アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

1009回 あちゃこの京都日誌 61回 新天皇国紀 

2023-04-28 08:33:04 | 日記

⑦         譲位後の院政と追号・諡号  その③

松平定信(江戸時代) | 日本の歴史を分かりやすく解説!!松平定信「寛政の改革」

・この章の最後に象徴的エピソードを書く。光格天皇譲位後、文政10年(1827年)に将軍家斉が太政大臣に昇進している。その時の仁孝天皇の「御内慮書」が残っている。それには、「徳川家斉の文武両面にわたる功労はぼう大である。」とし、将軍在位40年に及ぶあいだ、「天下泰平を維持し、将軍の徳はくまなく行き渡っている。」と称え、その功績を理由に、武官の長である征夷大将軍に加えて、「文官の長である太政大臣に任じたい。」とした主旨を書いている。歴史上はじめて生前に幕府将軍職と太政大臣をともに給わるという栄誉である。これを見れば、誰が読んでも朝廷が幕府に申し入れ、それを受け入れた結果としか思えない。しかし、近年の研究で事実は、将軍家斉が天皇・上皇に「おねだり」したもので、しかもあくまでも朝廷が決めたことにして欲しいというものであったことが分かった。さらに、一度は、「御辞退これあるべし、再応のうえ御請け」と、ご丁寧に一度は「断る振り」をすることまで打ち合わせしている。家斉が、「随分と遠慮がちな、謙虚の美徳を備えた人物」と見えるようにしたのである。重要なのは、この結果、朝廷が幕府に恩を売ったことになり、その後幕府から経済的援助や新たな朝議の再興を引きだすことに成功し実を得ていることである。これは光格上皇から仁孝天皇の時代には、すでに幕府と対等かむしろ有利な駆け引きを行っていることを示している。「御所千度参り」の時に、恐る恐る幕府の機嫌を気にしながら交渉した時とは、大きく朝幕関係は変化している。

刀剣ワールド】光格天皇今上陛下の皇統へ

このように光格天皇の戦いは、武力を行使せず、したがって死者が出るわけでもなく静かに深く続いて来た。遂に朝幕関係を逆転し幕末の朝廷主導の政治体制への画期となった。そして、現代に続く朝廷の儀式や習慣の復興と新常識を構築した。言うまでもなく血統としても今の皇室の直系の祖となっている。上皇という地位や儀式も現平成上皇陛下が見習ったことは間違いがない。我々は、後桜町天皇と光格天皇という偉大な二人の天皇の、人徳と戦略のお陰で皇室の存続と発展がなされた事を知らねばならない。


1008回 あちゃこの京都日誌 60回 新天皇国紀 記念号

2023-04-27 09:31:36 | 日記

⑦         譲位後の院政と追号・諡号 続き

諡号」(しごう)の意味桓武天皇 光格天皇 光孝天皇など

追号」(ついごう)の意味白河天皇 清和天皇 冷泉天皇など

 

・光格天皇の本当の最後の戦いは、天皇号である。ここでは諡号と追号、天皇号と院号を理解せねばならない。まず、桓武とか光格、光孝というのは、諡号であり生前の功績を称えた言わば美称である。一方、追号は、醍醐・冷泉など天皇に因む地名などをつけたもので美称ではない。例外的に、崇徳や安徳のように怨念を生む懸念があった場合には特別な尊号を贈った例がある。しかしいずれも院号であり天皇ではない。村上天皇を最後に子の円融院からは、単に院号を贈っている。その後この時(光格)まで、諡号も天皇号もなかったのである。我々は便宜的に、後醍醐天皇とか後水尾天皇とか言っているが、当時では後醍醐院、後水尾院と言っていた。その意味では極位にありながら、国民の戒名と変わらず院号だったのである。因みに、将軍家斉は「文恭院」であり将軍も天皇も同じだ。

仁孝天皇

実際は、子の仁孝天皇が贈ったものだが、光格上皇が生前からその復活を強く望んでいたことは間違いがない。当たり前に使っている天皇号だが、平安時代後半以降、鎌倉・室町・江戸時代と使用されていなかったことを考えると非常に大きな功績である。なお、光格もそうだが、仁孝など文字自体に意味はない。年号と同じである。また、現在は年号と天皇号の名が同じなので、諡号というべきかと思う。今回のコロナ騒動で、改元の議論が出ているが天皇の諡号と共に議論すべきである。


1007回   あちゃこの京都日誌  59回 新天皇国紀

2023-04-26 08:15:56 | 日記

⑦         譲位後の院政と追号・諡号

高校日本史B】「院政」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

白河上皇が始めた「院政」

・光格天皇は、文化14年(1817年)に譲位し上皇となった。すでに47歳となっていたが、さらに23年間、院政を行う。光格天皇の復古活動の締めくくりは、院政の復活だった。しかし、平安の昔に白河上皇が始めた「院政」であるが、正しくは院庁(いんのちょう)を設けて朝廷政治の主たる決定権を発揮するものである。ただ、光格院政は全く違うものであった。現代に例えると、以前の院政は「代表取締役会長」のようなもので、社長は引退したものの会長室ですべての施策は決定するものである。一方、光格上皇の院政は、「代表権のない相談役」と言うべきだろう。重要事項については天皇から相談を受けるが、成人した子である仁孝天皇があくまでも朝廷政治の主導権をもっていた。ただ、在位が長く圧倒的存在感の光格上皇には自然に多くのことが事前に相談された。そういう意味では実質的には決定過程に関わっていた。しかしあくまでも統治権は子に譲っていた。

顧問とは?役割、報酬の相場、役員や相談役との違いを紹介 | ZUU ...

光格天皇が目指した院政は「相談役」?

では何故、院政にこだわったか。一つは現代で言う定年としての天皇の引退を重視したこと、またさらに文化的復古活動に専念したかった、などが考えられる。

また、修学院離宮にしばしば行幸し、後水尾上皇の遺徳を偲びながら余生を楽しんでいる。残念ながら、その後自らの意志で天皇位を譲位し上皇になる例は、今上天皇(令和)の父君である平成の上皇まで実現しない。そして、遂に天保11年中風の発作が原因で崩御する。後水尾上皇には及ばなかったが、70歳の長寿を全うした。

しかしまだまだ戦いは続く。


1006回 あちゃこの京都日誌  新天皇国紀 58回

2023-04-25 12:43:43 | 日記

⑥         朝儀復興と文化的継承への戦い  天下万民を先とし

源氏物語・紫式部ゆかりの地・蘆山寺(京都)を訪ねる|「生命と ...京都蘆山寺

 

話を本題に戻す。このように光格天皇の即位直後の3事件を通じて、天皇が幕府と対等の関係を獲得していく過程がよく分かった。つまり天皇の戦闘能力の向上とも言える。

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一つ象徴的なエピソードを書く。当時、松平定信の「寛政の改革」の『節約令』は朝廷にも影響していた。しかし、「この節、御省略の儀仰せ出さる。」と、ある公家の日記に書かれてあるように、幕府に関係なく朝廷では光格天皇の判断で倹約に努めていた。従って寛政2年、幕府の指示が来た時も関白始め側近は、「恐れ多い」として伝えなかった。翌寛政3年になって幕府から一定の成果が出て余剰が発生したとして、「給物(たまわりもの)」を配ると言って来た時、これを聞いた光格天皇は、「幕府の指示で倹約したのではない。」と、激怒し「会釈(えしゃく)」(褒美)はあり得ないとした。関白がこれを京都所司代に伝えたところ、時の所司代は大いに恐縮し切腹もあり得ると覚悟した。それを聞いた天皇は、憐憫の情をもってかろうじて受け取りを許した。結果、所司代は自らの不行き届きだとして、「以降このような時は事前に相談してから行う。」と約束している。この事は、大きな意味がある。光格以前にはあり得ない事で、すでに天皇の意向を無視してはならない空気感が幕府にあった決定的証(あかし)である。まことに痛快な逸話である。

そして、この頃から譲位するまで、多くの「朝儀再興の戦い」に勝利を続ける。まず、大嘗会の復古復活だ。新天皇の即位後最初の新嘗祭である大嘗会は、天皇の神秘性を獲得する朝廷では最も重要な儀式である。東山天皇の時代に復活していたが、十分に古式に則ったものではなかった。それを一層復古復活したのである。当然、莫大な資金援助を幕府から得なければ出来ない事である。また、石清水八幡宮と賀茂社の臨時祭の再興などを果たしているが、これは応仁の乱以降全く途絶えていたもので、このように100年・200年を経て再興した儀式は枚挙にいとまがない。いずれも、朝廷自らの権威を高める為のものだが、根底には「国家と人民の安寧」を願ったものであることは間違いない。

そのような光格天皇の君主意識は、ある時に後桜町上皇が訓育の為に何事か教訓を与えた時の返書に現れている。「仰せの通り、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候(中略)何分自身を後にし、天下万民を先とし」と幾度も天下万民を意識している。女性であり人徳豊かな上皇の教えは重要だが、光格天皇自身のこの様に強い君主意識はどの様に構築されたのだろうか。

◇会報第64号より-04 光格天皇の生母 : Y-rekitan 八幡

因みに、閑院宮典仁親王と実母磐代君という血筋でつながったお二人の両親の人間性を調べてみた。資料は少ないが、誠に孝行心の篤いDNAを感じる。典仁親王にとって尊号事件は、当事者である。それにも関わらず一切発言は残っていない。その他政治的影響力を発揮した形跡もない。自分の子ではあるが時の天皇への配慮を強く感じる。ひたすら文化的継承に努め、親王宮家の血統の維持に努力した人生であったようだ。なお、明治維新後、尊号を与えられて長慶天皇という。また、実母磐代君(いわしろぎみ)は倉吉の出身で身分は低い為、形式上の母は後桃園天皇の皇后近衛維子とされ長く歴史上の記録からは消されていた。しかし「大江磐代君顕彰展 図録」 (倉吉博物館)  にわずかに残る「手書きの書状」には、自らの母や子に対しての細やかな気遣いが伝わる豊かな人格がうかがえる。また、皇室につながる子を産んだことへの戸惑いを述べている。一方で幼くして亡くなった他の子への悲しみを控えめではあるが伝える母の愛情を強く感じる文面である。地元倉吉では、国母として神社に祀られている。一方、光格天皇は、崩御後、生前親孝行も出来なかったからと、両親の眠る蘆山寺に自らの位牌も並べるよう遺言している。

 そして、光格天皇の戦いは譲位後さらに崩御後も続く。


1005回 あちゃこの京都日誌  57回 実録小説  爆笑必死

2023-04-24 09:14:58 | 日記

⑤         架空実録小説  「相談役一件」 ここまでの話を現代の会社組織にあてはめて見た。

 

登場人物 ①有限会社朝廷 社長 光格 

専務 輔平 

社長実父 典仁 

相談役 後桜町(女性)

       ②株式会社徳川 社長 家斉 

常務 定信 

社長実父 治済  

 

 成り上がりだが老舗の徳川株式会社は、前政権で一代で急成長した太閤株式会社を乗っ取り、あろうことか日本最古の伝統的な有限会社朝廷を買収し子会社とした。古代からの巨大財閥への影響力や重要な伝統と文化を担う(有)朝廷は、権威はあるが権力はなく生産性は全くない。つまり赤字経営が常態化しているのだ。朝廷の財政は(株)徳川が担っているが、芸能や儀式に精通した朝廷からは、財閥の継続と権威向上の為、次々に要求が来る。幕府にとって誠に難しい対応が続いている。

 一方、徳川も創業時の勢いはなく売り上げ低迷と、創業家の無駄遣いが過ぎて倒産の危機を迎えていた。朝廷を資金援助する余裕はない。しかし朝廷を利用することで、成り上がり企業の正当性を主張して来た為、両者はある意味持ちつ持たれつの関係でもあった。 昨年、朝廷の本社社屋が火災で焼けた時も、旧社屋よりも巨大なビル建設をしぶしぶ認めたのもそのような微妙な力関係の中で決断したものであった。

 徳川の常務取締役の定信は、相手の朝廷専務取締役の輔平と、幾度も会談を繰り返し以下のような密約を交わした。①本社社屋再建は認めるが、社長室や役員室の設備は極力質素にすること。②今後、それ以外の財政的援助はしない事。③そのような動きが見えたらお互いのホットラインにて事前に知らせる事。以上の三点を約束した。お互い若い社長を補佐して来たものの、徐々に社長の成長・自立により、世代交代のなか二人とも会社における居場所が無くなりつつあった。

 遂に、輔平専務の方が、解任された。その上で、光格社長の実父を社長経験がないにも関わらず、相談役にさせろと言って来た。役員会の席次が専務や常務よりも下位の席に父親を座らせるのが耐えられないと言う。父親は、創業家(朝廷)とは言え傍流の家で、主に文化的活動に専念し経営実績はない。また、本人にもその意欲もない。

 徳川でもすぐ大いに話題になった。難しいのは、徳川でも同様の問題があり、社長の家斉は前社長の養子である。実父の治済は本家を出て、のれん分けした一橋家を相続していた。その治済は自身代表権のある会長として、徳川本家の会長室に入ることを狙っていた。相談役は実権を行使する事はないが、会長となれば社長である息子を自由に操る意図も見え隠れする。

 そのような複雑な事情から、朝廷の典仁相談役就任は何としても阻止したい定信は、相手の元専務輔平に密約を盾に執拗に脅しをかけた。当然、輔平にたいしては相応に賄賂と引退後の生活の保障を約束していた。輔平の方も自分より若い朝廷役員が、我がもの顔で光格社長を操るのは許しがたい事であった。自分の方が血筋は社長に近いのに学閥の低いサラリーマン役員の跋扈はプライドが許さない。輔平元専務にすれば、光格社長も幼い時は、自分や叔母の後桜町相談役に頼って来たのに今や自分の思う通り経営を行っている事に反発をつのらせていた。

 そのような事情についても、徳川の定信の方も同様で、若社長が就任した時は「社長心得17条」を上程したほどだったのに、こちらも自分の判断で経営をやり始めた。才能の豊かな定信がそばにいると、社長の判断でも世間は定信のアイデアだと思うのだ。それは定信にも辛いし、成人した社長にはもっと耐えがたい事となっていた。

 遂に、光格朝廷社長実父の高齢を理由に、相談役就任の期限を通告してきた。しかも徳川が許可しないと、重要な株主総会を行わないと無理を言って来たのだ。もはや一刻の猶予もなくなった徳川の定信は、朝廷の役員の更迭と、実父にたいしては、相談役就任を自ら辞退するよう強要してきた。光格社長もここまで強く出られたら断念せざるを得なくなった。折れれば子飼いの役員の更迭は許されるものと思っていた。

 しかし、自分が専務を更迭されたことに納得していない朝廷の輔平の幕府への讒言は凄まじく、光格取り巻きの役員の実態を細かく密告していた。相談役一件(一連の事件)の主犯格の役員の名前まで詳細に報告されていた。役員更迭の場合、通常は、子会社であっても伝統ある朝廷の場合、事前に知らされるのが慣例だったが、それを無視して定信は一気に更迭をした。しかも本人たちを徳川本社に呼びつけて断行した。

 光格社長の歯ぎしりが、聞こえてきそうな事態であった。ただ、この事は朝廷に同情の風潮を生み、世間には、父の相談役就任が実現したような実録小説が出回る始末だ。世の中は朝廷の復権が、日本財閥の復活には欠かせないとの考え方が台頭しつつあったのである。十数年後、実際徳川は、京都の二条城営業所内部の大部屋で朝廷に経営権(大政)を返上(奉還)した。朝廷社長は孝明社長から明治社長へとなって行く。これを明治維新という。(笑)