アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

915 新シリーズ 令和に巡る京の神社  第28番 橋姫神社 「丑の刻参り発祥の神社」

2022-03-24 09:17:47 | 日記

第28番 橋姫神社

 

宇治市宇治蓮華47番地

主祭神    橋姫/瀬織津媛

人の願いには様々に複雑な事情がある。「縁切り」については、第20番 櫟谷七野神社で詳しく述べた。次に訪れる橋姫神社は、もっと深く「呪いをかける。呪い殺す。」というような恐ろしい神社である。

宇治橋の西へ徒歩数分のところにある。元々は宇治橋の創建以来「三の間」と言われ橋の中央に出張った欄干上にあった。洪水で流され現在地に移ったが、その伝説がすごい。

まず、平家物語に登場するのは、ある公家の娘が夫への嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願ったら、神託があり、鉄の輪をかぶり松明を身に着け、口にも火をつけた松明を加えた(呪いの装束)異形で、宇治川 に21日間浸かり鬼と化した。そして人々を取り殺したという。後日この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となりここに祀られたという。現在の「丑の刻参り」に繋がっていった。また、山城国風土記にも話は別だが逸話が残っていて、『古今和歌集』には「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」という歌もあり登場人物は『源氏物語』第四十五帖【橋姫】に登場する大君と中の君であると推察できる。

訪ねて見て驚くのは、見逃しそうな小さな祠であることだ。敷地は上林家の表札。恐らく宇治茶の伝承者「上林」のゆかりの邸宅なのだろう。神社と言えるかどうかの社殿には、残念ながら威厳はなく、手入れもされていない。これでは橋姫の御魂も安らかとはいかない。昨今、ストーカーや不倫騒動など男女の怨恨に関わる事件が多いのは、橋姫のいたずらかも知れない。一夜のアバンチュールを楽しむのは昔も今も変わらない。しかし平安の昔は、和歌を交わして夜忍びそして後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しみつつ分かれたのである。次々とパートナーを探し、都度の縁切りも重要なけじめであった。橋姫の出番も不要だったのかも知れない。

なお、貴船神社の伝承、謡曲の「鉄輪」(かなわ)では、『後妻を娶った男を先妻が恨み、貴船神社に詣でたところ「赤い布を裁ち切り身にまとい、 顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ろうそくを灯せば鬼となる」とお告げを受ける。男は悪夢に悩み安倍晴明の元を訪れ鬼となった先妻と対決して鬼は消え失せる。』というもので、「宇治の橋姫」の物語が元になっているが男女が逆となっている。

蛇足だが、「呪い殺す」は、古代では重大犯罪だが、現在の法治国家では「不能行為」として罰せられることはない。しかし、丑の刻(午前2時)ごろ神社内に侵入すると不法侵入罪の可能性がある為、慎んだ方が良い。

何故か、境内にはここから原子力発電所までの距離を表示してある。


914 新シリーズ 令和に巡る京の神社   第27番 宇治神社・宇治上神社

2022-03-21 21:00:46 | 日記

第27番 宇治神社・宇治上神社

仁徳天皇陵、10月に発掘調査へ 世界遺産登録後初めて - 産経 ...仁徳天皇と御陵

宇治市宇治山田1

主祭神    菟道稚郎子命

宇治神社と宇治上神社は、セットで訪ねることになる。宇治川沿いの早蕨の道からまず、宇治神社の赤い鳥居をくぐる。すぐに桐原水の井戸が右に見える。ここにも豊かな清水が湧き出る。石段を上がって三間社流造りの本殿を訪ねる。こちらは重要文化財である。そして、すぐ奥の世界遺産で国宝の拝殿・本殿をもつ宇治上神社を目指す。歩いて数分だが、何か背中を押されるような不思議な感覚が襲う。

まず拝殿は、「単層切妻造 妻庇付き 檜皮葺」と由緒書きに書かれているが、単純に眺めていて圧倒されるような横長の落ち着いた威厳を感じる。科学的測定により1215年(鎌倉時代)とされるが、室町時代、応仁の乱の為平安時代以前の建造物がほぼ焼失した京都では神社様式とは言え、当時の建築様式を伝える貴重な木造建築物である。さらに、本殿は内殿三社と覆屋とに分かれる。つまり御祭神3柱を祭る本殿を、包むように覆屋が建てられていていずれもが国宝指定されている。内殿は一間社流造、檜皮葺。覆屋は五間で梁行三間の流造、檜皮葺。建築年代は1060年と推定され間違いなく神社建築物の日本最古のものである。覆屋の存在が大きく現在まで当時のまま保存された。専門家にとっては藤原時代の好みを伝える大変興味深い建造物なのだと言う。心静かに本殿前に進むと、覆屋の中の御神体は暗くてすぐには確認できない。古代の人々はその神秘性に心を奪われたと思うし、このように浪速の都から遠く離れ、御祭神を封じ込めるように建てたこの社には深い意味が隠されているように思う。

以下にその背景を書く。まず、歴史は勝者の記録である。従って、おおくは事実ではない。多くの歴史の定説はほとんどを疑う必要がある。滅亡した前王者が余りにも人望がなく、負けて当たり前だ。というのが典型的論理建てである。鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も最後の執権や最後の将軍は歴史的には評判は悪い。また、平和裏に譲り受けた政権も疑う必要がある。前王者にさして失政がない場合や大きな戦争がなかった場合も不自然である。大国主命の国譲りなどが典型例だ。

今回の宇治・宇治上神社の御祭神菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は、15代応神天皇の皇子で父からは皇太子として指名されていた。ところが即位したのは、兄の仁徳天皇であった。その経緯を説明する。当時、相続した権力をなるべく安定的に長く発揮できるように、一番若い末子相続は基本的考え方であったので、兄より弟の相続は自然なことだったはずだ。ところが菟道稚郎子命は父の死後、一転即位を辞退する。お互い譲り合って1年以上の空白を生じる。最終的に浪速の都からこの地に退いた皇子は自殺する。そして仕方なく即位した仁徳天皇はここに鎮魂の神社を建てた。誠に不自然なお話で、仁徳天皇はその後「民のかまど」の美談を残し、世界有数の巨大古墳をつくりそして「仁」と「徳」という最高の諡号を贈られた天皇になる。少し持ち上げすぎではないか。筆者は、幼少期、堺市の大仙にある仁徳天皇陵のすぐ近くに住んでいたが、なぜこのような巨大墳墓が必要なのか子供心に疑ったものだ。神社に話を戻すと、菟道稚郎子命が余程強い恨みを持って死んだ為に、怨霊となって祟られることの無いようにしなければならなかったと考える方がしっくり行く。そして、仁徳天皇は立派な天皇でなければこの経緯を説明できないと考える。つまり1年以上に及ぶ皇位継承の闘いが続き、大きな戦争があったと考えたい。後継者同士の争いは珍しくはないが、仁徳天皇は余程警戒心の強い方であったか、あるいは強い恨みを買う卑怯な手を使ったのかも知れない。筆者は、子供の頃は仁徳天皇陵に近いところにいたが、現在は奈良の仁徳天皇の皇后の陵のそばに住んでいる。皇后は人一倍嫉妬心の強い女性であったようで、仁徳天皇はそのことでも大いに苦労したようだ。決して絶対的権力を確立した天皇ではなかったかも知れない。

帰り道、即位前には兄弟ケンカし勝ったが、即位後夫婦ケンカでは大敗北した可哀想な仁徳天皇の姿が目に浮かんだ。

 

宇治神社鳥居

拝殿前

宇治上神社鳥居

国宝拝殿

国宝 本殿

 


913 新シリーズ 令和に巡る京の神社   第26番 県神社

2022-03-20 08:37:03 | 日記

第26番 県神社

京都府宇治市宇治蓮華72

主祭神    木花開耶姫命

 

神社の「祭り」というのは、つい近年までは唯一の娯楽であった。ゲームもなく旅行も制限される庶民にとっては、地元の「祭り」が何よりの楽しみであったはずだ。特に若い者たちは「無礼講」と称して、夜通し遊び通すことが許された。勿論、若い娘でも多少羽目を外すことを大目に見られた。つまり普段制限された男女の出会いが生じる機会になったのである。昔のモラルが極端に低い訳ではない。

今回の県神社の「暗闇の奇祭・県祭り」のクライマックス「梵天渡御」では、祭りの日の深夜に一切の明かりを消して、神の依代である「梵天」が地域を練り歩く行事である。その際、各町内では男女が雑魚寝してその渡御を待つ。祭りは暑い夏の夜だ。酒など振る舞われ若い男女が一緒に寝ていればおのずからすることは決まっている。その為別名「種貰い祭」ともいった。他の地域からも出会いを求めて若者が集まったと想像する。早速ユーチューブでその模様を見てみたが、「梵天」を激しく回す「ぶん回し」など勇壮で健全な様子であった。御祭神である木花開耶姫命が美女の神であり、一方近くの宇治神社の御祭神が男神であることから、そのようなロマンチックな想像になったとも思うが、風紀の厳しい昨今我々の期待するような「お楽しみ」はもう絶滅した。なお、日本全国の御祭り行事には、今でも男根に似せた物を「神輿」にして女性がまたがるなど、性をおおらかに表現する行事は多い。

県神社のある場所は、平等院の南門、宇治川の「喜撰橋」近くの交差点にある。平等院はいつも待ち時間が出るほど賑わうが、こちらは普段訪れる人はまばらだ。鳥居をくぐるとすぐ、古から和歌に歌われた「縣井」の手水が左手にあり、境内の木々は「縣の森」と呼ばれる。本殿まで10メーターほどの距離だが、境内には「梵天」が飾られてあった。前回使用のものか。巨大な「御幣」に圧倒される。

心を込めて作法に則り手を合わせ祈る。ご利益は、商売繁盛・良縁祈願・安産祈願、ここまでは良い。最後に、腹痛・下の病と、下の病?無礼講の後は、人に言えない下の病を患うのか?恐らく、コロナではないだろう。今年の祭りは、6月5日、その夜中、近隣の家々を訪ね歩いてみよう。


番外   世界平和を今こそ  日本中の神社へ「平和への祈願」を!!

2022-03-09 08:20:55 | 日記

ここまでの掲載神社一覧。

すべての神社に、ウクライナ戦争の平和的終結を願う。

 

第1番 文子天満宮

第2番 菅原院天満宮

第3番 新熊野神社

第4番 吉祥院天満宮

 

第5番 綾戸国中神社

第6番 六孫王神社 

第7番 木島坐天照御魂神社(このしまにましますあまてらすみたまじんじゃ)

第8番 梅宮大社

第9番 貴船神社

第10番 崇道神社

第11番 八大神社

第12番 三宅八幡宮

第13番 金札宮

第14番 御金神社

第15番 若一神社

第16番 わら天神

第17番 福王子神社

第18番 平岡八幡宮

第19番 建勲神社

第20番 櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)

第21番 白峰神宮

第22番 晴明神社

第23番 水火天満宮

第24番 首途八幡宮

第25番 太田神社


912 新シリーズ 令和に巡る京の神社   第25番 太田神社

2022-03-08 10:25:37 | 日記

 

第25番 太田神社

京都市北区上賀茂本山340

 

御祭神 天鈿女命(あめのうずめのみこと)

 

創建は不詳だが、上賀茂神社の摂社であるものの、その鴨神社よりも歴史は古い。御祭神の天鈿女命は天照大神が天の岩戸に隠れた時に、御前にて裸踊りをした神である。ストリップ界の歴史上最古?と言われる神である。従って、芸能上達や長寿を願う神社となっている。

堀河通りのドン付き加茂川を御園橋で渡り、近年改装され綺麗なロータリーとなっている上賀茂神社前を通り、伝統的建造物群保存地区である明神川沿いを通り太田神社に向かう。鳥居をくぐり砂利道の参道を行く。緩やかな上り坂の奥には、一間社流造の本殿と、拝殿は「割拝殿」(わりはいでん:中央が吹き抜けて通れる拝殿)という古い形式となっている。

境内にある摂末社を以下に書き出す、

白鬚社 - 祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと)

百大夫社 - 祭神:船玉神(ふなたまのかみ)

鎮守社 - 祭神:大国主神(おおくにぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)

福徳社 - 祭神:福徳神

さて、こちらの見どころは、「大田ノ沢のカキツバタ群落」(国の天然記念物)で、5月上旬から中旬にかけての開花時に、沢(池)一面に濃淡さまざまな紫色の花をつける。「いずれアヤメかカキツバタ」と選択の難しい例えや美しい女性たちの誉め言葉に使うくらい、アヤメとカキツバタは区別がつかない。アヤメ(菖蒲)には花びらに網目模様がある。カキツバタ(燕子花・杜若)は染料に使ったことから「書付花(かきつけ花)」とも言った。

菖蒲(しょうぶ)とも違う。大田ノ沢はカキツバタ群落とともに、昭和14年(1939年)に国の天然記念物に指定された。『千載和歌集』の編者で著名な藤原俊成が、

神山(こうやま)や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ

と、詠んでいる。歌の大意:「神山(賀茂別雷命の降臨地)の近くにある大田神社のかきつばたに、深くお願いする色事は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なのだろうか。」

裏山は、散策できるように案内板や安全ロープが設置されているようだが、今回は神社のみお参りする。帰り社務所で「由緒書」のみいただき、心づけ100円だけ置こうとすれば「結構ですよ。」と、お嬢さんが言う。上品な印象が良い。近所の若奥さんと世間話に花が咲いている。どちらもきれいな京都弁。いずれアヤメかカキツバタであった。立てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹(ぼたん)歩く姿が菊の花。も思い浮かんだ。

近くには、北大路魯山人の邸宅もある。当然、明神川沿いは歩いて散策して帰るようにしたい。気分は一気に時代は平安京の時代に戻る。

※伝統的建造物群保存地区

「上賀茂神社を中心に、神官(社司と氏人)と農民によって門前集落が形成され、室町時代から神官の屋敷町として発展してきた。神社の境内から流れ出る明神川に沿って、「豕扠首(いのこさす)」という独特の妻飾りを持つ社家(神官の屋敷)が建ち並び、土橋、土塀、門、前庭の樹木と一体となって、社家町の歴史的景観を今に伝えている。」

京都観光「Navi」より