰り返す。

『学校の先生は、企業人の中で特に優秀な人材が自薦他薦を含め、教師に就任する。従って、相当な高収入が約束されて、10年をめどに引退し企業に高いポジションで復帰する。』

世間の事情も知らず、世間に送り出す為に子供達を教育するのは、企業経験者にするのは当たり前だ。「世間知らず」の先生方に子供は預けられない。

この度の事件は刑事事件だ。何故加害教師の実名、顔を公表しない??

 

 

 


656 アチャコの京都日誌  即位 ③

2019-10-23 07:58:00 | 日記

もうちょっと「即位」について書く。

即位式(現代では「即位礼正殿の儀」と言う。)は、誠に厳粛なものである。しかし江戸時代以前には、厳粛ではあっても、もっとオープンなものだった。

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東山天皇即位図

皇室には、見せる儀式と、秘する儀式とがある。大嘗祭や正月の四方拝など神道の儀式は秘するのが原則だが、即位式などの御祝い事や大喪の例などの禁忌は庶民と共有していた。

即位式などは、驚くべきことに宮中に自由に出入りし共に祝っていた。現在の京都御苑(その中の御所を禁裏と言う)の道端にはござを敷いて民衆が見物していた。

見物人は、上級公家が前を通ってもその日は礼をしなくても許されたかも知れない。もしかしたら出店も出て商売する者もあったかもしれない。

禁裏内には入場を許された一定の庶民が、高御座を拝しお祝いをしていたのだ。昨日のテレビ中継で、「幡」と呼ばれる「旗」が左右に配された中庭に、好天であれば古式ゆかしく雅楽団が勢ぞろいしたはずだが、その後ろに一般参詣者が見物している様子を想像してもらいたい。中には、弁当を広げたり、ぐずる赤ちゃんに授乳する母親の姿も古い絵に残っている。

天明の飢饉の時には、禁裏周辺を何度も巡り、あたかも天皇を神様のように拝み賽銭するものが数万人に及ぶ事件もあった。「御所千度参り」

その様に、明治以前は皇室と庶民の距離感は、現代とは全く違う様相であった。警備上の問題はあるが、庶民が儀式空間を共有できる工夫があっても良いのではないだろうか。

筆者は、その様な機会があれば参加したい。間違いなく恐れ多くて涙が出るだろう。