アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

651 アチャコの京都日誌 令和に巡る京都100寺巡礼  41番~50番

2019-08-20 08:27:36 | 日記

50番まで 一気に公開する。

 

41番 善法律寺  紅葉が絶景の寺

 

八幡市八幡馬場88-1

宗旨  律宗

別称  紅葉寺

開基  実相上人

本尊  宝冠阿弥陀如来

 「善方律寺」の画像検索結果

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

京都の西南地区、八幡市に向かう。京阪電車の八幡市駅から歩いて15分ほど、また石清水八幡宮からも行ける。京都には足利家ゆかりの寺院が、等持院など多くあるが、明治から昭和にかけての皇国史観の中で一時期、逆賊足利尊氏というイメージが作られた。その為尊氏の功績は必要以上におとしめられた。ところが、最近の「室町ブーム」で、尊氏・直義兄弟始め足利家に注目が集まっている。

善法律寺は、三代将軍義満の母、良子の所縁の寺である。鎌倉時代に奈良唐招提寺の末寺として石清水八幡宮の域内寺院として成立した。その折、検校の善法寺宮清が自分の邸宅を寄進したのだ。その3代後の良子が2代将軍義詮に嫁ぎ、義満を産んだ。

見所は、紅葉だ。良子が事あるごとに立派な紅葉を移植した事による。別名「紅葉寺」と言われるのもうなずける。後醍醐天皇も訪れて派手に酒宴を催したと伝わる。足利家と決別する以前の話だろう。当然秋には観光客で賑わう。石清水八幡宮とセットでお参りしたい。京都は市内も周辺の寺院も素晴らしい。

42番 宝積寺  秀吉一夜造りの塔

 

乙訓郡大山崎町大字大山崎字銭原1

山号  天王山

宗派  真言宗智山派

開基  行基・聖武天皇

本尊  十一面観音

別称  宝寺

 

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ここから大山崎方面から西山地域を目指す。京都駅から15分ほどでJR大山崎駅に着く。駅前には、国宝の茶室がある「妙喜庵」。その脇をすり抜けて、東海道線の踏切を渡る。阪神間の基幹鉄道だけに、複々線に貨物専用線路もあり50メーター近い長い踏切だ。足の弱いご老人は急いで渡らねばならない。踏切を渡ると、宝積寺の参道がすぐに始まる。山崎の合戦で有名な天王山の登山道にほぼ重なる。ずっと登りが続く。一汗かいたころで、山門にたどり着く。

 奈良時代の創建で、開基は行基である。この辺りの土木工事に大きく貢献した奈良時代の高僧である。時の天皇である聖武天皇が、夢のお告げにより得た「打出」と「小槌」を賜り皇位についたと伝わる事から、「宝寺」と呼ばれる。重要文化財の「五重塔」通称「秀吉一夜造りの塔」を見たくて来た。また御本尊の十一面観音像など、寺宝が多い。

 「宝積寺寺」の画像検索結果

これが三重塔だが、逓減率の少ない美しい姿だ。逓減率とは、多重塔の屋根の幅が、構造上上になるほど小さくなるのが普通だが、その小さくなる度合いを、逓減率という。ほぼ同じ大きさで上層に至るので、存在感が大きく感じる。東寺の五重塔や、仁和寺の五重塔が美しいのは、下から上まで屋根の幅が余り変わらず、この逓減率が小さいからだ。秀吉は、この塔から天王山の戦いの状況を見ていたのだろうか。しかし、塔の創建は、1603年となっている。山崎の合戦が、1582年(天正10年)だから、それ以前に秀吉は亡くなっている。宝積寺の「秀吉一夜造りの塔」は、秀吉死後の創建だった。建てたのはどこの秀吉か。日本史上、秀吉と言えば豊臣秀吉以外に誰がいるのか。天王山のふもとにあるこの宝積寺の塔が、秀吉の功績に因み、そう呼んだ。それはそれでいい事か。京都や大阪の各地での、太閤伝説が嘘も真も含めて、色々根付いていることに思いをはせながら次に向かう。因みに、本堂の裏から、天王山山頂まではあとわずか、余裕のある方は山頂を目指すのも良い。また、周辺にはサントリーウイスキー工場や、ごま油搾油発祥の地「離宮八幡」など見どころが多い。

43番 楊谷寺  眼病に効く独鈷水は飲料にも良い

京都府長岡京市浄土谷2

山号  立願山

宗旨  西山浄土宗

開基  延鎮

本尊  十一面千手千眼観音(秘仏)

別称  柳谷観音

 

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大山崎からタクシーで、15分くらいかかる。縁日の日には送迎バスが運行されるが、普段は乗用車がお勧めだ。大阪府との府境近くの峠にある。開基は、延鎮上人であの清水寺の開基でもある高僧だ。有名になるのはその後空海が度々修行に訪れた事による。伝承によると、眼の見えない子ザルに親猿が堂内の湧水で一生懸命に目を洗っている。それを見た空海が14日間祈祷を行うと目が開いたという。その湧水を独鈷水(おこうずい)と命名し眼病に良いとされた。その後江戸時代初期、霊元天皇の目が悪く、この水で洗うと眼が良くなったという事で、評判が一気に広まったという事だ。その子、東山天皇のお后がここで祈祷し、後の中御門天皇が誕生した事など、親子三代に亘る関係から、中御門天皇勅刻(自ら彫った)観音様が奥之院の御本尊となっている。近世の天皇家とはかなり深い関係性がうかがえる。なお、独鈷水は今でも滔々と水が湧き出ていて飲料にも可能なので近所の方が自由に汲みに来ている。確かにまろやかな美味しい水であった。

また、本堂から奥の院に通じる途中の中庭庭園は特別名勝で「浄土苑」と言い斜面に見事に作られたもので、アジサイ寺とも言われる。6月ごろが一番の見所となる。因みに、毎月17日の観音様の縁日だけ入る事の出来る上書院は、中庭を見下ろせて絶景であり、映画「日本の一番長い日」で役所広司役の阿南陸軍大将が切腹するシーンに使われたところである。

縁日の中でも、2月17日には、吉野大峰山から山伏たちが来て「大護摩法要」が行われ一層多くの人で賑わう。護摩を焚く煙が遠くからでも見えるほどだ。参道石段から、本堂・書院・庭園を見物し上書院から渡り廊下で奥の院までじっくり見て、境内の西隅にある独鈷水までゆっくり回ると1時間ほどはすぐに過ぎる。大きな水筒やペットボトルをもっていけば湧水を持ち帰れる。

44番 十輪寺  塩釜伝説の寺

 

京都市西京区大原野小塩町

山号  小塩山

宗派  天台宗

開基  不詳 藤原明子(文徳皇后)安産祈願

本尊  延命地蔵菩薩

別称  業平寺

 

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阪急向日市駅が最寄りの駅だが、西山の寺院を巡るには自家用車が便利だ。京都駅からは30分ほどで、山陰街道や丹波街道・物集街道が複雑に交差する辺りから善峯寺を目指す府道向日善峯線を西に行くと、突然右手に見えて来る。十輪寺(なりひら寺)という石碑を見逃さないように注意して石段の参道を登る。目当ては塩釜跡である。現在日経新聞夕刊で連載の「伊勢物語」の主人公とされる在原業平の隠棲の寺である。薬子の変で敗れた平城天皇の直系であった為、皇位はおろか出世の望みの薄い業平は、その美貌と歌の才能を武器に数々の女性遍歴を重ねる。あろうことか、将来のお后候補と浮名を流すのである。すなわち藤原高子(たかいこ)後の二条后(清和天皇女御)との恋である。お后となり合えなくなった高子が近くの大原野神社に参詣の時、業平が十輪寺で「塩焼き」を行いその煙で自分の存在を示したという話だ。しかし難波の海から大量の海水を運び込み、それを窯で繰り返し焼いて塩を生成したのである。大阪湾から人力で海水を運ぶ下僕の苦労を思うと、筆者はロマンチックな気分にはなれない。その塩釜跡が本堂の裏手にある。

「十輪寺塩釜」の画像検索結果

本尊は、延命地蔵菩薩である。また花山天皇が西国巡礼の時に背負ったという十一面の禅衣観音(おいずるかんのん)も有名だ。なお、庭園は寝て見る、座って見る、そして寝転んで見るとそれぞれ趣の違いが味わえる「三方普感の庭」と呼ばれている。

創建は、文徳天皇妃である藤原明子(あきらけいこ)の安産祈願に地蔵菩薩を安置したことに始まる。染殿とも呼ばれる明子は四条寺町にも「染殿地蔵」という安産祈願寺院を作るなど熱心な信者であったようだ。その結果、後世に大きな功績を残す清和天皇を無事出産している。

狭い境内だが、庭と本堂横の展示物や住職との会話、そして癒し系の猫が何故か嬉しい密かに人気のあるお寺である。

 

45番 三鈷寺  2大仏7城俯瞰の寺

 

京都市西京区大原野石作町1323

山号  華台山

宗旨  四宗兼学

創建  源算

本尊  仏眼曼荼羅

別称  往生院

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十輪寺から善峯寺を目指すと最初の駐車場に、三鈷寺への登山口がある。一方、善峯寺の境内からも直結しているので、そこからの方が楽に行けるが、今日はあえて厳しい山道を登るとする。途中、あと三鈷寺まで 〇〇mという木札が立っているが急な登り道は、普段の鍛錬の足らない筆者にはきつい行程だ。

「2大仏7城俯瞰の寺」と呼ばれる絶景の眺めを期待し頑張る。2大仏とは言うまでもなく、京都方広寺の大仏、そして東大寺の大仏だ。7城とは、淀城、伏見城、二条城、大阪城、勝竜寺城、・・・・・。あと二つは?

さて、寺は平安時代に源算上人が往生院という草庵を結んだのが始まり、その後鎌倉時代に、慈円を経て証空になって浄土宗西山派の道場として現在の寺号になった。背後の山が仏具の「三鈷」に似ていたからという。

希望すれば住職の解説を聞けて本堂にも入場できるが、今日は一汗かいた後の京都市内の眺めが一番の御褒美とする。無人の境内でいっとき過ごして善峯寺を経由して帰る事にした。ただし、善峯寺のような大きな寺院を紹介するのは本稿の主旨ではない。

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46番 乙訓寺  本邦最大級の怨霊親王幽閉の寺

 

長岡京市今里3-14-7

山号  大慈山

宗派  真言宗豊山派

開基  推古天皇

本尊  合体大師 (空海・八幡神)

別称  牡丹寺

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乙訓寺は阪急長岡京駅から車で10分ほどだが、古い街並みに囲まれた古刹である。乙訓地域では格別古い歴史を誇る。推古天皇の時代に聖徳太子が創建したと言うが詳しくは不明だ。ただ、桓武天皇の長岡京遷都の時には、都最大の寺院として壮大な寺域に立派な伽藍が配置されていたという。歴史に名をとどめるのは、その長岡京建設時、責任者である藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕された早良親王がここに幽閉された事だ。無実をうったえる親王は、自ら食を絶ち死ぬ。そして平安初期最強の怨霊となる。なぜ怨霊となったか。怨霊になる条件は、高貴な人が、理不尽に、殺されるか自殺せざるを得なくなる。そしてその死後おとしめた側の人間に不幸が訪れるとたちまち「怨霊」に昇格する。生きたまま恨みを晴らすのは「生霊」、単にこの世に未練を残し出るのは「幽霊」である。筆者の知る限り怨霊は地位の高さと理不尽さで霊力が決まる。日本最高の怨霊である菅原道真は右大臣なので地位はそう高くないが、理不尽さが半端ではなかったのであろう。一方、早良親王だが、地位も理不尽さも兼ね備えた本流の怨霊になった。桓武天皇の弟であり次期天皇とされていた。しかし桓武天皇の第一子(後の平城天皇)が成長すると不要の存在となる可能性があった。さらに親王は出家して東大寺別当の地位を約束されていた、それを父光仁天皇の命で還俗して皇太弟になっていた。従って奈良仏教界がバックについていたのだろう。平城京での仏教界との関係を絶つ目的で遷都を思いついた桓武天皇からは警戒されたのだろう。真実は分からないが、その後「崇道天皇」という追号を贈っている事からして冤罪であった事は明白だ。

その早良親王幽閉の寺として訪ねて見たが、その印象は全く違って、今は、牡丹の寺として有名になっている。普段は訪ねる人もなく、拝観料は受付で払うが筆者が行ったときは人もいなかった。狭い境内の本堂など外から拝み、すでに散った牡丹の葉を眺めながら平安直前の大事件を考えて見た。

 

47番 粟生光明寺 「光明寺阿弥陀堂に抱かれ眠りたい。」贅沢な静寂を与えてくれる

 

長岡京市粟生西条ノ内26-1

山号  報国山

宗派  西山浄土宗

開基  蓮生  

開山  法然

本尊  阿弥陀如来

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乙訓寺から丹波街道を北東に行くと大きな駐車場が見えて来る。阪急長岡京市駅からはタクシーで15分ほどだ。紅葉の名所なので、その季節にはシャトルバスが出る。

光明寺という寺名は多いので、粟生の里にあることから「粟生光明寺」という。法然の念仏根本根元の地である。熊谷直実が源平合戦の折り、源氏の大将として参戦、一の谷の合戦の時、平家の公達の兜首を取るが、見るとまだ少年と見える若い平家の公達「敦盛」であった。人の無常を知った直実は、黒谷金戒光明寺で出家しこの地に入って、念仏三昧堂を建立した。光明寺の実質の始まりである。

大きな山門をくぐるとまっすぐ石段の表参道があり、左に曲がると紅葉坂というなだらかな参道と二通りある。いずれも紅葉の季節には絶景の赤いトンネルが出来る。

このお寺の魅力は、阿弥陀堂・御影堂共に自由に上がれて観光シーズンを避けて行けば静かな堂内でゆっくりひと時を過ごせる。夏の昼下がり広い阿弥陀堂の高縁にしばらくマッタリとした事がある。筆者の大学時代の唯一無二の親友は、「光明寺阿弥陀堂に抱かれて眠りたい。」と、書き残している。そして、その通り今ここに永遠に眠っているのだ。

☞ 法然の念仏への信念を込めた「張り子の御影」

法然の愛弟子に、住連坊・安楽坊という美声・美男子の僧がいた。そこに後鳥羽上皇の女官の鈴虫姫・松虫姫二人が、上皇の留守中に出家するという事件が起こった。怒った上皇は僧二人を死罪にし関係者の処分を行う事となった。事件は仏教界旧勢力の法然の専修念仏への反発もあったのだ。法然自身は四国への流罪が決まった。その際弟子から「何か形見になるものを」と所望された時、懐から自分の母からもらった手紙を出し、それを水に浸し自分の姿に似せて御影を作ったという。13歳で出家した時の手紙をその時75歳であった法然は、大切に肌身離さずもっていたものである。それを弟子に託し、専修念仏への強い信念を示したのであろう。長く嵯峨の二尊院にあったものを現在ここに安置されている。

この事件は後世、「建永の法難」と呼んでいる。

その「張り子の御影」が、御影堂奥に安置されている。それを遠目に拝むのである。門徒の根本がここにあった。

 

48番 穴太寺  亀岡の里にひっそりと佇む古刹 武家屋敷の名残が窺える

 

 

亀岡市曽我部町穴太東辻46

山号  菩提山

宗派  天台宗

開基  文武天皇(勅願)

本尊  薬師如来

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

次はちょっと足を伸ばして亀岡の古刹に行く。JR亀岡駅から車で15分、京都縦貫道亀岡インターから10分ほどで穴太寺がある。創建は奈良時代文武天皇の時だ。

境内は出入り自由だが、本堂と庭園には拝観料がいる。早速本堂に上がり身代わり観音の前に立つ。秘仏なので前立を拝む。本尊の薬師如来も秘仏でこちらは公開の予定もない完全秘仏である。正面右奥には、明治になって発見された寝姿の釈迦如来の木造がある。北枕で横になり本当の布団まで掛けられていて、いわば仏像の涅槃図であり大変貴重なものである。自分の悪い所を撫でて自分のそこに当てるとよくなるらしい。発見されるまで屋根裏に隠されていたものを、信者の霊夢により発見された。

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方丈の庭も手入れが大変行き届いている。武家屋敷を転用したもので、隠し部屋があるなど手の込んだ構造である。山門横の多宝塔を借景にした池泉回遊式の庭園は亀岡屈指の名勝となっている。ちょうど梅の満開の時で、境内にはアマチュア写真家が多く三脚を建てていた。完成度の高い古刹である。

☞ 「身代わり観音」悪人も改心させる観音様の慈悲

見たかったのは、「身代わり観音」である。今昔物語集に以下の話が伝わる。昔(室町時代か)強欲な宇治宮成と言う人が信心深い妻の勧めで金色の観音像を京の仏師に彫らせた。お礼に愛馬を渡すが急に惜しくなり、帰り道待ち伏せしてその仏師を射殺した。ところが帰って見るとくだんの観音様の胸に自分の矢が刺さり血が滴り、観音様の目には血の涙が出ていた。仏師と、罪人になる自分の両方を助ける為に身代わりになったのだった。罪を悔いた宮成は、このお寺の薬師如来のそばにこの観音様を安置した。秘仏で33年に一回の御開帳があるらしいが、本当に胸に矢傷が残っているとの事である。

 

49番 正法寺  洛中の絶景を借景にした庭園

 

京都市西京区大原野南春日町1102

山号  宝寿山

宗派  真言宗東寺派

本尊  三面千手観音

開基  智威大徳 中興 空海

別称  石の寺

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

京都西山大原野地域に歴史ある寺が4つある。淳和天皇陵のある小塩山山麓にそれら古刹は洛中の都市化・近代化に背を向けて残っている。正法寺は阪急東向日駅から車で20分ほど、桜の季節にはソメイヨシノ・枝垂れ・八重桜と順繰りに楽しめる。伺った時は、八重桜の散り初めの時で春の名残を味わった。駐車場に出店を出している男性が、駐車場に入った時から眼差しを向けている。よほど珍しい訪問者なのか。確かに連休中にも関わらず帰るまで、檀家さん以外訪ねる人はなかった。出店の男性は何か珍客に話しかけるように聞いて来たが省略する。でも、こんなお寺が大好きだ。

正法寺の創建は奈良時代だが、「西山の弘法さん」と言われるのは平安初期に空海が中興したからだ。本尊の千手観音はお顔の左右に化仏を従え三面となっている珍しい形状だ。まずは本堂内でたった一人、しばし過ごす。愛染明王や薬師如来もありがたい。また方丈の方には、大黒天が嬉しそうに走り出している。「走り大黒天」でいち早く我々に幸福をもたらしたいのだと言う。

そして見どころは、方丈縁側から見る庭園からの絶景だ。はるか京都市内を借景にした壮大な白砂庭園だ。寺のパンフレットには「白砂に浮かぶ鳥獣 春夏秋冬の 名園」と、紹介されている。誰もいない中で景色を独占する。

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また、近年建て替えたらしく、本堂・方丈は明るく襖絵は現代作家によるものだったので、何か普通の金持ちの邸宅にお伺いしたような印象だった。

 

50番 勝持寺

京都市西京区大原野南春日町1194

山号  小塩山

宗派  天台宗

中興  最澄

本尊  薬師如来

別称  花の寺

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

正法寺から大原野神社の鳥居前を横切り、勝持寺に向かう。参道の途中、平安時代の遺構である「仁王門」をくぐる。なだらかではあるが長い上り坂を20分ほど歩く。「花の寺」と別称される名の通り四季折々の草花が楽しめる。南門にたどり着くと書院の受付を経て、阿弥陀堂から宝物殿である「瑠璃光殿」で重要文化財級の仏像を間近で拝見する。

勝持寺も創建は奈良時代だが、平安初期に最澄が伽藍を再建した。従って天台宗だ。隣の正法寺とは空海の真言宗と対をなす。しかし応仁の乱でほとんどの建物を焼失したのは同じだ。それにしてもこんな辺鄙なところにも応仁の乱の戦火が及んだのかと思うと恐ろしくなる。

有名なのは佐藤義清が出家した寺であることだ。鳥羽上皇に仕える北面の武士であった義清は、一説には待賢門院璋子に恋愛しその思いを断ち切る為に出家したと言う。佐藤義清とは、西行であり歌人として名を残すその人である。その西行が植えたとされる桜が「西行桜」として残っている。花の寺と言われる理由もここから来ているようだ。境内には天台宗ながら弘法大師ゆかりの不動堂があり「眼病平癒」の効果があると言う。同じ西山の柳谷観音にも同じく眼病に効く空海ゆかりお堂があり「独鈷水」が涌く。こちらは「瀬和井の泉」が涌いている。京都はどこにでも名水が湧き出るのである。

境内には100本以上のソメイヨシノが植えられている。やはり桜の季節に再び訪れよう。