アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

653 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  51番~60番

2019-09-20 08:50:19 | 日記

51番から60番を紹介する。  都の西北地区の果てまで古刹を求めて旅する。

 

51番 勝持寺

 

京都市西京区大原野南春日町1194

山号  小塩山

宗派  天台宗

中興  最澄

本尊  薬師如来

別称  花の寺

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

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正法寺から大原野神社の鳥居前を横切り、勝持寺に向かう。参道の途中、平安時代の遺構である「仁王門」をくぐる。なだらかではあるが長い上り坂を20分ほど歩く。「花の寺」と別称される名の通り四季折々の草花が楽しめる。南門にたどり着くと書院の受付を経て、阿弥陀堂から宝物殿である「瑠璃光殿」で重要文化財級の仏像を間近で拝見する。

勝持寺も創建は奈良時代だが、平安初期に最澄が伽藍を再建した。従って天台宗だ。隣の正法寺とは空海の真言宗と対をなす。しかし応仁の乱でほとんどの建物を焼失したのは同じだ。それにしてもこんな辺鄙なところにも応仁の乱の戦火が及んだのかと思うと恐ろしくなる。

有名なのは佐藤義清が出家した寺であることだ。鳥羽上皇に仕える北面の武士であった義清は、一説には待賢門院璋子に恋愛しその思いを断ち切る為に出家したと言う。佐藤義清とは、西行であり歌人として名を残すその人である。その西行が植えたとされる桜が「西行桜」として残っている。花の寺と言われる理由もここから来ているようだ。境内には天台宗ながら弘法大師ゆかりの不動堂があり「眼病平癒」の効果があると言う。同じ西山の柳谷観音にも同じく眼病に効く空海ゆかりお堂があり「独鈷水」が涌く。こちらは「瀬和井の泉」が涌いている。京都はどこにでも名水が湧き出るのである。

境内には100本以上のソメイヨシノが植えられている。やはり桜の季節に再び訪れよう。

 

52番 願徳寺 国宝 「如意輪観音半跏像」を間近に見る。

 

京都市西京区大原野南春日町1223-2

山号  仏華林山

宗派  天台宗(台密)

開基  持統天皇  中興 平忠快

本尊  如意輪観音半跏像

別称  宝菩提院願徳寺

 

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勝持寺のすぐ隣、2~3分で願徳寺の正門に着く。正式には、宝菩提院願徳寺という、その理由はあとで書く。門には、「拝観希望の方はインターフォンで・・・・。」との張り紙があり許可を得て横の通用門から入る。ここは宝物殿の国宝「如意輪観音半跏像」を見る為に来た。

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創建は持統天皇の「徳ある願い」により向日市寺戸に建てられたので、そこから「願徳寺」となった。そして三条東山の「宝菩提院」にいた中興開山の小川法印忠快(平清盛の甥)が、寺と共に願徳寺に移った為、冒頭の寺院名「宝菩提院願徳寺」と言われる。その後、応仁の乱などで荒廃した後、昭和になってこちら小塩山の勝持寺敷地に移転した。本堂・庫裏が再建されたのは昭和48年で、本尊の如意輪観音像などが寺に戻ったのは実に平成8年になってからである。室町の戦乱の影響がなんと平成まで続いていたと言う事だ。

宝物殿に一人で諸仏像と向かい合うと、しばしば何か怖い思いもするが、こちら国宝の如意輪観音様は、穏やかなお顔で伏し目がちの眼差しはちょうど跪くと視線が合う。しかも半跏踏み下げの形なので、座った形に安定感があり安心感が漂う。隣の薬師瑠璃光如来も現世利益をもたらす優しい表情である。しばし時の経つのを忘れて過ごした。その後、外に出たが本堂や方丈には入れない。まさに国宝と重文の仏像を見るだけだった。

登って来た勝持寺の参道の坂道を下って、次は難所の小塩山山上に近い「金蔵寺」に向かう。

 

53番 金蔵寺 王城の鎮護の為のお寺「西岩倉」

 

京都市西京区大原野石作町16

山号  西岩倉山

宗派  天台宗

開基  隆豊

本尊  十一面千手観音

 

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難所である。このシリーズでも「金胎寺」や「笠置寺」など修行の寺はハイキング気分では行けないと書いた。車でも行けるが、対向車との交差は不可能な狭い道を行く。

金蔵寺は淳和天皇陵のある小塩山の中腹にある。創建はこちらも奈良時代、聖武天皇から「金蔵寺」の勅額を賜った。そして平安遷都の折りに桓武天皇が「王城鎮護」の為に、都の四方に経典を埋蔵した。こちらは「西岩倉」という。因みに「北岩倉」は北白川の実相院や圓通寺がそれにあたる。「南岩倉」は河原町松原の不動院明王院であり、「東岩倉」は粟田口蹴上辺りの観勝寺だとされるが場所も寺院名もはっきりしない。「岩倉」は「石倉」とも書き、経塚と同意である。その様に意味深い寺院であるが、やっとたどり着いた駐車場から、さらに石段を登って本堂にたどり着くまで15分ほど登る。無人の山門の下に、寄進箱があり入山料500円を入れる。爽やかな汗をかいて程よくさびれた本堂を拝む。まさに経塚の埋蔵場所はその本堂の真下になるらしい。本堂など伽藍は江戸幕府将軍綱吉の母桂昌院の寄進により再建された。京都の八百屋の娘であったと言う「お玉」は、「玉の輿」の語源となった出世の女性だが、他に、今宮神社や西明寺、乙訓寺、善峯寺などを再建している。境内には、その御廟がある。また愛宕山からは「勝軍地蔵」を移転安置している。いずれも中に入れないが、それぞれのお堂の前で心を込めて拝んでこの西山のシリーズを終える。時々見える京都市内の眺めが絶景であった。

 

54番 西芳寺 各宗派の重鎮が次々に入山した寺院 そして夢窓疎石が中興

 

 

京都市西京区松尾神ヶ谷町56

山号  洪隠山

宗派  臨済宗

開基  行基  中興  夢窓疎石

本尊  阿弥陀如来

別称  苔寺

 

 

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ここからは西京から右京の寺院を巡る。言うまでもなく名勝嵐山を中心とした人気スポットを中心に古刹を散策したい。

西芳寺は、阪急桂線の松尾大社駅から徒歩15分ほどである。御神体である松尾山を背景に桂川の支流の橋を渡って入山する。開山は奈良時代の行基となっているので相当古いが、有名なのは中興開山である夢窓疎石だ。当初は、聖武天皇の勅願により行基が法相宗の「西方寺」という名で創建した。平安時代になって真言宗の宗祖空海が当寺の黄金池で放生会を行ったという記録が残っている。さらに、鎌倉時代になって浄土宗の法然が入り、弟子で浄土真宗の開祖親鸞も滞在している。そして、室町時代初期、臨済宗の夢窓疎石が再建したのである。現代では、世界遺産に認定された庭園が何よりも有名だ。金閣寺の庭園はこれを手本に作庭され、さらにそれを参考に銀閣寺の庭園も造られているので、日本の中世の庭園文化の原点である。

特別名勝庭園の庭園は、本堂で(お勤め)写経などを行う事が条件で、その後庭園に案内される。100種類以上の様々な苔が足元に広がる。踏まないよう注意して慎重に歩みを進める。苔は、夢窓疎石の時代にはなく江戸時代も末期になってからの事のようだ。京都は市内を脈々と流れる地下水があり、特にこの辺りは水脈が浅く、苔むすには適した環境らしい。

上段の枯山水の庭には、洪隠山石組が残っていて、昔は頂上では桂川を望めたと言われる。下段の池泉回遊式庭園が苔むす庭園である。黄金池という池の周りを巡って行く。途中、千少庵(利休の次男)再興の「湘南亭」がある。幕末、岩倉具視がここに身を隠したことでも有名だ。一周小一時間ほどかけて歩くが、他の寺では味わえない得も言われぬ神秘的な空間を楽しめる。

京都はやはり庭が良い。

 

55番 華厳寺  西芳寺の帰りに立ち寄る寺ではない。

 

京都市西京区松室地家町31

山号  妙徳山

宗派  臨済宗 単立

開祖  鳳潭

本尊  大日如来

別称  鈴虫寺

 

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西芳寺から徒歩数分のところにある。西芳寺の帰りに行くと書けば、華厳寺には大変失礼だ。しかし事実、昔、西芳寺の近所にあるという事で立ち寄る参詣者がある程度だった。それを、鈴虫を通年で見られる事や有難く面白い説法を聞けるお寺として、近年多くの参詣者で賑わう。むしろこちらを目的に団体で訪れる人も多い。

寺は、江戸時代中期、学僧の「鳳潭」が華厳宗復興の目的で創建した。現在は臨済宗の単立寺院である。また、山門近くの「幸福地蔵」が、願い事を一つだけかなえてくれるという。

なお、親切にもHPでは、悩みの相談を受けてくれる。

 

☞ 1万匹の音色

鈴虫寺は、昭和50年代になってから西芳寺が拝観者を制限すると発表した時に、その影響を心配した華厳寺が危機感を持ち独自の魅力を模索した。当時の住職が、鈴虫の音色が「悟りの境地」を感ずるとしてその飼育を始めた。試行錯誤の結果、現在は常時季節を問わず1万匹以上が成虫となって音声を聞かせてくれる。京都の寺院の中でもユニークな集客戦略?が当たった例である。

 

56番 法輪寺  京都の子供の知恵と芸事を司っている。

 

京都市西京区嵐山虚空蔵山町68

山号  智福山

宗旨  古義真言宗

開基  行基・元明天皇

本尊  虚空蔵菩薩

別称  嵯峨の虚空蔵さん

 

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筆者はよく遠来の観光客には最初にここ法輪寺に案内し本堂横の見晴らし台へお連れする。嵐山中腹から東の方を眺めると、遠く比叡まで見渡せて市内の地形や歴史をまず語るのである。

法輪寺は京都の子供たちには知恵を授ける重要な寺院である。開基は、奈良時代の行基だ。それにしても行基は空海と共に古代宗教界のスーパースターである。日本各地で土木工事に関わり、実に多くの寺院の開基となっている。法輪寺の本尊は虚空蔵菩薩だが秘仏である為、文化財指定は受けていないが、日本三大虚空蔵菩薩の一つになっている。残念ながらあと二つは京都以外なので筆者には興味はない。その虚空蔵菩薩は知恵や芸事の上達の守り仏である。興味深いのは寺域内にある「電電宮」だ。昭和31年に電気と電波の時代が来るとの事から、それらに貢献した学者や関係者を祀る神社を建立した。なんと、電気関係ではエジソン、電波関係からはヘルツが主祭神扱いされている。京都ではエジソンも立派な神様なのだ。

 

さて、平安時代の初期幼くして皇位についた清和天皇は、13歳の時にこちらにお参りし知恵を授かったという。それが「十三詣り」という風習で広まったと言われる。そして現代にも続く日本の良き風習だ。

☞大人になる為の「躾(しつけ)」十三詣り

法輪寺で知恵を授かった13歳の子供たちは一つの決まり事が伝えられる。それは帰り道、大堰川にかかる渡月橋を渡りきるまで振り返ってはならない。法輪寺境内から橋を渡るまで子供の足では15分以上かかる道のりである。自由に振舞いたい盛りの年頃の子どには過酷なルールであろう。意地悪な親戚の人たちが、後ろから「〇〇ちゃん・・・・。」と呼びかける。思わず振り返ると、「もらった知恵が逃げて行った。」と茶化す。子供は騙されたと泣く。そんな光景が昔はよく見られたと言う。

何故、そんな理不尽なルールを課すのか。「夜口笛を吹いたら蛇が出る。」とか、「鍋を頭にかぶると背が伸びない。」とかの類であり、意味はないが子供に躾ける為の「教え」の一つなのだ。13歳になったのなら、もう大人だ。「ならぬことはならぬ」と決めたことは守るのだと教えるいう京都人の矜持でもあろう。

 

57番 二尊院  あの世への送る(発遣)もお迎えの(来迎)もこのお寺で出来る。

 

 

京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27

山号  小倉山

宗派  天台宗

正式名 小倉山二尊教院華台寺

本尊  釈迦如来・阿弥陀如来

開基  円仁・嵯峨天皇(勅願)

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小倉山の山麓に4つの寺が連続する。南から常寂光寺、二尊院、祇王寺と続き、さらに愛宕念仏寺の順序で巡る。二尊院はまず寺名に興味がそそられる。発遣の釈迦如来、来迎の阿弥陀如来の二つの御本尊を持つお寺である。

正式には、小倉山二尊教院華台寺という。創建は平安時代初期の天台座主円仁(慈覚大師)で、鎌倉時代に法然の高弟の湛空が再興した。小倉山方向に向かって総門を入ると有名な「紅葉の馬場」が迎えてくれる。初夏の青紅葉も素晴らしい。壮大な本堂の正面には二つの本尊が、左右対称に立っている。筆者など一般人にはどちらが釈迦か如来かは分からない。向かって右が釈迦如来で来世へ送り出してくれる。左が阿弥陀如来で来世から迎えてくれるのだという。

 

☞皇室との関係も別格に深い。

土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の三代天皇の分骨位牌があり、皇室とのつながりが深い。後嵯峨の二人の子後伏見天皇と亀山天皇兄弟の皇位継承争いから、持明院統・大覚寺統の対立になりその後南北朝の騒乱へと続く、その原因をつくった3代の天皇が祀られているのが興味深い。

なお、本堂の勅額は後奈良天皇、唐門の勅額は後柏原天皇の親子が書いている。筆者が訪問した時にも御本尊の前には、平成の今上陛下・皇后陛下両殿下下賜と書いた日本酒が供えてあった。

勿論、桜の季節も美しく季節ごとの佇まいを見せてくれる古刹である。

 

58番 祇王寺 清盛を囲む女性たち

 

京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32

山号  高松山

宗派  真言宗大覚寺派

開基  良鎮

本尊  大日如来

正式  高松山往生院祇王寺

 

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こちらの苔庭も見どころだ

嵐山方面は、渡月橋から天龍寺前を通り竹林の中を、野宮神社から常寂光寺・二尊院と巡るのが定番の散策コースだ。途中JR嵯峨野線(福知山線)の踏切を渡る。近年、昔のアイドル歌手が線路に若干入り込んで自撮りし炎上したところだ。それ以来、線路に立ち入って自撮りする輩(やから)が増えたのは皮肉な事だ。二尊院を越えると景観保全地区の嵯峨鳥居本地区に至る。そこに祇王寺がある。因みに関係の深い大覚寺との共通券がありそれぞれ行くより200円安い。

祇王寺は、その複雑な物語と神秘的な庭園が見どころである。まず、創建は良鎮という浄土宗の僧が往生院として始めた。しかし平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が出家した事で歴史に名を残す。

遊女白拍子のドロドロ劇(死後も地下で大変)

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白拍子とは、女性が男性の格好をし踊りや音曲を披露し場合によっては伽の相手もした高級遊女である。若い清盛は祇王という人気白拍子を寵愛する。因みに母の刀自も有名な白拍子であった。清盛は親子ともども愛したのではないか。しかしその後、寵愛は仏御前という別の白拍子に移る。なんと仏御前は祇王の口添えによって清盛に近づいたのである。絶望した祇王はここ放生院で出家した。その為、寺名もその頃から祇王寺と呼ばれる。堂内には、母の刀自と妹の祇女に加え仏御前の像も並んで安置されている。一時4人はそろって仏道修行に励んだと「平家物語」には記されているが、さらになんと傍らには清盛の像もあり、地下ではどんな争いが起こっているのか心配する筆者である。

 

59番 滝口寺  こちらも現代では理解不可能な悲恋の物語

京都市右京区嵯峨亀山町10-4

山号  小倉山

宗派  浄土宗

本尊  阿弥陀如来

開基  良鎮

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嵯峨野の祇王寺を出るとすぐ隣にあるのが、滝口寺だ。いずれも往生院という念仏修行の大寺院の道場を始まりとしている。正式には三宝寺という。

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祇王寺の賑わいに対して訪れる人は少なく、入り口には「拝観の人以外撮影禁止」と張り紙があり、何かトランブルでもあったのかと訝しく思った。本堂なのか方丈なのか誠に普通の開け放たれた建物に、滝口入道と横笛の木造が並べて安置されていた。残念ながら手入れの不十分な庭を眺めながら境内を巡った。出口辺りには、太平記の主役の一人悲運の武将新田義貞と妻の勾当内侍の供養塔もあった。

さて、滝口寺とは以下の説話による。祇王寺と同様「平家物語」に残る有名な話である。

平清盛の長男重盛付きの侍、「斉藤時頼」は、西八条の清盛邸で建礼門院の女官の美女「横笛」の舞姿を見て恋に落ちる。父に気づかれ将来ある時頼に対して諦めるよう説得される。諦めきれない彼は、小松内大臣重盛への信頼を裏切ることは、これこそ「仏道への導き」であると悟り「出家」する。そして、滝口入道と名を変えた時頼は嵯峨野のこの地で念仏三昧の修行に入るが、ある時横笛が訪ねて来る。真の心を伝えたかったのだ。しかし修行の妨げだと面会を断る。さらに高野山へと修行の場を移す。一方、横笛も南都法華寺で尼になる。それを聞いた滝口入道は、一首の歌を送る。

 

そるまでは 恨みしかとも 梓弓 まことの道に 入るぞ嬉しき

横笛それに返して、

そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば 

 

現代の我々には到底理解できない「侍の恋と忠」の物語である。

明治になって、祇王寺と共に復興された時に、高山樗牛作の「小説滝口入道」に因んで滝口寺と通称した。

 

60番 愛宕念仏寺  1200体の修行中の羅漢さんと対話する寺

 

京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2−5

山号  等覚山

宗派  天台宗

開基  称徳天皇

中興  千観

本尊  千手観音

別称  千二百羅漢の寺 

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100寺巡礼の旅もいよいよ京洛西北の果てを目指す。祇王寺からさらに北に向かうと、途中、あだし野念仏寺がある。今回目指す、愛宕念仏寺といずれも念仏という文字があり京都検定的には紛らわしいが無関係のようだ。

あだし野念仏寺の方は、京都の葬送の地の一つ化野(あだしの)にあった無縁仏を空海が弔った事から始まった歴史の古いお寺である。その後、法然が念仏道場にしたことから念仏寺となり、江戸時代になって再興され、明治には近隣の石仏8000体を集めた事から有名になった。お盆には「千灯供養」が行われる。

そこをさらに15分ほど北に歩き、隧道(トンネル)の手前に今回の「愛宕念仏寺」がある。おたぎ念仏寺と読む。苔むした石仏の羅漢様が迎えてくれるが、当地における歴史は浅い。称徳天皇というから奈良時代末期の創建である。当時は現在の六波羅蜜寺のあたりにあった為、鴨川の氾濫に度々襲われ荒廃していたのを、平安時代中期、天台宗の千観が復興した。しかし再び荒廃し1000年の後、明治時代になって現在地の嵯峨野にて復興を試みるが失敗し昭和になって清水寺管長大西良慶の声掛けで本格的に復興した。その際復興の支援策で「昭和の羅漢彫り」と称して境内に羅漢さんを奉納したのが、目標を大きく上回り1200体と思いがけず多くになったのだ。従って、それぞれ作者が違い素人が彫ったもので表情豊かな羅漢さんが見られる。

 

この大西良慶師は、清水寺を法相宗興福寺の末寺に過ぎなかったのを、北法相宗という新しい宗派を立ち上げ独立本山にしたという大人物である。昔、徳之島の五つ子の命名をしたことでも有名だ。100歳を超えるまで辻説法を行っていた。因みに、清水寺には「中興堂」という建物がありそこに手厚く祀られている。

愛宕念仏寺は、普段訪れる人は少なくゆっくり本堂内や地蔵堂など内部を拝観できる。本尊の千手観音像や中興の僧千観像などを間近かに拝めるし、再建は昭和ながら寺の歴史を感じる寂れた感じは誠に落ち着く。羅漢様の一人一人をゆっくり眺めていると時間はあっという間に過ぎて行く。市内北限にある名刹である。


652 アチャコの京都日誌  光格天皇研究 ①

2019-09-19 08:22:25 | 日記

小生、先般より「京都産業大学 特別研究員」として、研究の日々であります。

ブログ更新も途絶えがちであります。

そこで、研究テーマ「光格天皇とその時代」の途中経過を時々発表します。

天皇所縁の蘆山寺

以下は、天皇の略年表であります。

 

     西暦  年齢

・明和8 1771 1  誕生                         家治  老中田沼意次 伊勢おかげ詣り

・安永8 1779    9  践祚 兼仁  欣子内親王誕生 

・安永9 1780 10        典仁親王 一品宣下 

・天明元 1781 11   元服    

・天明2 1782 12 尊号宣下願望                                                                      天明大飢饉

・天明5 1785 15        九条尚実 復僻 関白へ                                          ⇩

・天明7 1787 17 大嘗会   御所千度参り ・         家斉  老中松平定信  天明大飢饉

・           この頃病む                         寛政の改革

・天明8 1788 18 疱瘡病む 御所焼失                     高山彦九郎自殺

            後桜町上皇 天皇好学と褒める

・寛政元 1789 19 尊号宣下沙汰書 

                                                                                  御所完成

・寛政2 1790 20 勅問(尊号) 

・寛政4 1792 22 尊号宣下中止 不行状公家尋問

・寛政5 1793 23 天仁遠波伝授               定信辞職

・                                                                       寛政の改革緊縮政策

・寛政6 1794 24 欣子内親王16立后

                                   典仁親王死去      老中水野信明

・寛政8  1796 26 能書方伝授 三部抄伝授 伊勢物語伝授

・寛政9 1797 27    厄年 古今伝授   

・寛政10  1798 28 皇后20歳 御所 御渡 文化活動集中 

・寛政11  1799 29 人君の道教訓(後桜町)より

・寛政12  1800 30 皇后 若宮産む 儲君 直後死去

            仁考天皇(寛宮)誕生

・享和元 1801 31 天皇伊勢神宮に臨時奉幣使                                 辛酉革命改元  

・享和3 1803 33 入木道伝授

・文化元 1804 34                                                     甲子革命改元 

・文化4 1806 36 蝦夷騒動を幕府より報告

・文化5 1807 37 蝦夷ロシア船1件 幕府より報告

・文化6  1808 38 後桜町上皇70歳儲君寛宮と祝う

・文化10  8113 43                          後桜町上皇死去 

                     加茂社臨時祭復活翌年石清水臨時祭再興

・文化11  1814 44 皇后 皇子産む

・文化14  1817 47 譲位  復古院政

・文政元 1818 48 大嘗祭             閑院宮美仁親王死去 老中水野忠成  

・文政7 1824 54 修学院行幸

・文政10  1827 57        将軍家斉太政大臣へ 

                                  幕府の朝廷官位の上昇志向

・天保4 1833 63                         天保の凶作・飢饉

・天保5 1834 64 朝覲行幸復活             老中水野忠邦

・天保8 1837 67 日本書紀 講読会                  家慶         大塩平八郎の乱

・天保11  1840 70   光格上皇死去

・天保12  1841    諡号・天皇号 再興                     アヘン戦争 

・天保15  1844                                                天保改革失敗  

「光格天皇」の画像検索結果この方が光格天皇

そして次が、研究テーマ選定理由だ。

今上陛下(令和)即位に当り幸いに我々現代人は、300年を超える時代を経て(平成)上皇・上皇后陛下を戴くことになった。その300年前に皇統の危機を乗り越え、そして歴史上最後の上皇から直近の上皇になった光格天皇をこの度、研究テーマに選んだ。しかし、すでに藤田覚先生を始めとして、江戸時代の朝幕関係や光格天皇とその後の明治維新につながる近世政治史などについては、近年研究が急速に進み多くの著書があることが分かった。従って、広範囲に業績を残した天皇である為、生誕から崩御までを辿った上で、前期(即位から御所千度参りまで)・中期(御所焼失・尊号一件など復古への取り組み)・後期(譲位後の文化的功績と天皇号復活)と考え、今回は前期中心に光格天皇の帝王学と人格形成に影響したと思われる両親(閑院宮典仁親王・大江磐代君)と後桜町上皇との関係を合わせて調べ、象徴的な事件として「御所千度参り」を取り上げ、事件への光格天皇と朝廷及び幕府の対応を調べる。そして、出来ればその帝王学を象徴する「自身を後にし、天下万民を先とし」をどのように学び実践したかを自分なりに考察する。