アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

998回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」53

2023-03-30 08:28:26 | 日記

第4章 光格天皇 皇室史上最大の危機?

 

①         傍系からの天皇  「不測の天運」による即位

  光格天皇 衣奈塚(上京区 清荒神)

 

 

 江戸時代の天皇は、108代後水尾天皇以降、幕末の121代孝明天皇まで、皆さんは何人の天皇をご存知だろうか。この間、皇室は「禁中並公家諸法度」に縛られて幕府の言うがままに、細々と血統を継いで来た。従って、庶民とは関係なく御所奥深くに政治的には全く無意味であったというのが定説だ。

しかし、江戸時代の天皇の課題は、応仁の乱から戦国時代に多くを失った宮中における「朝議」の再興への戦いであった。「大嘗祭」という天皇即位時の新天皇の神秘性を獲得する為に欠かせない大変重要な儀式でさえ、実に1466年以来200年以上途絶えていた。なんとか貞享4年(1687年)になって東山天皇により復活した。しかし、これは十分なものではなく古式に則った本格的なものには程遠かった。それでも、葵祭などの各寺社の例祭などもこの時期に多くが復活している。しかし、幕府の財政的援助がなければできない事であり、そこに「武士との戦い」があったのである。

 そこで「血統の維持の為、武士と戦った天皇たち」で最後に紹介するのは、その戦いで勝利した天皇である。

その主役、光格天皇の即位も普通ではなかった。江戸時代も後期に入る宝暦12年(1762年)116代桃園天皇が崩御した時、皇太子の英仁親王(後桃園天皇)が幼少であった為、姉の緋宮(117代後桜町天皇)が江戸時代二人目の女帝としてつないだ。英仁親王の成長を待って、明和8年(1771年)118代後桃園天皇が即位する。しかし、後桃園も在位8年22歳で早世する。ここで、長く繋いできた皇統が断絶の危機をむかえる。しかし皇室は、予めこのような事態を想定して親王宮家を創設していた。それは、113代東山天皇の御代に、「正徳の治」で有名な政治家新井白石の進言で、新たに閑院宮家を創設していたのだ。その2代目当主典仁親王の王子が候補にあがった。祐宮(さちのみや)という119代光格天皇の登場である。安永8年(1779年)天皇9歳の時であった。典仁親王の6番目の男子であった祐宮は、兄弟のほとんどがそうであるように、すでに門跡寺院である聖護院に入ることが決まっていた。まさに「不測の天運」による登極であった。

光格天皇 - Wikipedia光格天皇

 この光格天皇にとって幸いだったのは、まず後桜町上皇という存在である。再従姉弟という関係になるが、女性であり所謂「院政(治天の君)」というものではなかった。また、当時の関白九条尚実は非常に高齢で出処も適わないほどであった。また、それを継いだのが光格天皇にとって実の叔父の鷹司輔平であった。(父典仁親王の実の弟)そのような事から、天皇は即位後若くして遠慮することなく、自ら親政を行う環境が整っていた。

しかし、即位後すぐ数々の事件が起こる。この当時、天明の大飢饉の最中でコメの急騰による社会不安の真っただ中であった。ここでさっそうと青年天皇が登場するのである。


997回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」52

2023-03-28 10:11:38 | 日記

⑧         付録 天皇ゆかりの京菓子   中村軒 「麦代餅」

 

麦代餅  

後水尾天皇の項で書いた八条宮智仁親王は、「桂離宮」の造営で有名だ。後水尾天皇は叔父である智仁親王の「桂離宮」を参考にして、「修学院離宮」を造ったのであろう。智仁親王は、正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。後陽成は譲位してこの弟に即位をさせたかったのだが、智仁親王は以前豊臣秀吉の猶子となった事があり徳川から拒否されたのである。その後、八条宮家(桂宮家)を創設したのだが、政治的な苦労が多く。晩年は離宮造営に没頭したのである。

その桂離宮のすぐ南、八条通りと桂川の交差する西南角にある「中村軒」の「麦代餅」を紹介したい。店先には、峠の茶屋風に吹き流しのれんがかかっている。ガラス張りのカウンターには、紅白饅頭やお餅に加え、赤飯や粽などの定番のものが並んでいる。また、奥の間では観光客など団体さんにお茶を振舞っている。もちろんそこで食べて帰る人も多い。

中村軒

麦代餅は、素朴な菓子で、甘い粒あんを柔らかい平べったい餅で包んで特製のきな粉をまぶしたもの、甘いけれど上品な後味の餡ときな粉の風合いが実によく合う。適度に柔らかいお餅が歯に心地よい。お店は明治初期の創建だが、麦代餅は昔から近所の農家の田植え時期のおやつ・昼食代わりに食べていたようだ。その時には代金をもらわず、農閑期を終えた夏になって麦を代金代わりにもらったらしく、その名の由来になった。庶民発想の素朴なお菓子である。お店の独自の名物は、「かつら饅頭」で、これも落ち着いた味わいがうれしい。桂離宮散策の帰りには是非買って帰りたい。

智仁親王も麦代餅を食したのだろうか。もともと下桂のこの周辺は八条宮家の領地であった為、山荘造営以前から度々来遊していたと、自身の日記に書き記している。当然、行き帰りに庶民の様子を垣間見ただろうし、後水尾天皇からも一目置かれた人格豊かな親王なので、造営時には地元民の協力を得たことだろう。何かのひと時、庶民と麦代餅を一緒に食べている風景を想像して見た。


996回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」51

2023-03-25 07:24:52 | 日記

⑦        天皇ゆかりの寺院  戒光寺 後水尾天皇の身代わり

 

  写真 戒光寺 丈六さん

戒光寺 丈六さん

 

東山区泉涌寺山内町29

正式名 泉山 戒光律寺

別称  丈六さん

宗派  真言宗泉涌寺派

本尊  釈迦如来

開基  浄業

戒光寺は、泉涌寺参道の第一山門から数分歩けば左手に見える。筆者は何度も見逃してしまったので、注意して訪問したい。拝観寺ではないので本堂に上がるには勇気がいる。古いガラス扉を開けると巨大な釈迦如来像が迎えてくれる。鎌倉時代に運慶・湛慶の親子が彫った丈六の像である。2023年3月現在、本堂は大屋根の改修で覆いが掛かっている。ご住職にお伺いしたところ一年かかって間もなく完成との事、改修前の瓦は江戸時代初期の当地への移転当時のもので瓦自体が歴史を物語っている。丈六とは仏の正確な身の丈である一尺六寸(4.85m)の仏像の事だ。当初は大宮八条にあり、洛中を転々としたあと後水尾天皇の発願により泉涌寺の塔頭寺として現在地に移転した。素朴ながら厳粛な本堂の中で、圧倒的存在感の釈迦如来を拝む。この仏像は、「身代わりの丈六さん」と言われる。

実はこのような話がある。後水尾天皇は東宮政仁親王時代に皇位継承の争いに巻き込まれていた。ある日寝室で就寝中、暗殺者に寝首を掻かれた。ところがその時、このお釈迦様が身代わりになって自らの首を切らせたと言う。朝になって見ると確かに、仏像の首には血痕が残っていたのだと言う。現在もはっきりと血の滴りの痕跡が見える。後水尾天皇は積極的に即位の為に動いたわけではなかった。それでもこのような話が残っているのが面白い。先のご住職に聞くと、仏像の頭部分は別に造られた可能性があると言う。従って血痕の残る首の部分に木材の樹液などが出たのかもとおっしゃる。とにかく大きすぎてエックス線照射などの検査が出来ない。しかも近所に幼稚園があり未だ決断できない、その為国宝指定でもおかしくない仏像だ。さらにこのお釈迦様、正面やや左を向いている。ご住職に聞くと京都御所の方向に向いているのだと言う。なお後水尾天皇をお守りしているのだ。訪れる人は余りないが、歴史マニアには見逃せないお寺だ。このような素朴なお寺にも是非立ち寄りたい。

納経所にご住職がいらっしゃればお聞きできる四方山話も貴重だ。


995回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊿

2023-03-24 08:51:52 | 日記

⑥         お二人の晩年  京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社は数多い。

 

修学院離宮】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet修学院離宮

 

後水尾上皇は、譲位した後は健康も回復したのか、魅せられたように自由に活動している。一番目立つのは修学院への行幸である。岩倉、幡枝御所を中心に離宮建設場所を求めてしばしば訪ねている。平安の昔、嵯峨天皇が、嵯峨野に隠棲の地を定め、後に門跡寺院である大覚寺という官寺を建設したのと同じ構想をもっていた。慶安4年(1652年)、徳川家光が没すると独断で「落飾」し法皇となった後水尾は、この地を仏道の拠点と考えていたのかも知れない。寺院の建設は実現しなかったが、現在も見学希望者の絶えない「閑放の地」を立派につくりあげた。

修学院御幸の時は、必ず東福門院を伴っていた。この徳川和子について、前出の熊倉功夫氏『後水尾天皇』には、「むしろ庶民にこそ受け入れられた。」と書いている。莫大な財力をバックに、派手好みとして巷にも噂の和子は、尾形光琳の実家である呉服屋「雁金屋」から膨大な衣装を注文していた。「御所染め」と言われ、中宮和子は京都に於けるファッションリーダーとなっていた。武家出身だがむしろ庶民の憧れの的とされ、和子に最初の皇子が誕生した時には、町の人々のお祝いの踊りが市中から中宮御所にまで繰り広げられたという。戦乱の世が治まり、公武合体が庶民にも好ましく思われたのだろう。

また、36名にも及ぶ後水尾のお子達の良き母親でもあった。特に、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と他の女房からの所生とは言え、3人の天皇をすべて自らの子として即位させている。幕府に遠慮したり、経済的に不自由することの無いようにとの深い配慮である。最も象徴的なのは、先にも書いたが、およつ御寮人の子である梅宮(文智女王)との交流である。門跡寺院円照寺を、修学院離宮造営にあたり大和(奈良)に移転するにあたっては、誠に手厚く配慮している。一方、梅宮の方もその好意に深く感謝の気持ちを伝えている。そして、その梅宮は東福門院の臨終に際して寝所近くに侍り見送った。延宝6年(1678年)東福門院和子72歳の大往生であった。

水尾 - Wikipedia京都 水尾

そしてそのあとを追いかけるように、同8年(1680年)後水尾法皇も臨終を迎えていた。長く生きることが、幕府への最後の戦いだった。暑気あたりからの衰弱と伝えられるが、中宮和子同様老衰による大往生というべきだろう。85歳の長寿は、昭和天皇が超えるまで最長寿天皇であった。昭和天皇のおっしゃった通り「(寿命や医学の発展など)時代が違う。」ことを考えると、別格の長寿と言わざるを得ない。これで、幕府と正面から戦う天皇はしばらく出て来なくなる。清和天皇の追号を希望して「後水尾」としたのはご本人の「御素意」である。


994回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㊾

2023-03-22 10:55:33 | 日記

⑤ 東福門院和子との関係  恐ろしや高貴な「血の戦い」

徳川和子 - Wikipedia東福門院

 ここで、後水尾天皇の皇子・皇女を、お相手ごとに羅列する。A~G7名の方々から36名のお子様を生ませておられる。もちろん記録に残るものに限られる。腫物に悩まされるもののすこぶる健康な天皇が、多くのお子を成すのは大変結構な事だ。高貴な方達の重要な役目の一つが「生殖活動」である事は何度も書いて来た。しかし、不自然ではないか。健康な男子であれば生殖に最適な年齢は、10代後半から20代前半である。ところがおよつ御寮人事件の四辻与津子との間の2名以外には、20代のみならず譲位するまでは、その中宮徳川和子との間しか子がいない。女性に興味の薄い天皇ではない。上皇となって多くのお子を作っている事から見ても晩年までお元気でいらっしゃる。まことに不思議なことだ。幕府に遠慮して、在位中は側室を持たなかったのか。あるいは・・・。

そのあたり、熊倉功夫氏『後水尾天皇』中公文庫(第3章寛永6年11月8日譲位)には、細川三斎(忠興)が当時の世間の噂を息子の忠利に書状で書き送った内容を紹介している。なんとその中に、衝撃的箇所があった。後水尾の退位の理由を縷々書いているのだが、「御局衆のはらに宮様たちいかほども出来申候を、おしころし、または流し申し候事」という。つまり、隠れた(言えない)理由として、天皇の中宮以外の女官に出来た皇子が殺されたり流されたりしていたというのだ。つまり、徳川家の直系の子以外には決して皇統を継がせないという事である。文面からは複数のお子が処分されたことと思われる。そのあたり前出の川口氏の小説には、四辻与津子との間にできたお子も毒殺された事を示唆している。

 確かに、女帝である女一宮(明正天皇)という徳川家の血筋が即位してからは、猛烈な勢いでお子を成していらっしゃるのだから、噂とはいえあり得る話である。一方、それでも和子との間に2名の男子が誕生している。しかし、二人とも早世である。これも不自然ではないか。成長したのはすべて皇女である。偶然なのか。徳川家と朝廷のどす黒い戦いがあったのである。後水尾天皇は今までの天皇と違って武力は行使できなかったが、皇室の血統を守る為ものすごい戦いを行っていた。

 ただ、救いはお二人が、「琴瑟相和す」関係であったのだろう。中宮和子との間には計7名のお子が出来ている。前出の小説でも、初夜に早くも天皇は警戒心を解き、その純粋で無垢な人柄に魅了されたとなっている。確かに今に残る和子の肖像を見ると、可愛いお顔をされている。また教養にあふれ京都の多くの寺院の再興にも努めている。さらに、東福門院(和子)臨終の折りには、枕頭にはおよつ御寮人の子文智女王がいたという。なぜかホットする話だ。それにしてもげに恐ろしや高貴な「血の戦い」というものは。

後水尾天皇 - Wikipedia 後水尾天皇

資料 後水尾天皇(上皇)皇子・皇女一覧(A~Gのお相手別、出生順に記載)

A中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678)

B典侍:四辻与津子(?-1638)

C典侍:園光子(壬生院)(1602-1656)

D典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685)

E典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677)

F典侍:四辻継子(権中納言局)(?-1657)

G宮人:水無瀬氏子(帥局)(1607-1672)

 

以下、アルファベット後の数字はお子の誕生時の後水尾の数え年齢

B23第一皇子:賀茂宮(1618-1622)

B24第一皇女:文智女王(1619-1697)円照寺

和子入内

A28第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)

A30第三皇女:女二宮[注釈 1](1625-1651、秋月院妙澄大師)

A31第二皇子:高仁親王(1626-1628)

A33第三皇子:若宮(1628)

A34第四皇女:女三宮昭子内親王(顕子内親王)(1629-1675)

譲位後

D36第五皇女:理昌女王(1631-1656) - 宝鏡寺宮門跡

A37第六皇女:女五宮賀子内親王(1632-1696) - 二条光平室

C38第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)

D38第五皇子:某(1633)

A38第七皇女:菊宮(1633-1634)

D39第八皇女:光子内親王(1634-1727)

C39第六皇子:守澄法親王(1634-1680) - 初代輪王寺宮門跡、179代天台座主

G40第九皇女:新宮(1635-1637)

C42第十皇女:元昌女王(1637-1662)

G42第七皇子:性承法親王(1637-1678) - 仁和寺御室

D42第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)

D44第九皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡、東寺長者

C44第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)

D45第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)

E45第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)- 181・184・187代天台座主

C46第十三皇女:桂宮(1641-1644)

D46第十四皇女:理忠女王(1641-1689)

E47第十五皇女:常子内親王(1642-1702) -近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母

D48第十一皇子:穏仁親王(第3代八条宮)(1643-1665)

F50第十二皇子:尊光法親王(1645-1680) - 徳川家光猶子・知恩院宮門跡

D52第十三皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡、園城寺長吏

E54第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706) - 一乗院宮門跡、興福寺別当

F56第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680) - 183・186代天台座主

E56第十六皇子:尊證法親王(1651-1694) - 182・185代天台座主

F59第十六皇女:文察女王(1654-1683)

E59第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)

E62第十七皇女:永享女王(1657-1686)

 

※         熊倉功夫氏『後水尾天皇』118頁と、インターネット情報などを参考に筆者作成