アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

650 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  31番~40番

2019-07-31 09:55:55 | 日記

40番まで一気に紹介する。


31番  三室戸寺 室町幕府が事実上滅亡した場所にある寺

 

京都府宇治市莵道滋賀谷21

山号  明星山

宗派  本山修験宗別格本山

本尊  千手観音(秘仏)

開基  光仁天皇

「三室戸寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

さらに南に向かうと宇治市に入る。京阪宇治線三室戸駅かJR宇治駅からさらに徒歩10分以上歩く。駅は(みむろど)寺は(みむろとじ)と読む。ここから宇治・山城方面は自家用車やタクシーの移動が便利だ。

参道は長い上り坂で10分以上歩く。すると蓮の花咲く庭園の向こうに広大な本堂がある。三室は御室であり光仁天皇(桓武天皇父)勅願のお寺である。御本尊は千手観音でその胎内に蓮の花が転じて出来たと伝わる小さな観音像を納めてある。完全秘仏なのでお前立を拝む。お前立は2臂だが千手観音像という。本尊は秘仏の為文化財指定は受けていない。京都にはこのように秘仏の為文化庁の査察を拒んでいるが故に国宝級でもその指定を受けていない仏像は多い。また、阿弥陀堂は親鸞聖人の父日野有範の墓跡に建てられたもので阿弥陀三尊像の脇侍は三千院同様「大和座り」である。大和座りとは、正座でやや腰を浮かしているもので、衆生の願いにすぐ対応する為だと解釈されている。

参詣後は、「与楽園」という池泉回遊式庭園をゆっくり巡ることにする。季節ごとにシャクナゲ、アジサイ、ハス、そして秋は紅葉も鑑賞できる。蓮の季節には「はす酒を飲む会」が催される。その日は、蓮の葉に酒を注ぎ茎から飲むのである。

さて、この寺は室町幕府滅亡につながる有名な合戦の地である。織田信長に導かれ上洛を果たした足利義昭が裏切って、幕府復権を狙って仕掛けた合戦である。二条城で宣戦布告した時は、8000以上の兵力を持ち侮れない存在であったが、ここ三室戸寺や槙島の地に逃げて来た時は圧倒的な信長軍団の前に降伏し、その後瀬戸の鞆の浦に落ち延びたが、事実上この地で幕府は滅亡したのだ。

因みに、本堂前には「貴乃花・若乃花の運勝手形」がある。残念ながら現在はご利益には期待が持てないが、やはり庭園が見どころの名刹である。たっぷり時間がある時にまた伺いたい。

 32番 興聖寺  京都には少ない曹洞宗寺院

 

宇治市宇治山田27

山号  仏徳山

宗派  曹洞宗

本尊  釈迦三尊像

開基  道元  

中興  永井尚政

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

興聖寺は宇治橋東詰めから「さわらびの道」を南下し数百m歩くと左に総門が見えて来る。北方に真っ直ぐ伸びる参道は、「琴坂」と呼ばれ宇治12景に選ばれている。一点射線の見事な絶景で

ある。京都には数少ない曹洞宗の寺で、道元は最初にこの興聖寺を創建したが、比叡山からの弾圧が強く越前永平寺にのがれた。一方、臨済宗は時の政権とはうまく折り合いをつけ、特に鎌倉将軍家・執権北条家との関係がよく京都五山・鎌倉五山など設定し栄えた。夢想疎石や金地院崇伝などいずれも臨済宗の高僧である。結果、京の曹洞宗の寺院は少ない。

「そうどうしゅう」ではなく「そうとうしゅう」と読む。座禅の作法もちょっと異なり、壁に向かって座禅する。悟りを得る為に座禅する臨済宗に対して、只座禅を楽しむのが曹洞宗なのだそうだ。事前予約すれば毎週一般人に座禅道場を解放している。

さて、話は興聖寺に戻る。江戸時代になり400年の断絶を経て、5世の住職を招き再興したのが、武将永井尚政で代々永井家が援助して来た。この場所は最古の茶園と伝わる「朝日茶園」の地であり、今でも境内後ろの朝日山からの湧水が貯められ活用されている。

特徴ある山門をくぐると、庫裏がありそこに受付がある。奥の方は炊事場が見え僧たちの生活の場所と分かる。拝観料を納めてまず、まっすぐ北に行くと大書院があり明正天皇の御幸があった場所にも立ち入りが出来る。本堂である法堂には、本尊の釈迦如来三尊像が祀られる。そのさらに奥の祠堂殿には永井家の歴代位牌が安置され、聖観音像が見守る。この観音様は、左足の親指が持ち上がっていて直ぐにでも信者を救いに行けるように準備しておられる。開山堂は道元始め寺の高僧達の木造が安置された中国風のお堂である。中庭の西は僧堂で座禅する道場だ。凛とした空気の漂う空間は普段は無人なのだが、何か修行僧の息遣いが漂う気がする。途中の渡り廊下にはご利益抜群と評判の三面の大黒天があった。いずれの場所も撮影可能でオープンなお寺であった。

見学後、受付の尼僧から色々お話をお伺いした。座禅の事、臨済宗との違いなどなど、途中何度も「そうどう宗」と発音しその都度注意された。なお、興正寺と同じ発音の寺があるが、こちらは浄土真宗の寺である。京都には同名寺院や同発音の寺院が多く注意が必要である。

帰る時には、琴坂を下りながら左右から迫るもみじの枯れ枝を眺め、紅葉時に再び訪ねようと決心した。

 

33番 酬恩庵  一休さんの晩年はスケベ―

 京都府京田辺市薪字里ノ内102

山号  霊瑞山

宗派  臨済宗大徳寺派

本尊  釈迦如来坐像

開基  南浦紹明

中興  一休宗純

別称  一休寺

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

いよいよ山城地域に踏み込む、最寄りの駅は近鉄京都線新田辺駅だが、その後路線バスを乗り継ぐ必要があるので、車かタクシーの利用をお勧めする。京都駅から30分ほどかかるが、京阪奈バイパス近くに酬恩庵はある。大徳寺住職を務めた一休宗純の寺として有名であるが、筆者は、とんちの一休さんよりも晩年の人間味あふれるドロドロの一休さんが好きだ。

酬恩庵は、元は鎌倉時代初期の妙勝寺という寺を一休さんが室町時代に中興したものである。一休さんは大徳寺住職時代に、ここから10㌔近くの道のりを北大路の大徳寺まで通っていた。現在の酬恩庵の見どころは、将軍足利義教によって建てられた本堂と、方丈を囲む庭園群である。庭園は寛永の三筆の一人松花堂昭乗などの作庭で、北庭は蓬莱庭園、東庭は十六羅漢を表現し、南庭は白砂の大海を表現している。また、茶室「虎丘庵」にある「茶道の祖」村田珠光作庭の枯山水庭園も有名である。

そして最大の見所は、重要文化財の一休禅師座像だ。禅師没後、その頭髪と髭を植え付けたものであり、その表情は彼の生命力を現わすものである。生命力は精力であり、彼の晩年の凄まじさはつとに有名である。

森女という20代の盲目の美女と閨を共にし、快楽に溺れている。時に一休さん77歳、今でも考えにくいが、当時では驚異的な生命力である。「狂雲集」という書き物にその淫靡な実態を書き残している。

「一休さん」の画像検索結果

 「美人の婬水を吸う

 蜜に啓し自ら慚(はじ)ず、私語の盟

 風流の吟を罷()めて、三生を約す

 生身堕在す、畜生道

 潙山(いさん)戴角の情を、超越す

  美人の陰(おん)、水仙花の香有り

 楚()(だい)(まさ)に望むべし、更に応に攀()ずべし

 半夜、玉床、愁夢の間

 花は綻(ほころ)ぶ、梅樹の下

 凌波仙子(りょうはせんし)、腰間を遶(めぐ)る」   以上抜粋。

 現代訳はあえて書かないが、「淫水」とか、「蜜に啓し」「美人の陰」「腰間を遶る」など、字ずらだけでも想像に耐えない表現が続く。88歳で亡くなるまで愛おしんだと言われる。そして、臨終に際して行った言葉が凄い。「死にとうない。」である。大好きだ。一休さん。なお、一休禅師は南北朝統一時の後小松天皇(北朝)の御落胤だとされている。やはり皇族の精力はすさまじいのだ。

さらに山城地方を旅する。

34番 金胎寺  修行の場

 京都府相楽郡和束町原山

山号  鷲峯山

宗旨  真言宗醍醐派

本尊  弥勒菩薩

開基  天武天皇・役小角

別称  南大峰山

 

 京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

一気に南山城地方まで足を伸ばす。JR加茂駅から奈良交通バスで「原山駅」から徒歩1時間かかる。もはやハイキングの域を超えた場所にある。自動車でも途中の林道は狭く離合困難となっている。寺に駐車場もないが、近くまで自家用車で行くことをお勧めする。南山城地域には名刹が多く移動手段には困るが、是非訪ねたい。京都府という行政区分は近年になってからで、文化圏としてはやはり奈良平城京との繋がりが深い。

金胎寺は天武天皇の時代の創建と伝わる。奈良大峰山と並ぶ修行の地として発展した。別名南大峯とも言われる。周辺は巨岩・奇岩が多く分布し修行には適していたのだろう。歴史的には、倒幕の旗を挙げた後醍醐天皇が、笠置山に落ち延びる時に立ち寄った事で太平記では有名だ。

多宝塔

奈良市内から40分ほどかけて、途中イノシシの親子に遭遇しながら、林道のはしに車を止めて急な山の斜面を登り10分ほど歩く。念のためイノシシの襲撃に備える為手ごろな棒切れを手に持つ。境内に人気はなく近年の台風などの大雨や気候変動の影響か周辺の森林は荒れ放題だった。本堂・多宝塔と巡る。特に多宝塔は鎌倉時代(1298年)伏見天皇の勅願により建てられたものと確認されている大変貴重なものだ。着色は完全に色落ちしているが凛とした姿は往時をしのばせる。周辺の行場巡りのコースがあったが、一周2時間と聞いて次回にすることにした。本尊は弥勒菩薩と案内にはあるが、無人の本堂には入ることも適わなかった。後で知ったが、ご本尊は醍醐寺霊宝館に寄託されていた。

ここはあくまでも修行の場所なのだ。観光気分では行けない。


35番 笠置寺  巨大摩崖仏の拓本を大阪万博で見られるか?

 

京都府相楽郡笠置町笠置山29

山号  鹿鷺山

宗旨  真言宗智山派

開基  天武天皇(大海人皇子)

本尊  弥勒摩崖仏

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修行の寺が続く。金胎寺から車がすれ違うのも困難な狭い道を30分ほど山を下り、木津川沿いをしばらく行くと笠置山登山口に着く。ちょうど京都からの伊賀街道、奈良への月ケ瀬街道の交差する辺りになる。本来は歩いて登るべきだろうが再び細い参道を車で20分ほど行く。

笠置寺も観光気分で行く寺ではない。標高300mほどの山自体が、寺の境内であり、そこが修行の場である。2000年近くも前から信仰の対象であったようだが、天武天皇勅願寺として良弁僧正によって巨岩に摩崖仏を彫りそれを本尊として発足した。その後、平安時代の末法思想の中で発展し、さらに歴史に名前が知れたのは、やはり太平記の時代だ。後醍醐天皇が一度目の倒幕に失敗した後、ここ笠置寺に本拠地を構えたのだ。ただ、残念ながらその戦火により多くの建造物が焼失し摩崖仏も熱により表面が剥落した。40分ほどの修行場巡りに挑戦したが、日頃の不摂生が祟り息が上がってしまった。しかし、朝方のにわか雨の時の水気を通じて吹く冷たい風が心地よく、気分よく山を下った。

因みに、受付にいたオジサン。地元のボランティアか、とにかく親切でよくしゃべる。本尊の摩崖仏は、ほとんど何も見えないが、拓本を採ると古(いにしえ)の姿が浮かび上がるのだそうだ。高さ10m以上もある巨大拓本を地元総出で採ったらしい。ところが大きすぎて展示する場所がなく、公民館の倉庫に眠っている。来るべき大阪万博での公開を目指していると言う。楽しみにいたしましょう。(笑)

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36番 海住山寺  国宝の五重塔が素晴らしい

 

木津川市加茂町例幣海住山境内20

山号  補陀落山

宗派  真言宗智山派

本尊  十一面観音

開基  良弁 聖武天皇

中興  貞慶

 

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こちらも京都より奈良の仏教界との関りの深い寺である。笠置山から木津川沿いに20分ほど奈良方面に行けば恭仁京跡の大きな石碑があり、そこから山道を登る事10分ほどで到着する。地域が一望できる高台の頂上に海住山寺はある。地域は、瓶原(みかのはら)と言い、山は三上山と言う。聖武天皇の時代の創建で、良弁が開山である。言うまでもなく東大寺初代別当であり、聖武天皇の大仏建立の祈願をこめて創設された寺だ。その後荒廃し、鎌倉時代に解脱上人である貞慶により再興された。見どころは、貞慶上人追悼の為に弟子の藤原長房(覚真)が、建てた五重塔である。50m以上ある東寺の五重塔に比べると20mに足らない塔だが、山上の境内で見上げると存在感は十分ある。特徴は、裳階という庇のようなものが一層の下に設けられているので6重に見える事だ。建設時のまま大きな修復もせず残っているので、国宝指定されている。本堂へは拝観料を払えば入れる。狭いが本尊の十一面観音立像は平安時代、四天王立像は鎌倉時代のものでいずれも重要文化財である。その他寺宝は多く遠くまで出かけて来た甲斐がある。なお、ふもとの恭仁京跡は国分寺跡と共に国の史跡に指定されている。奈良時代とは言え京都府内にある為、京都検定的には長岡京、乙訓宮、などと並び必須の情報である。

 

37番 浄瑠璃寺  現世に現れた極楽浄土の寺

 

木津川市加茂町西小札場40

山号  小田原山

宗派  真言律宗

開基  義明

本尊  九体阿弥陀如来・薬師如来

別称  九体寺

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浄瑠璃寺は南山城屈指の重要寺院で、豊富な国宝群に特別名勝の庭園を持つ古刹である。海住山寺からは車で15本分ほどだ。途中、アジサイ寺と言う別名を持つ岩船寺の三重塔も訪ねておきたい。この辺りは当尾の里と言われ、小さな石塔や石仏が点在している。浄瑠璃寺は、義明上人が平安中期に創建しているが、檀那(支援者)は奈良葛城の豪族である。当初は本堂のみだったが、干支一巡後の60年後、薬師堂など伽藍が整備されたようだ。しかし、浄瑠璃寺は何の予備知識がなくても十分楽しめる。まずは境内に入ると目の前に、浄土式庭園が広がる。池をはさみ東に薬師如来を安置する三重塔、西に阿弥陀如来9体を置く本堂がある。東は現世利益の薬師如来、西は極楽浄土へ導く阿弥陀如来という造りだ。池の東側まで行きまっすぐに池に映える本堂を眺めるとまさに極楽浄土の世界が見える。三重塔は平安末期に、一条大宮から移築されたものと言う。朱色が鮮やかな見事な安定感のあるものである。

本堂は9体の阿弥陀如来を安置する為に、11間の造りで、中尊のやや大きい阿弥陀如来を置くために中央部分を特に大きくとっている。このような9体阿弥陀堂は西暦1000年頃、末法思想の中で多く作られた。藤原道長の法成寺が最初の例で、道長はこの阿弥陀如来と糸で手を結びつつ往生したと伝わる。しかし残存するのはここ浄瑠璃寺くらいとなっている。本堂内には、それ以外にも木造四天王立像の内、持国天、増長天が安置されていて、こちらも平安時代の作だが保存状態が比較的良い、ここまで本堂、三重塔、阿弥陀如来9体、四天王像すべて国宝である。ただ、広目天、多聞天は東京・京都のそれぞれ国立博物館に寄贈されている。

加えて庭園は、特別名勝であり国宝扱いである。

境内は参観自由で池には蓮の花やその他季節の花・草木・紅葉と一年を通じて楽しめる。拝観料を払って、お宝満載の本堂内もゆっくり見ればたっぷり小一時間かかる。

このような平城京・平安京から遠く離れた地方豪族の支配地域でも立派な寺院が営まれた事が驚きである。そしてその為、応仁の乱始め多くの戦火にもあわず今日我々が、1000年の時を越えて昔(いにしえ)のまま眺める事が出来る事に感謝だ。

38番 大御堂観音寺  間近に拝む国宝十一面観音立像

京田辺市普賢寺下大門13

山号  息長山

宗旨  真言宗智山派

開基  義淵

正式名 観音寺

別称  普賢寺

本尊  十一面観音像(国宝)

 

 京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

京田辺方面に戻り、大御堂観音寺を訪ねるが、ここは同志社大学田辺校舎の近くだ。ここは奈良東大寺二月堂の「お水取り」の「お松明」に使う「竹」を献上する事で有名だ。そして是非見たいのは、国宝の十一面観音立像だ。創建は、白鳳時代と言うからかなり古い。そして東大寺初代別当良弁の時代に中興して伽藍が整ったと言う。やはり奈良の宗教世界との関りが深い。普賢寺と呼ばれていたその当時は、五重塔始め広大な敷地に壮大な伽藍を誇っていた様だ。室町末期に焼失して以来「大御堂」のみとなった。しかし奇跡的に本尊の十一面観音は奈良時代から今に至るまで残っている。その国宝を見る為に来たようなものだ。

本堂にお邪魔する。狭い堂内だが、威厳を感じる雰囲気の中、中央厨子に向かい手を合わせる。やはり御本尊は秘仏かと思って御住職にたずねたら、どうぞこちらへとおっしゃる。信じがたい事だが、内陣へ案内していただき、厨子の真ん前にお連れ頂き、どうぞご覧ください。と、ゆっくりまさに観音開きの厨子が開くと、目前に観音様が現れる。慈悲深いその視線に目が合うと、自然に手が合わされる。そして感動と言うより1200年の時を越えてここにおられる事を考えると、なぜか涙が出る。

仏様は女性でも男性でもないと言うが、やはり観音様は女性だ。ふくよかそうな胸、美しくしまったウエスト、薄布に覆われた下半身の妖艶さ。そして慈悲深い母の眼差し、どれも憧れの女性像である。セックスアピールと母への尊敬と同時に感じる。

親切な住職のお陰で、良い話と共に貴重な時間を過ごした。寺巡りはこのような出会いと感動があって誠に良い。

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39番 寿宝寺  本当に千本の腕が?

 

京田辺市三山木塔の島20

山号  開運山

宗派  高野山真言宗

開基  

本尊  十一面千手千眼観音菩薩

別称  山本の大寺

 

 

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寿宝寺も京田辺の同志社大学校舎のすぐ近くにある。うっかりすると見逃がすように町中にひっそり建つ。残念ながら住居兼寺院という一般的な檀家寺の趣きである。しかしここには、大阪藤井寺の葛井寺と奈良の唐招提寺と並ぶ千手観音の傑作がある。南都と平安京を繋ぐこの辺りには多くの歴史的寺院が多くあったようだが、歴史の経緯からいくつかの寺院が合併して出来たのが寿宝寺である。

狭い境内の中に5m四方くらいのお堂がありその中に安置されている。従ってごく間近に拝むことが出来るのだ。しかも寺の方の演出でお堂の扉を閉めて暗闇からわずかの光の中でまず拝む。昔、月光の中でひざまずき観音様を拝んだように慈悲の視線を感じる。そして扉を開けてまぶしいような太陽の光の中で拝む。その眼差しの違いを感じる。なかなか粋な演出ではないか。

凄いのは、実際に千本の手を持っていると言う事だ。数える気力はないが、普通千手観音の手は実際は42本の手であり、前で2本の手を合わせて印を結んでいる。そして残り40本の手がそれぞれ25の世界を救うとされ25✖40で1000本となる。しかし寿宝寺の観音様は実際に1000本の手を有し数々の珠宝を持ち、何も持たない手には眼がある千手千眼観音という事なのだ。

製作は平安時代というので重要文化財指定だが、先年蓮華王院の千手観音がすべて国宝指定されたのならば、こちらも国宝で良いと思う。また一般的に制作の都合上、千手観音は上半身に比重がかかるので下半身が短く短足になりがちだが、こちらはすらりとしたお姿が良い。ただただこの仏様を見る為のみ訪れるお寺である。

 

40番 蟹満寺  理不尽な蟹と蛇と娘の話

木津川市山城町綺田36

山号  普門山

宗派  真言宗智山派

開基  伝 秦和賀

本尊  国宝釈迦如来

 

 

 

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

蟹満寺は木津川沿いの24号線からJR棚倉駅と玉水駅の間を東に曲がる。木津川の支流沿いにその寺はある。こちらの目的は国宝釈迦如来像を見る事だ。

しかしまず、寺名の由来になっている「蟹の恩返し」(今昔物語集)を紹介する。『昔、この里に慈悲深い父と娘がいた。娘は子供たちが蟹を捕まえるのを見てその蟹を逃がしてやりました。一方、父はカエルがまさに大蛇に飲み込まれようとするのを見て、カエルに成り代わり蛇に許しを乞うた。蛇はそなたの娘を嫁にくれるのなら許すと言う。仕方なくそうすると言ってカエルを逃がしてもらった。その夜、早速大男に姿を変えた蛇がやってきて娘をもらいに来たと言う。困った父は、三日だけ待ってくれと言うと一旦帰った蛇は、三日目の夜に家の周りで大暴れした。明け方、静かになったので外に出ると、大量の蟹の死骸と蟹に切り刻まれ息絶えた蛇が横たわっていた。二人は蟹と蛇の供養のために観音堂を建てたのが、蟹満寺の始まりである。』という話だ。

従って、当初は観音様が本尊であったようだが詳しい事は分からない。現在の本堂は9年前に建て替えたものなので白木や着色の鮮やかな建造物である。周囲の設えも新しく門や手水に至るまで新しい。そのような中に奈良時代作成の国宝仏があるとは思えないが、拝観料500円を払い本堂に入ると、中心に丈六の釈迦如来坐像が堂々と配されている。銅像の黒光りが時代を感じる。内部周辺の壁には先ほどの蟹の恩返しを絵巻物にした数枚の額が掲げてある。ボタンを押せば自動的に解説の音声が流れる。親切だ。

周辺は木津川沿いの典型的な田園風景が広がる。住宅地は遠く田辺地域までない。素朴な小さな寺だ。


649 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  21番~30番

2019-07-24 08:38:13 | 日記

今回は30番まで一挙に公開する。

21番 分陀寺  庭を眺めるだけで癒される

 

東山区本町15丁目803

正式名 東福寺 塔頭

別称  雪舟寺

宗派  臨済宗東福寺派

本尊  阿弥陀如来

開基  一条経通  開山 定山祖禅

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龍吟庵のすぐ隣には、薩摩藩西郷隆盛所縁の「即宗院」と言う塔頭もある。NHK大河ドラマのヒットから多くの人が訪れたが、今回は「日下門」を出て「分陀院」に向かう。「雪舟寺」と言った方が馴染みがある。雪舟が作庭したと伝わる庭園をゆっくり見る事にする。

分陀院は鎌倉時代末期に摂関家一条家の経通が父内経の為に創建したのもだ。寺名は父の院号の分陀利華院に因む。その後の戦乱や火災で荒廃していたが、江戸時代になって書院など整備され、庭園を雪舟が作ったとされるが残念ながら実証できていない。庭園は、昭和になって重森三玲が復元整備したものである。また、茶室「図南亭」も昭和の再建だが、中に座って丸窓から眺める庭の風情が格別だ。なお、京都検定的には、「勾玉の手水鉢」と「屑屋型燈籠」を覚えるのは大事な事である。

そんな難しい事はさて置いて、南庭「鶴亀の庭」を無心で眺めるひと時が至福の時だ。

 22番 霊雲院  西郷さんと美僧月照とが密会した寺

 

東山区本町15丁目801

正式名 東福寺 塔頭

宗派  臨済宗東福寺派

開基  崎陽方秀

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

有名な「臥龍橋」を北へ渡ると左に同聚院が見えて来る。夢に出てきそうな恐ろしい憤怒の形相の不動明王が有名だ。その手前を左(西)に曲がって数分歩くと見えて来るのが「霊雲院」だ。同名の寺が京都に複数あるので気をつけたい。開基の岐陽和尚は天龍寺、南禅寺、そして東福寺の住職を歴任した相当な高僧であるが、こちらも見どころは庭園の見事さである。

まず、方丈正面の「九山八海の庭」を見る。「遺愛石」と言う肥後熊本から寄贈された石が中心になっている。寺宝とされるこの石は第7世住職が就任時、ご褒美として金品ではなく修行の妨げにならない「石」を希望したと言う。これを須弥山になぞらえて九つの山脈と八つの海が取り巻く仏教世界を表現したのだ。作庭は古いが、昭和になって重森三玲が復元した。また、「臥雲の庭」は現代的な発想も取り入れた斬新な枯山水庭園だ。こちらも難しい事は抜きにして、無心で庭と向き合いたい。壮大な世界観を身に感じるはずだ。

なお、幕末に西郷隆盛が清水寺の勤王の僧月照と密会した寺である事と、日露戦争後ロシア兵の捕虜収容所となっていた。因みに、月照と西郷が密会した寺は、ここ以外に清閑寺などいくつか伝わっている。密会って何のことだ?面談とどう違う?

 

23番 海宝寺  伊藤若冲筆置きの寺

 

伏見区桃山町正宗20

山号  福聚山

宗派  黄檗宗

創建  杲堂元昶

本尊  聖観世音菩薩

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

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東福寺から伏見区へ、京阪電車沿線の伊藤若冲の所縁の寺を巡ることにする。若冲は江戸時代後期の絵師で、錦市場の八百屋の跡継ぎに生まれながら晩年絵師としての才能を発揮した天才画家である。アメリカ人の収集家に紹介され数年前から大ブームとなり、今日では京の絵師と言えば、応挙でもなく探幽でもなくなった。ここ最近、夜の錦市場のシャッターはあたかも若冲美術館の様相を呈している。その若冲所縁の寺は、3か所ある。まずここ海宝寺は、若冲「筆置きの間」がある禅宗寺である。

京阪本線墨染駅から徒歩10分くらいで着く。萬福寺を本山とする禅宗の寺で、江戸時代後期の創建で、桃山町正宗の地名通り仙台藩の藩祖伊達政宗の屋敷跡の場所にあり、その政宗御手植えの木もある。境内にはその説明番が仙台市により設置されている。また、大手百貨店の大丸の創業者下村正啓がこの寺の高僧に帰依し浄財を投じた事から大丸関係者を祀る「祠堂」がある。

そして方丈内部には、若冲晩年の傑作「群鶏図」があり(現在は国立博物館所蔵)その絵を書いて以降絵は描かなかった事から、「若冲筆置きの間」と言われる。

境内は自由に見れるが、方丈内は入れない。普茶料理と言う黄檗宗独特の精進料理がいただけるお寺でその時は見られるかも知れない。それには予約が必要だ。

次は、若冲の墓を見に行く。

 24番 石峰寺  やぶ蚊と若冲の墓のある寺

 

伏見区深草石峰寺山町26

山号  百丈山

宗派  黄檗宗

創建  千呆性侒

本尊  釈迦如来(創建時は薬師如来)

 

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

海宝寺のある墨染駅から二駅京都方面に戻り、深草駅から東に数分坂を上ると唐風の山門にたどり着く。こちらも黄檗宗のお寺である。言うまでもなく、隠元隆埼が宇治の黄檗で創建した「禅宗」の一派である。仏教とはそもそもインド・中国渡来の宗教だが、黄檗宗は特に中国風が強い。本山萬福寺の住職は代々中国僧が勤めている。歴史が浅い事もあり黄檗宗寺院は少ない。因みに永平寺の曹洞宗寺院も少なく、京都の禅宗寺院のほとんどは建仁寺を総帥とする「臨済宗」である。石像寺は狭い境内に鬱蒼と木々が茂る。見どころは、若冲の墓と「五百羅漢の石像」だ。数年前の夏の訪問時の体験をもとに書く。

受付などないが無断で入るのも憚れるので、たまたま眼があった女性に300円の拝観料を払う。パンフレットと「地元信用金庫のうちわ」を渡される。うちわはやぶ蚊が多いので追い払う為の必需品らしい。その理由は数秒後にはっきり分かる。訪れる人の少ない寺の裏山にはここぞとばかり待ち受ける「やぶ蚊の集団」が襲うのだ。お陰で、慌ててしまい若冲の墓地を見逃す。御本尊は釈迦如来立像、昭和の放火焼失以前は薬師如来だった。元は五条大橋辺りに祀られていたものを開基千呆(せんがい)が、この深草の地に移したと言う。

さて、うちわを振りながら境内裏手の小山を登り、若冲晩年の10年をかけて1000体以上を作成したと言う五百羅漢を見に行く。羅漢さんは仏ではなく修行中の聖人だ。表情豊かな石仏は一つも同じ表情はなく見ていて飽きない。撮影禁止になっているのは、平成24年に写真家グループが勝手に石像に帽子をかぶせたりロウソクを灯したりした為の処置らしい。それ以前には、地蔵菩薩を破壊するやからが出るなどいつの時代にも無茶な奴らはいるものだ。なお、信行寺にある有名な若冲花卉天井画はこちらで画かれたものである。また、見逃した若冲の墓石は、親切にも寺の女性がわざわざ案内してくれた。晩年の若冲は、ここで絵画一枚を米一斗に代えて生活していたという。帰りに改めて礼を言うに行くと、蚊に刺された無残な私の足(こんな日に限って半ズボン)を見て、キンカンの大型瓶を差し出してくれた。人情と薬が身に染みた。

なお、若冲の伊藤家の菩提寺「宝蔵寺」は、中京区の繁華街新京極の寺町にある。いずれ紹介する事にする。


25番 宝塔寺 美しい多宝塔が楽しみな寺

 

伏見区深草宝塔寺山町32

山号  深草山

宗派  日蓮宗

開山  日像

開基  藤原基経

本尊  三宝尊(釈迦如来・両界曼荼羅・日蓮・日像像)

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

石峰寺のすぐ南、京阪深草駅とJR稲荷駅が接近している辺りに山門がある。200mほど緩やかな坂を上り総門・仁王門と続く。平安初期の藤原基経が創建した時は真言宗寺院だった。その後、住職の良桂が日蓮宗に帰依し尊敬する日蓮直系の日像の廟所という事になり日蓮宗に改宗した。応仁の乱後再建され、その当時の建造物が多く残っている。寺名も、極楽寺・鶴林院そして現在の宝塔寺と変遷した。正面の本堂は、重厚で典型的な日蓮宗建築物であり、京都では最古の日蓮宗関連の遺構である。また本堂右奥(南側)の多宝塔は、当寺唯一の応仁の乱以前の1438年の建造である。多宝塔とは、上下2層の宝塔だが、本瓦葺きの上層と行基葺きの下層という変化に富んだ造りで、間の塔身部分がとても細くそれでいて2層とも屋根の反りが見事な美しいものである。この塔が見たくて来たのだ。塔と本堂といずれも重要文化財である。

短時間だが、浮き浮きした気分で次に向かう。

 

26番 法界寺

 

伏見区日野西大道町19

正式名 東光山 法界寺

宗派  古義真言宗

別称  乳薬師・日野薬師

本尊  薬師如来

開基  日野資業 最澄

 

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地下鉄東西線の方にまわり、石田駅で下車し20分くらい歩くと「日野の里」に法界寺がある。

京都のお寺には、民間伝承とも言える貴重な行事が残っていて面白い。隋心院の「はねず踊り」もそうだが、即成院の「阿弥陀25菩薩お練り供養法要」は紹介した。中には祇園祭の山鉾巡行のように大がかりのものもあるが、こちらは誠に素朴で単純でそれでいて歴史を感じる。「法界寺の裸踊り」と言われるが、正月明けの14日に修正会の結願に合わせて行われる。極寒の中、下帯だけの男性が子供と大人に分けて、境内の井戸水を浴びて潔斎の後、国宝の阿弥陀堂の高縁正面で体をぶつけ合う。その際「頂礼・頂礼」と叫ぶ。頂礼とは五体投地とも言われ仏に対する最高の儀礼らしい。じっとしていられないほどの寒さの中でも、間もなく彼らの体からはもうもうと湯気が立ち上る。

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27番 毘沙門堂  天台宗五ケ室門跡寺院の一つ

 

京都市山科区安朱稲荷山町18

山号  護法山

宗派  天台宗

開基  行基

本尊  毘沙門天

正式名 護法山安国院出雲寺

 

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山科方面にも見たいお寺は多い。東海道本線山科駅から東側の道を線路をまたぎ北方向にだらだらとした上り坂を15分ほど歩く。1km程だが上り坂が徐々に急坂になるので足にはこたえる。毘沙門堂は、天台宗5箇室門跡寺院の一つだが、もとは相国寺の北にあった出雲寺に、平氏ゆかりの平等寺・尊重寺・護法寺の3寺院が合併したものである。平等寺は太秦に、尊重寺は上京五辻に、護法寺は伏見にあった。出雲寺は奈良時代に行基の開基によるもので、現在の上御霊神社のあたりにあった。「出雲路」という地名にその痕跡が残る。その後、応仁の戦乱で焼失し江戸時代になり幕府より山科安祥寺の寺域を賜ったものである。なお、後西天皇皇子、公弁内親王がここで受戒し門跡寺院となってから、毘沙門堂と言うようになった。

毘沙門天は秘仏であるが、本堂は唐破風の門など朱色が目立つ全体に派手で京都の門跡寺院には珍しい佇まいである。近年修復され一層見事な色彩になっている。境内は自由に散策できるが、入館料を払えば「晩翠園」という名園や、寝殿の特殊技法による襖絵など見学できる。いつでもゆっくり見れるが、桜・紅葉の季節が特に良い。

 

28番 安祥寺

 

京都市山科区御陵平林町22

山号  吉祥山

宗派  高野山真言宗

開基  藤原順子・恵運

別称  高野堂

本尊  十一面観音

 

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安祥寺は毘沙門堂の隣にある。毘沙門堂は元々この地にあった安祥寺の敷地を譲られたものであるので、毘沙門堂敷地内から行けるかも知れない。筆者は普段拝観していないので、日をかえて特別拝観の日にうかがった。山科駅の西側の参道斜面を登り山門に至る。

安祥寺は、醍醐寺の上醍醐・下醍醐と同様に上安祥寺・下安祥寺に分かれて発足した。筆者は上醍醐にも行ったがハイヒールでは行けない山道だ。安祥寺も山岳修行の場としての上寺の方が広大な敷地と伽藍を有し大いに栄えていた。創建は平安初期、文徳天皇母の藤原順子(じゅんし)の発願によるものとなっているが、すでに上寺が存在していて順子によって下寺が建立されたと考えられる。もちろん上寺・下寺とは後日言われるようになったのだが・・・・。しかし平安後期にはすでに荒廃し応仁の乱で焼失し完全に廃寺となった。江戸時代になって残った宝物をもとに再建するが、上寺は再建されず幕府の命令により寺領の多くを毘沙門堂に譲った。明治初期までは多宝塔があったが火事で焼け、現在は、本堂・地蔵堂・大師堂のみで建造物を囲む境内は残念ながら整備されていず往年の勢いは感じない。

ただ、解説によると焼けた多宝塔内にあった木像五智如来像(現在は京都国立博物館所蔵)は安祥寺創建時の作品で今年国宝指定の予定との事、また東寺の塔頭観智院所蔵の五大虚空蔵菩薩像は元安祥寺にあったもので唐からの招来仏である事を今回聞いた。このように安祥寺は現在の佇まいからは想像できないが、歴史上大変重要な寺院であったのだ。普段は非公開寺で、今回拝見した本尊十一面観音立像も初めての公開だった。山門横の事務所には長蛇の列、令和の御朱印を頂く行列だった。滅多に入れない寺院の令和元年の御朱印は貴重なのだ。

 

29番 勧修寺

 

山科区勧修寺仁王堂町27-6

正式名 亀甲山 勧修寺

宗派  真言宗山階派

別称  山階門跡

本尊  千手観音

開基  醍醐天皇・承俊

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

山科を南方向へ地下鉄東西線の小野駅から5分ほどの勧修寺を目指す。名神高速道路の高架に接するように建っているのが残念だ。勿論、高速道路はあとから出来たのだが・・・。(笑)

「かんじゅじ」「かじゅうじ」「かんしゅうじ」と幾通りも読み方がある。創建は醍醐天皇だが、天皇生母の藤原胤子追善のお寺である。今昔物語集には以下の話が伝わっている。平安時代初期、藤原北家の高藤が鷹狩りに出かけた折りに、この辺りの豪族宮道弥益(みやじいやます)の邸宅に雨宿りの為に泊まり、その娘列子と一夜の契りを結ぶ。帰宅すると高藤の父は怒って鷹狩りに出る事を禁ずる。その後二人は音信不通であったが、6年後再会するとそこに6歳の女の子がいた。一夜の契りで宿った子であった。この娘が、宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となった藤原胤子である。まさに高藤の強い胤(子種)のお陰だ。高貴な方の生母や后になった素性の不明な子女には、このような逸話が多い。

☞ でも、一夜で簡単に体を許すような女で良いのだろうか。古代では貞操観念が現代とはかなり違う。古代に生れたかった。(笑)

通常は、庭園のみの拝観で方丈は見られないが、醍醐天皇等身大の千手観音像が御本尊である。庭には、水戸光圀(黄門様)寄贈の勧修寺型燈籠が有名だ。広大な「氷室の池」には蓮や杜若などの季節の花が咲く。平安の昔には、氷が張ってそれを切り出して朝廷に献上したと言うが、現在は薄い氷が張るかも知れないがとても切り出すほどにはならない。因みにその氷の厚さで作柄を占ったと伝わる。

国宝の有名な「刺繍釈迦如来説法図」は、現在奈良の国立博物館の所蔵で国有財産になっている。また、庭園内の2層の雄大な観音堂は「大悲閣」と言い、屋根の中央に鳳を頂く宝冠造りの立派なものだ。往時の隆盛を偲んで次は、隋心院へ

 30番 隋心院

 

山科区小野御霊町35

正式名 牛皮山 隋心院

宗派  真言宗 善通寺派

本尊  如意輪観音

開基  仁海

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勧修寺と地下鉄東西線の小野駅をはさんで徒歩10分ほどで、隋心院はある。いずれも真言宗のお寺だが宗派が違う。空海が日本に持ち込んだ密教を東密、最澄が広めた密教を台密と言うが、日本の鎌倉新興宗教(真宗、浄土宗、法華宗、浄土真宗など)は、いずれも台密の拠点である比叡山で修行した高僧を宗祖としている。一方、隋心院などの東密は、東寺を本寺、高野山を末寺とし争うなど内部抗争が激しかった。古義真言宗と新義真言宗が競うなど複雑な経緯の後、現在は、東寺・勧修寺・泉涌寺・そして隋心院が独立した宗派となっている。その隋心院は現在は善通寺派を名乗り、官長は善通寺にいて隋心院には能化(のうけと読む・師範のような位置づけ)が置かれる。

古来、小野氏の根拠地であり小野小町ゆかりの寺である。創建は空海の8代の後の弟子仁海である。仁海が、亡き母が牛に生まれ変わっていることを知り、牛の革に両界曼荼羅図を描いた事から、山号を牛皮山とした。

山門を入ると広大な小野梅園が広がる。見頃は3月初旬から下旬。総門を入ると庫裏の入り口に、小野小町を描いた屏風が迎えてくれる。書院の狩野派を中心とした絵師が描いた襖絵を愛でながら本堂に行くと、本尊の如意輪観音像を中心に快慶作の金剛薩多菩薩像や定朝作と伝わる阿弥陀如来坐像など貴重な仏像たちが迎えてくれる。手入れの行き届いた庭園の四季の草花もゆっくり鑑賞したい。

周辺には、小町が毎朝化粧に使った「化粧井戸」や、多くの男たちが送って来た恋文を埋めた「文塚」があり是非巡っておきたい。

なお、深草少将百夜通いに因んで行われる「はねず踊り」は、325日前後に医薬門前で行われる。昭和48年に復活したものである。因みに、「はねず」とは、梅の花の色の事。


番外 面白くない事が多い。

2019-07-23 08:36:02 | 日記

もう、ええかげんにしてほしい。吉本闇営業事件。シャレで済まなくなってしまった。

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そもそも、非日常的な笑いを求める芸能界に、我々の日常的なモラルを求めるのか?よく考えるべきだ。犯罪者に対しては誰であれ批判されるべきはずが、犯罪者よりもそれらと関わってしまった芸人に批判が集中する。おかしくないか。弁護士に聞いたらそもそも暴力団追放法は、反社会的集団と知りつつ継続的に利益提供するものを想定している。(例えば反社会勢力と知りつつ継続的に組事務所の為に賃貸契約した不動産屋など)偶発的に接してしまう事は想定していない。本当に本気でヤクザを排除するなら、水道も瓦斯も止めてほしい。我々国民はそのような覚悟をするのか。弁護士によると生存に関わるライフラインは保証されるという。ならば、生存の糧を奪われる芸人の人権はどう考えるのか。

悪い奴の順番を間違っている。ヤクザ→ハングレ→その取り巻き→偶然関わった人→その雇人。

お笑いを糧にする「吉本」に対して糞まじめに議論するのはもうやめてくれ、子供に説明できない。純粋にまじめに?笑える吉本を取り戻せ!


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648 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  11番~20番

2019-07-22 07:57:56 | 日記

11番から一気に20番まで紹介する。

 

11番 仲源寺  雨やみ(あめやみ)が目病み(めやみ)

 

東山区四条通大和大路東入ル祇園町南側585-1

正式名 寿福山仲源寺

創設  定朝(仏師)

宗派  浄土宗

本尊  千手観音座像(重要文化財)

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四条通河原町は、京都一番の繁華街だ。東に向かい八坂の西門を目指すと途中に仲源寺はある。気づく人も少ないが、眼病の御利益がある。

京には「洒落(言葉遊び)」のお寺が多い。上京区の石像寺では、八寸釘とくぎ抜きを貼りつけた絵馬が奉納される。「くぎぬき」(釘抜き)と「くぬき」(苦抜き)の洒落である。

仲源寺こちらは、以下の逸話による。

平安中期創建のこのお寺は、当初鴨川のすぐ近くにあった。鎌倉時代になると大雨が続き、鴨川が氾濫した時、こちらの本尊の地蔵尊に雨やみを祈願したところたちまち雨は止んだ。そこで防鴨川使が中原氏であった事から朝廷より「仲源寺」の寺名を頂いた。「あめやみ」(雨やみ)から「めやみ」(眼病み)の洒落で、眼病地蔵に転じた。

境内は狭く自由に出入りできるが、本尊の地蔵様を拝み本堂右手の定朝作千手観音坐像の前に佇むとその大きさに圧倒される。重要文化財指定だが、平安仏師定朝の作が確かなら国宝でも良いのではないか。

また、頭上に奉納された提灯の多さに驚くが、ほとんどが周辺のお茶屋さんか芸子・舞妓の名前が連なる。山門の上の額には、「好晴奇雨」とあり、中国の詩で、(雨のときには奇観をなし、晴天の景色もまたよいこと)と言う意味である

 

12番 正伝永源院  元総理大臣の襖絵が見れる寺

 

東山区大和大路通四条下る小松町586

正式名 建仁寺塔頭

創設  正伝院 普覚  永源庵 無涯

宗派  臨済宗

本尊  

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

祇園花見小路を四条通から南下し建仁寺の西手前にあるのが正伝永源院。大勢の観光客で賑わう情緒あふれる通りから一筋西にひっそりと存在する。正伝院と言う寺と永源庵と言う寺の合併寺院である。何か、三井住友、三菱UFJが頭に浮かぶのは筆者だけか。

本堂の中心には、右に「正伝院」左に「永源庵」と扁額が並ぶ。永源庵は、南北朝時代の建仁寺第39世の無涯が創建し守護大名の細川頼有が深く帰依した。その為代々の細川氏との関係性は現代まで続く。正伝院の方が古く鎌倉時代に中国僧普覚禅師が創建した。長く荒廃していたのを織田有楽斎が再興し、隠居所と茶室「如庵」が建てられた。その後、明治時代の神仏分離令での廃仏毀釈の大混乱の中、正伝院に永源庵を寄せる形で両寺院は統合した。時の細川伯爵の計らいで寺名に永源庵を残す意向で正伝永源院と決まった。

因みに、その時の混乱の中で多くの寺宝が他所に流出した。国宝茶室「如庵」も現在はレプリカである。それでも文化的遺物は多く、織田有楽斎像や細川頼有像始め狩野山楽の襖絵などは有名だ。

中でも必見は、細川護熙作の襖絵だ。平成25年に24面の大作が奉納された。第79代内閣総理大臣というより芸術家だったのだ。最初から芸術家で良かったのに・・・・。

因みに、庭も見事で心字池を中心に紅葉などの配置が絶妙だった。拝観は季節限定なので注意が必要だ。京都は大寺院も良いがこのように小さくとも趣き深い寺が良い。

13番 長楽寺  建礼門院が出家した寺 

京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626番地

山号  黄台山

宗派  時宗

本尊  准抵観音

開基  最澄

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

丸山公園の東、東大谷のすぐ北に参道がある。東山三十六峰長楽寺山に向かってだらだらと坂道を登る。桓武天皇勅願のお寺で、伝教大師が自ら彫った准抵観音が御本尊だ。完全秘仏だが、新天皇即位時には特別に御開帳があり令和になった5月~6月の16日まで公開していた。東本願寺の飛び地、大谷祖廟と並行して参道が続く。以前は、大谷祖廟の敷地まで長楽寺の境内だったらしい。ここは建礼門院徳子の、出家のお寺で有名だ。平清盛の娘で、安徳天皇の母であるが、源氏に追われ壇ノ浦に入水するものの助けられ、出家。その後大原「寂光院」に隠棲した。後白河院がそれを訪ねる「大原御幸」は有名な話だ。

鐘楼の鐘は、大晦日、除夜の鐘を、一人ずついつまでも突かせてもらえる。当然108回にこだわらない。

 

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庭は、相阿弥の作庭。

また、頼山陽の墓地でもある。

 

以前、大晦日に訪ねたことがあるが、その時は大勢の参拝者がいて、広い境内と言う印象だったが、

一人訪ねると、こじんまりした良いお寺だった。

 

途中、明治のたばこ王、村井吉兵衛の邸宅。「長楽館」を見る。

 

日本で最初に両切り煙草を製造販売した英雄だ。

行商で苦労をした後、「サンライス」そして第2弾の「ヒーロー」が大ヒットし巨万の財を成した。

長楽寺のふもとに長楽館。今は、高級な茶房になっていて誰でも入れる。

 

14番 西福寺  美人でも死ねばみんな醜い姿に

 

東山区松原通大和大路東入ㇽ二丁目轆轤町81

正式名 桂光山敬信院

創設  蓮性和尚 

宗派  浄土宗

本尊  阿弥陀如来

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

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正伝永源院から花見小路に戻り、建仁寺の中を南に通り抜ける。京都の大きな寺院は境内が生活道路になっている事が多く、建仁寺も祇園から五条清水坂や六波羅辺りに抜けるには便利だ。京都は寺も特別な存在ではなく便利ならば自転車でも通り抜けて行く。

そして、六道珍皇寺に立ち寄り、すぐ近くの西福寺を訪ねる。この辺りは京の葬送の地である鳥辺野の入り口に当たる為、昔からあの世とこの世の境目とされた。六道珍皇寺には有名な平安初期の公卿小野篁「冥途通いの井戸」がある。その井戸を通じて地獄の閻魔大王にも仕えていたという。そして、西福寺当たりの辻が、まさにあの世との境目だ。轆轤町と言う町名が物語る。

西福寺の有名なのは、檀林皇后「九相図」である。なんと自らの死後の様子を絵に残させたものが残っている。嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子(檀林皇后)は、絶世の美女との評判だったが仏教への帰依深く、諸行無常の教えを体現すべく「どのような美女も皮一つ隔てて血と肉の塊であり鳥や獣の餌となり腐乱し白骨化して土に還るのみ」と、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置させて、その変化を絵にさせた。9段階の変化を「九相図」と言う。

以下がその9段階、ウキベディアより

1.     脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。

2.     壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。

3.     血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。

4.     膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。

5.     青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。

6.     噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。

7.     散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。

8.     骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。

9.     焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。

 

拝観はお盆の時など限定される。その時にその絵は掲げられる。ぞっとする事間違いない。周辺の霊気漂う雰囲気も合わせて味わいたい。10度涼しい。

 

15番 法住寺  京にたくさんある身代わり地蔵の一つ

 

東山区三十三間堂廻り町655

別称  後白河上皇法住寺殿 

創設  藤原為光 

宗派  天台宗

本尊  不動明王(身代わり不動)

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

西福寺からすぐの六波羅蜜寺を訪ねて、東大路を南に向けて歩く。智積院や妙法院を左に見ながら七条通まで20分~30分かけて行くと京都国立博物館や三十三間堂が右手に見えて来る。平清盛が後白河上皇の為に1000体の千手観音像を寄進したのが蓮華王院(三十三間堂)だ。片頭痛持ちであった後白河の影響で周辺に頭痛封じの寺院が多い。

さて、その昔、源頼朝挙兵の後、木曽の源義仲が京を襲う。平家を追い出す大殊勲を挙げるがその後の後白河上皇からの論功第一は、頼朝であった。ブチ切れた木曽義仲は、ここ院御所を包囲した。ここで歴史の中心地に出て来るのが、法住寺である。創建は平安中期の藤原為光であるが、平安末期、この平家合戦の時に注目される。

往時の寺域に比べれば見る影もないが、今にその歴史を伝えている。本堂は自由に参詣できる。正面の本尊は不動明王像。義仲に襲われ火中から後白河が逃げる為に、身代わりになった事から「身代わり不動」と呼ばれる。その大祭は1115日護摩供養と共に盛大に行われる。狭い境内だが派手に護摩を焚く光景は必見だ。また、ぜんざいの接待などあるので筆者は毎年尋ねる。なお、その身代わり不動を直筆にて住職が書いたカレンダーが販売される。これも毎年楽しみだ。

因みに、忠臣蔵の大石内蔵助との所縁深く1214日には「義士大祭」も行われる。

寺域東側の後白河天皇陵は宮内庁管轄となっている。必ず合わせて訪ねておきたい。

 

16番 今熊野観音寺  頭痛・ボケ防止など頭の病気にご利益

 

京都府京都市東山区泉涌寺山内町32

別称  新那智山 観音寺

宗派  真言宗泉涌寺派

本尊  十一面観音(秘仏)

開基  空海

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

法住寺のあとは、蓮華王院はもちろん、北隣の血天井の養源院にも立ち寄りたい。因みにその隣は赤十字血液センターだ。血天井の隣が血液センターとはよく出来たものだ。東大路通に戻るとさらに南下し泉涌寺を目指す。徒歩15分から20分くらいだ。第一山門を入れば緩やかなカーブを歩きながら今熊野観音寺を訪ねる。

開基は空海だが、嵯峨天皇の時代に藤原緒継によって伽藍が整備され「法輪寺」として完成した。本尊は、空海が熊野権現から賜った一寸八分の十一面観音像を胎内仏(仏像の胎内に仏像を納める)とした空海自ら刻した一尺八寸の十一面観音像(秘仏)だ。白河上皇の時代になりこの辺りを紀伊国熊野に対して今熊野と言われ修験の地として栄え「東山観音寺」と呼ばれるようになる。さらに曾孫の後白河上皇になり新那智山の山号を授けて「今熊野観音寺」とした。同時に新熊野神社も造営された。いずれも(イマクマノ)と読むが、寺は今熊野、神社は新熊野である。後白河はこちらの観音様に頭痛を治してもらった。

境内は自由参詣で入り口階段下には、子護大師像と呼ばれる巨大な空海像が迎えてくれる。石段を上がるとすぐに空海が自ら錫杖で掘り当てた「五智の井戸」がある。日本全国には空海が掘ったと伝わる井戸はいくつあるのだろうか。また頭痛封じに加え同じ頭の病気であるボケにも効果があると言う観音様も迎えてくれる。

また、こちらのもう一つの特徴は四国88か所巡りを一日で巡ることが出来る「お砂踏み法要」だ。大講堂の中に四国88か所のお寺から砂を集め、一か所ずつお砂踏みをしながら願いを込めて回るのだ。毎年921日~3日間の今熊野観音寺恒例の重要行事である。

普段は静かな境内で、つい数年前朱色鮮やかに塗りなおした多宝塔である「医聖堂」など丁寧に巡ればたっぷり小一時間かかる古刹である。

 

 

17番 雲龍院  本堂での写経で心を洗う

 

東山区泉涌寺山内町36

正式名称  別格本山 那智山雲龍院

宗派  古義真言宗

本尊  薬師如来

開基  後光厳天皇

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

参道に戻り泉涌寺の山門を左に見て、さらに東方奥に進むと雲龍院がある。筆者は知人を京都案内する時には、必ずメニューに入れるお気に入りの寺院だ。

雲龍院は、室町時代の北朝初代の後光厳天皇が開基であり南北朝統一時の後小松天皇まで北朝5代の天皇所縁の寺だ。楽しみは、庭と写経だ。まず手入れの行き届いた庭園を眺めながら一服のお茶を頂く。「悟りの窓」として有名な真ん丸の窓を通して、四季の変化を楽しむ。そして客間の一室の「色紙の窓」と言うのがこちらの最大の見どころだ。指定された座布団に座ると障子に四つの小さなのぞき窓、左から椿、燈籠、楓、松とそれぞれ違った景色が色紙のように楽しめる、季節によって主役が変わるのもうれしい。

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色紙の窓

また、本堂である「龍華殿」(重要文化財指定)の中で行える写経は是非おすすめだ。まず、「丁字」と言う木の実を乾燥させた特別なものを口に含み口内を清める。次に手に塗香をすり込み身を清める、その高貴な香りに気分も一気に引き締まる。最後に酒水(特別に祈祷された清水)を頭にかけてもらって心を清める。そこで初めて机に向かう。うっすら下書きのある半紙に朱の墨で丁寧に般若心経を書いていく。自分一人だけの龍華殿内は、完全な静寂である。仏と対峙しているとややもすれば恐怖感すら感じるが、一心に書いていると時間の経過も忘れる。完成した写経は仏前に納めて帰る。ひと時、室町時代にタイムスリップしたような高揚感を味会う。重要文化財と言う国宝に準じる建物を一瞬でも独占できるのはここだけではないか。

なお、寺宝には、土佐光信作の後円融天皇御真影、大石内蔵助の書いた「龍淵」の墨蹟など重要なものが多い。また北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇に加え、後水尾天皇以降多くの天皇の御尊碑が安置されるなど皇室との関係は格別である。

最後は、もう一度庭園を眺め、しばらく感慨にふけって帰ることにする。床の間に掛け軸

子子子子子子子子子子子子」

御存じのこの言葉遊びは、「ねこのここねこ、ししのここじし(の子子猫、獅子の子子獅子)」と読む。

 

18番 戒光寺 後水尾天皇の身代わり

 

東山区泉涌寺山内町29

正式名 泉山 戒光律寺

別称  丈六さん

宗派  真言宗泉涌寺派

本尊  釈迦如来

開基  浄業

「戒光寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

雲龍院から参道に出て、来た道を戻る。数分歩けば右手に戒光寺が見える。筆者は何度も見逃してしまったので、注意して訪問したい。拝観寺ではないので本堂に上がるには勇気がいる。古いガラス扉を開けると巨大な釈迦如来像が迎える。鎌倉時代に運慶・湛慶の親子が彫った丈六の像である。丈六とは仏の正確な身の丈である一尺六寸(4.85m)の仏像の事だ。当初は大宮八条にあり、一条戻り橋から三条へと転々とし後水尾天皇の発願により泉涌寺の塔頭寺として現在地に移転した。素朴な本堂の中で厳粛な中、圧倒的存在感の釈迦如来を拝む。この仏像は、「身代わりの丈六さん」と言われる。

実はこのような話がある。後水尾天皇は東宮政仁親王時代に皇位継承の争いに巻き込まれていた。ある日寝室で就寝中、暗殺者に寝首を掻かれた。ところがその時、このお釈迦様が身代わりになって自らの首を切らせたと言う。朝になって見ると確かに、仏像の首には血痕が残っていたのだと言う。現在もはっきりとその跡がうかがえる。訪れる人は余りないが、歴史マニアには見逃せないお寺だ。観光気分では行けないがこのような素朴なお寺にも是非立ち寄りたい。

 

19番 即成院  いつでもすぐ極楽に連れてもらえるお寺

 

東山区泉涌寺山内町28

正式名 光明山 即成9

宗派  古義真言宗

本尊  阿弥陀如来

開基  橘俊綱

「即成院」の画像検索結果京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

戒光寺のすぐ西隣の、即成院を訪れて泉涌寺を最後にしたい。 

現世極楽・来世極楽の両方を即日実現していただけるお寺である。阿弥陀様が25の菩薩を従えてあの世にお連れ下さる。まだまだ死にたくない人は、今日ではなく後日にすべきだ。

即成院は平安初期に恵心僧都の源信が創建したとも言われるが、平安中期の歌人橘俊綱が創立者である。当初、「臥見堂」と記録にあり「迎接之体」が安置されていたと伝わる。その迎接之体こそが、阿弥陀如来が諸菩薩を連れて亡者を西方極楽に導く仏像群の事である。そのうち10体は創建当時のものでその他15体も含め重要文化財だ。

注目は、その仏さまたちが一年に一回、本堂から出てきて「お練り行列」をしてくれる。「25菩薩お練供養法要」と言う当寺最重要行事である。(10月第3日曜辺りに開催)このように仏像のかぶり物をして動く仏が庶民の前に姿を現す趣向は全国各地で行われているようだ。京都府舞鶴市の松尾寺では「仏の舞」と言う重要無形文化財に指定されている行事が有名だ。こちらは阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来の3大如来が勢ぞろいする。

なお、当寺は平家物語の英雄那須与一の墓がある。海上遠くの平家が掲げる扇の的に見事矢を打ち抜いた武将である。現在は、的を射る事から「恋の的を射る」恋愛成就のお守りが配られる。

京都の寺院のお守りや絵馬はなんでも有りなのだ。

 

20番 龍吟庵 無関普門の幼い時の過酷な運命を現わす庭

 

東山区本町15丁目812

正式名 東福寺 塔頭

宗派  臨済宗東福寺派

本尊  宝冠釈迦如来

開基  無関普門

 

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泉涌寺第一山門を出ると、すぐ左に曲がると住宅地を抜ける東福寺への近道がある。しかし迷う事間違いないので、東大路に一旦戻り南に折れて三差路を左に道なりに東福寺へ向かう。

言うまでもなく奈良の東大寺と興福寺から一文字ずつ取って寺名を付けた臨済宗大本山だ。

その第一等の塔頭龍吟庵は、寺域の東北にある紅葉の絶景ポイントである「偃月橋」を渡ると正面にある。東福寺3世無関普門の居住宅跡でもある。国宝の「方丈」が最大の見どころだ。室町初期の現存最古の方丈建築物で、書院造に寝殿造りの風合いをとどめる貴重なものである。そして、東西南の三方の重森美玲作の見事な庭園群も良い。特に東庭は「不離の庭」(幼い無関普門が回復の見込みがない酷い熱病にかかり、山中に捨てられた時に2頭の犬が現れて狼からの襲撃を防いだとされる姿を石組で表わしている。)は、敷石が赤く何処の枯山水庭園とも違う趣を見せていて必見である。いずれも京都検定的には必須の知識だ。

紅葉の季節である11月に限定で公開している。例えば雪の積もる風景など見てみたいものである。

☞ しかし無関普門の親はむごい事をするものだ。回復不能とは言えまだ熱のある我が子を放置するとは。


647 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  1番~10番

2019-07-05 08:51:03 | 日記

この度の100寺シリーズを整理する。

地域別に巡礼順を考え、中京下京をスタートし周辺を巡り上京で完結する。

まずは、1番から10番を一挙公開。

 

1番 六角堂  京都のへそ

 

京都府京都市中京区六角通東洞院西入

山号      紫雲山

正式名(別称)  紫雲山頂法寺

開基・創建   聖徳太子

宗派      単立(天台宗系)

本尊      如意輪観音(秘仏)

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

京都の不動産物件を言う場合、「田の字」の内とか外とか表現する。碁盤目の京都市内でも北は丸太町通、中心の四条通、南の五条通、そして、東は東山通、中心は河原町通か烏丸通、西は堀川通を結び「田の字」と呼ぶ。その内側を京都の中の京都という意味だ。その中心地が六角堂だ。本当に境内には「京都のへそ」と呼ばれる石がある。

繁華街の寺町・新京極にも歩いて行けるし祇園界隈にも足を伸ばせば歩いて15分~20分で行ける。

頂法寺はその本堂が六角形なので通称六角堂と言うが、江戸時代の一時期六角ではなかったらしい。創建は聖徳太子だが、親鸞聖人が比叡山から降りてここで夢告を得た事でも有名だ。また、代々の住職が池坊を名乗り、華道の家元として有名になっている。数年前の映画、「花戦(はないくさ)」で詳しく描かれた。

御本尊は、如意輪観音(座像)だが、秘仏でお前立を拝む。お前立は6臂の観音様だが秘仏は2臂らしい。

平安遷都以前から行願寺(革堂)と並んで「町堂」として庶民に親しまれていた。平安京造営の時に通り道が寺のど真ん中に位置する事となり、取り壊しの危機であったが、お堂自らが北方に移動したと言う。現在は、聖徳太子に因み、「学業成就」の御利益を期待する人で賑わう。京都のお寺巡りの旅のスタートにはここ以外には考えられない。

2番 革堂   革の聖(ひじり)

 

中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17

山号      霊麀山(れいゆうさん)

正式名(別称)  行願寺

開基・創建   行円

宗派      天台宗

本尊      千手観音

 

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行願寺(革堂)の創建は平安時代で、創建当時は元の誓願寺近く現在の御所の東辺りにあった。革堂町や革堂辻子という地名にその痕跡を残している。他の寺院と同様に秀吉の政策によって、御所東の荒神口辺りに移転し、火事により現在の寺町通竹屋町に来た。

創建した行円は、以前狩猟を生業にしていた時、大きな雌鹿を射殺したところ腹から小鹿が産まれて来た。殺生は悪行と悟り僧籍に入る。その鹿の革を被って布教した為世間では「革の聖」と呼んだ。いつしか寺も革堂として親しまれる。

 

 ものがたり ① 「幽霊絵馬」

有名な「幽霊絵馬」には以下の伝承が残る。行願寺前の質屋に奉公していた子守の娘が、毎日寺の前で子供と遊んでいるうちにご詠歌を覚え子守歌のように歌っていた。しかしそれをこころよく思わない質屋の主人が、殴打したところ娘は命を落とした。慌てた主人は遺体を蔵に隠した。何も知らない両親が寺の観音様にすがってお願いしたら、蔵の中から娘の幽霊が出てきて真相を語る。たちまち主人は牢獄に・・・・・。絵馬には、「娘遺愛の鏡」が描かれている。

❔ 観音様のお慈悲があるのならば娘の命を守って欲しかった。(涙)

西国33か所19番、洛陽33か所観音霊場3番札所。また、境内には、都七福神の寿老人も祀られる。小さな境内だが、札所が重複していて賑わう。

 3番 瑞泉寺  関白秀次一族処刑の場所

 

中京区木屋町三条下ル石屋町114-1

山号      慈舟山

正式名(別称)   慈舟山瑞泉寺

開基・創建   立空桂叔・角倉了以

宗派      浄土宗西山禅林寺派

本尊      阿弥陀如来

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木屋町通りの三条大橋の南東に瑞泉寺がある。こちらは関白豊臣秀次の供養の寺である。江戸時代初期、角倉了以が高瀬川開削の折りに、地中から石碑を見つけたところ「秀次悪逆塚文禄4年・・・」と彫られている。筆者が晩年の秀吉を好きになれないのはこのような事からである。秀吉は自らの子が出来ない事を悟ると実の姉の長男を後継者として関白の地位まで押し上げた。孫七郎と呼んで可愛がった数少ない親族をここまで陥れるだろうか。しかも一族・妻妾もろとも斬首して三条河原に埋めたのだ。

秀吉存名中は、世間は遠慮して「畜生塚」と呼んでいたのだが、鴨川の氾濫で崩壊した。高瀬川開削時に散らばっていた遺骨を角倉了以と僧の立空が弔った。それが瑞泉寺の由来である。

木屋町通りから山門をくぐると、狭い境内に秀次供養塔と、殉死した家臣10名と妻妾たち39名に加え秀次の幼い子供の供養の為「五輪の卒塔婆」が建てられている。中央の石碑の「秀次悪逆」の文字は了以によって削り取られている。叔父秀吉こそが悪逆と言いたいが、太閤と称えられ現代においても英雄の秀吉の負の遺産である。

寺名の瑞泉寺は、秀次の法名瑞泉院による。京都は英雄の影の部分もしっかり残している。

 4番 誓願寺  落語の祖 安楽庵策伝の寺

 

京都市中京区新京極三条下る桜之町453

山号      なし

正式名(別称)  

開基・創建   天智天皇 勅願

宗派      浄土宗西山深草派

本尊      阿弥陀如来

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三条通を西へ、たらたら坂を下がり新京極を南へ数分歩くと誓願寺はある。

一方、上京区の西陣地区に元誓願寺通と言う東西の通りがある。今出川通の南、笹屋町通の北、東は新町通、西は七本松通間の短い通りだ。平安時代以前、天智天皇の勅願で奈良に創設されその後この地に誓願寺はあった。時代は過ぎ秀吉の寺町・寺の内政策で現在の新京極に移転さされたが、通り名にその歴史が残る。

門前には、月下氷人石(迷子道しるべ)と言う石碑が見える。携帯もメールもない時代、訪ねる人(迷子)を探す為に繁華街に設けられた掲示板・伝言板だ。よく出来た仕組みで、側面に探している人「たつぬるかた」別の側面に知っている人「おしふるかた」、を書いた紙を貼り探し出す。同様のものが、北野天満宮では奇人氷人石、八坂神社では奇縁氷人石がある。その誓願寺の本尊の阿弥陀如来坐像は、新京極通からお顔が拝める。通りがかりに手を合わせて行く人も多い。

55世の住職、安楽庵策伝は、「醒睡笑」で笑い話を集め落語の祖とも言われている。

浄土宗は、知恩院を総本山に、西山三派、禅林寺永観堂の西山禅林寺派、粟生光明寺の西山浄土宗、そしてこちら西山深草派など派閥争いの歴史でもあった。

浄土宗寺院は自由に本堂内にお参り出来る寺が多い。立派な阿弥陀座像の前にゆっくり座りひと時を過ごす。やはり浄土宗・浄土真宗系は何事も自由だ。

 

 

5番 誠心院  恋多き和泉式部のお寺

 

中京区新京極通六角下がる中筋町

山号      華嶽山

正式名(別称)  東北寺誠心院

開基・創建   藤原道長 

宗派      真言宗泉涌寺派

本尊      阿弥陀如来

 

 

 

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寺町通に寺院が集中しているのは、誰もが知っているように秀吉の京都政策の中で多くの寺院が移転させられた結果だ。従って、この通りには要注意だ。元からここにあった寺院とそれ以前には別にあった寺院とを混同してはならない。特に新京極と寺町の二本並列する四条から三条の間は特に注目だ。例えば、本能寺は信長が討たれた当時は堀川四条の北東地域にあった。前回書いた誓願寺は元は上京にあり「元誓願寺通り」という通名にその形跡を残す。それ以外にも、文徳天皇妃である藤原明子(あきらけいこ)が安産祈願した「染殿地蔵」伊藤若冲の菩提寺である「宝蔵寺」代受苦地蔵の「矢田寺」など見逃せない寺院が多い。

 

誠心院は、新京極の六角通辺りにある。別名「和泉式部寺」と言う。入り口には誰でも和泉式部になれる顔入れボードがある。境内は自由に入れる。創建の時代は藤原道長全盛時代で、道長が娘の一条天皇の皇后の一人彰子の為に法成寺内の東北にお堂を建てた事に始まる。言うまでもなく和泉式部は彰子が作った宮廷サロンに仕えていた。境内奥の墓地には、和泉式部の墓である宝篋印塔がひと際高々と存在していた。紫式部との不仲は有名だが、恋愛に関して赤裸々な和泉式部の歌には女性のファンが多い。筆者は源氏物語も相当なポルノ小説だと思う。女は怖い。

修学旅行やアジア人が散策する新京極の中心地にある。10分だけでも訪ねて見たい。

 6番 仏光寺  浄土真宗の苦難の歴史を今に伝える寺

 

下京区高倉通仏光寺下ル新開町397番地

山号     渋谷山

正式名    渋谷山佛光寺

開基・創設  親鸞  中興 了源

宗派    浄土真宗仏光寺派

本尊    阿弥陀如来

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四条通に出て高倉通りを下る。昨今、四条通は車道を片側一車線になり歩きやすくなった。

高倉通りから仏光寺通りの交差点を曲がると山門が見えて来る。京都一番の繁華街からすぐ南、綾小路通と仏光寺通の間に浄土真宗にとって大変重要な寺があるのだ。山門は東向きで阿弥陀堂・御影堂も本願寺と同じく東向きである。伽藍配置も本願寺と同様北に阿弥陀堂、南に御影堂(大師堂)となっている。

創建の歴史は、浄土真宗の苦難の歴史を物語る。「承元の法難」により追放された宗祖親鸞が、1212年京都に帰り山科に一宇を始めた興隆正法寺が仏光寺の始まりである。時代は、後鳥羽上皇の「承久の変」前夜の事である。1320年に中興の祖である了源が、布教活動の為東山渋谷に移転する(現在の国立博物館辺り)。寺格としての仏光寺はここを始まりとする。寺名は、後醍醐天皇により「阿弥陀仏光寺」と定めたことによる。一方その同時期、親鸞の曾孫の覚如により親鸞の廟堂が本願寺として一派を形成する。そして本願寺は応仁の乱の時代には、8世蓮如が隆盛を誇る。その流れに、仏光寺一派の経豪(後の蓮教)が、離反し蓮如に従い、山科に興正寺(興隆正法寺の流れ)を創設する。仏光寺は経豪の弟を門首にし秀吉から現在の場所に仏光寺の再建を許された。その後現在まで代々渋谷氏と名乗る住職が法脈を繋いでいる。勿論、現在は本願寺との争いはない。

以上、浄土真宗の内部争いと戦乱に巻き込まれ転々とした歴史である。寺宝には、「了源上人絵系図」などを持つ。境内は東西本願寺より狭いが、拝観料は要らずゆっくりお参りが出来る。浄土真宗のお寺はどちらもオープンである。

 7番 平等寺(因幡堂)   仏様も京の都がお好き?

 

京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町728

正式名 福聚山平等寺

創設  橘 行平

宗派  真言宗智山派

本尊  薬師如来

 

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仏光寺から烏丸通に出て10分ほど歩くと左手(東)に見えて来る。

創建は、平安初期の官吏橘行平。吉川弘文館発行の「京都古社寺辞典」によると、行平が因幡の国に赴任中、夢告を得て加留津(鳥取)の沖に光るものがあり、引き上げるとインド伝来の薬師如来であった。直ちにお堂を建てる。その後京都に戻ってら薬師如来が虚空を飛んで行平の自宅に来た為、自宅にお堂を創り祀ったと言う。また、広く伝わる話では、行平が因幡赴任中に重篤な病気にかかり夢でお告げがあり加留津の沖に薬師如来を見つけた。それに祈るとたちまち病気が治った。いずれ京都に戻る時にはお連れすると約束するが、自分だけ帰京すると、ある晩京の自宅に尋ねるものがいて出て見ると薬師如来が、空中を飛んで来たのだと言う。驚き丁寧に祀ったと言う話だ。いずれにしても仏様にとっても京の都はそれほど良い場所なのだろうか。

 

平等寺の名前は、その後平安後期、高倉天皇が命名した。現在は、がん封じの御利益で有名だ。善光寺の阿弥陀如来、清凉寺の釈迦如来と共に、日本3如来としても有名だ。創建当時から変わらずこの場所にある。多くの寺院が移転を繰り返す中、どの古地図を見ても、六角堂と薬師堂は今の場所に大きく表示されている。

因みに、烏丸通から一本東の車屋町通はここ松原以南は、「不明門通」と言う。ちょうど薬師堂の正門に当たり、そこが常に閉ざされていた為である。例えば、五条西洞院通の五条天神宮における「天使突抜通り」に似た発想の通り名である。こちらは通りが神社の中を突き抜けていた為だ。京都は地名も通り名も面白い。

 

 

8番 長講堂

 

京都市下京区富小路通五条下ル本塩竈町

正式名 法華長講弥陀三昧堂

宗派  西山浄土宗

開基  後白河法皇

本尊  阿弥陀如来三尊像

 

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4月13日は、希代の策士家である後白河天皇(法皇)の命日である。その日を「法皇忌」という。後白河法皇は歴史には度々登場する大物である。皇室の歴史上稀有の存在感があった。何しろ父の鳥羽天皇との確執から始まり、源義朝や平清盛などの源平の武将を手玉に取り、信念など微塵もなく皇室と自らの権力の継承だけを唯一の判断基準とした。その一方、「梁塵秘抄」という今様(現代の流行歌のようなもの)の集大成を書き残してもいる。加えて神社・寺社も多く創建し神教・仏教への帰依も深かった。三十三間堂(蓮華王院)は清盛からの寄進により出来たものだが、法皇の文化・宗教活動の発信基地でもあった。

長講堂は、仙洞御所(上皇の御所)内の持仏堂であったものを、秀吉の時代に現在地の六条富小路に移されたが、創建当時は相当広大な敷地にあったと思われる。現在は周囲約20m四方の一般的な檀家寺の趣である。門を入ると正面に本堂、左に書院。質素な庭園の右には後白河法皇像の安置されている御影殿となっている。普段拝観は行われず、観光寺院とは一線を画している。法皇忌に伺うと、本堂では御本尊の阿弥陀三尊像の前に50人ほどの信者さんがいて法要読経中であった。ちょっと親戚の多いご家庭の法事と言った感じで、とても後白河法皇の法要とは思えない。むしろそれが厳かな感じがして良い。筆者は片隅から丈六の阿弥陀如来を拝む。しっかりと黄金の輝きが残っていて輝いて見えた。創建当時のものであるが、光背は江戸時代に作り直したと言う事で残念ながら重要文化財指定のようで、筆者は国宝で良いのではないかと思う。書院の奥一段高い貴人席の背後には、後白河法皇御真影(模写)が掛けてあった。よく本で見る馴染みのお姿である。その他掛け軸や拓本された石碑の文字を表装した襖など寺宝の多さがうかがえる。

 

 

中庭は狭いが整った枯山水庭園である。因みに茶室は「亭雲」筆者は、寺の方に「停電」と読んで顰蹙をかった。一度出て、御影殿の方へまわり手を合わせる。桃の花が一木に赤とピンクの花を同時に咲かせていた。しばし受付の妙齢なご婦人と談笑し短い時間だが、落ち着いた時間と空間を堪能した。最後に、寺宝に「過去現在牒」というものがあるとお聞きした。法皇が歴代天皇を始め、義朝・清盛始め数々の法皇が関わった人物の名が直筆にて羅列されているものである。その中には歴史に名もない庶民の名もあり権力の闘争に生きた法皇が死に臨み本来の優しい人格を取り戻したのだと思いたい。周辺の佇まいも特別なものはなく一般的な住宅地にある。法皇の御陵のある大和大路七条の法住寺もそうだが巨大寺院でないところが良い。

京都地下鉄五条駅から10分だが、普段は門の前から拝むしかないので念の為。

 

 

9番 粟島堂宗徳寺  女人救済のお寺

京都市下京区三軒替地町124

正式名 法華長講弥陀三昧堂

宗派  西山浄土宗

開基  行阿

本尊  阿弥陀如来

  

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

京都駅のすぐ近くのリーガロイヤルホテルすぐ裏に、粟島堂はある。

京都のお寺は、○○寺 ○○院 ○○庵 ○○堂の4種類ある。院と寺は特に区別はない。寺の方が大きいような気がするが、知恩院という巨大寺院もある。庵はさすがに庵(いおり)とも言うべき小さなお寺のような気がする。堂はどうだろう。六角堂や革堂・因幡堂などの町堂のイメージがする。従って、それぞれ頂法寺・行願寺・平等寺とちゃんと寺名がついている。

しかし粟島堂は、宗徳寺内にある別のお堂という位置づけだ。神仏混合の時代の流れであろう。阿弥陀如来を本尊とする西山浄土宗のお寺の境内に、粟島大明神を祀っている。祭神は少彦名命でその本地佛である虚空蔵菩薩を安置している。

 

江戸時代後半、光格天皇とその皇后たちの度々の行幸があり、女人守護にご利益ありとされ庶民の人気を得る。安産祈願に限らず、子宮筋腫・内膜症や更年期障害など具体的な病名を挙げて効果ありとしている。また、人形供養を行う事から境内のあらゆるところに奉納された人形が安置されている。和洋様々な人形の展示は微笑ましいけれど、使い込んだ市松人形などは何か魂を持った女の子に見えてぞっとする。

 

また、境内には、

蕪村の句碑 娘の病気平癒祈願に訪れた 与謝蕪村が詠んだ句
「粟嶋へ はだしまゐりや 春の雨」の歌碑がある。

狭い敷地だが巡るポイントはたくさんある。

 

10番 観智院

 

宗派  真言宗別格本山

開基  杲宝・後宇多天皇

本尊  五大虚空蔵菩薩

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

東寺(教王護国寺)を訪ねると、季節によっては塔頭観智院の拝観チケットとセットで売っている。しかし東寺の賑わいと比べると観智院に訪れる人が少ないのが気になる。大寺院には必ず有力な塔頭寺があり必ず訪ねておきたい。

観智院は、東寺の北門から北総門に通じる櫛笥小路の東側にある。因みに西側には京都洛南高校があり近年短距離100m日本記録保持者の桐生選手の出身校だ。(執筆時点では元日本記録保持者)さらに重要なのは、この櫛笥小路だ。平安京の建設当寺の痕跡を現わす通りはほぼ衰退し今は存在しない。しかしこの櫛笥小路は東寺の敷地内にあった為奇跡的に創建の時代のまま残った。わずか100mほどの通りで桐生君なら10秒ほどで駆け抜ける道だが、道幅から創建当時の平安京の全体規模を推察するには貴重な遺跡である。

さて、観智院だが、室町時代初期に宋からの帰国僧杲宝により創建された。東寺の勧学院として修行・学習の寺として出来た。その後は真言宗全体の勧学院になっている。見どころは、国宝の客殿とその庭園、そして宮本武蔵作の絵画だ。まず、「五大の庭」と命名された庭園は、空海が唐の長安に学僧として学んだ後に日本に帰る時、嵐に遭遇するものの五大虚空蔵菩薩に導かれ無事帰国した様子を現わしている。

 

また、方丈内には宮本武蔵筆の「竹林図」「鷲図」がある。武蔵は一時期ここで剣と絵画の修行をしていたのだろう。本尊の五大虚空蔵菩薩は修復中の為、現在は見られないが、修復後は東寺と共に必ず訪れたい。そして櫛笥通を歩き平安京の創建当時の趣きを味わいたい。