アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

676 生きてるだけで丸儲け  ㉖ コメディーNo1 坂田利夫 前田五郎 「アホの坂田。」は賢い?

2020-02-29 06:58:02 | 日記

 コメディーNo1  坂田利夫・前田五郎

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筆者、幼少の頃。クラスの坂田君は、みんなから「アホ、アホ。」と言われた。「アホの坂田。」は一世を風靡し大阪の教育委員会が、注意喚起したほどだ。それほどコメディーNo1は、強烈なデビューであった。

ちょうど、やすし・きよしの第1次のブームの時で、やすしの最初の事件?で、休業中。その代役にコメディーNo1が多くの番組で抜擢された。坂田と西川きよしが特に親しく、新喜劇より漫才の方が儲かるという理由で、漫才転向を勧めた。坂田利夫は、一時西川きよしとヘレンとの新婚家庭に下宿していたほど親しい。

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初期は、体を張ったコントが多かったが、途中から結構本格派漫才をしていた。前田が真っ当に話し、坂田がアホな突っ込みをして笑わせた。二人の人気を盤石にしたのは、ラジオ大阪の「ヒットでヒット。バチョンと行こう。」という深夜番組だった。途中、まだレコードに針を置く前に曲名を当てるクイズコーナーが売り物で、筆者も必死に聴いていた。因みに、近くの千日劇場の大火災が番組の最中に発生し惨状を中継していたのが妙に印象に残っている。

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その後、前田五郎の中田カウスへの脅迫事件で、前田が首となりコンビは事実上解散となった。その後の漫才ブームには、全く存在しなかった。ただし、ピン芸人となった坂田利夫はその後もしぶとく生き残り、新喜劇にも出演するなど、関西発のドラマや映画には貴重な役者となっている。坂田利夫は、アホではなかった。現在に至るまで独身。結婚歴もない。

 

 


675 生きてるだけで丸儲け  ㉕ 桂 福団治  上方落語会の重鎮 

2020-02-28 07:41:30 | 日記

生きてるだけで丸儲け!

㉕ 桂 福団治

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筆者、若い時(いつやねん昭和50年前後か)桂福団治・桂枝雀・笑福亭枝鶴の3大襲名披露があった。それぞれさらに大看板に向けての予感がする本格派の大物落語家の襲名だった。枝雀は、ご存知天才の名を欲しいままにした関西落語会の至宝である。生きていれば米團治も米朝も襲名する可能性のある人物だった。(本人は絶対拒否しただろうが)枝鶴は、5代目松鶴の実の長男である。6代目襲名の予定があった。(因みに彼は放蕩癖があり。この後しばしば失踪した上に除名となった。)

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そして、福団治は、3代目春団治の直系の弟子で、福団治は春団治の襲名前の名前だ。海老蔵が団十郎となるようなものだ。当時、上方落語会は桂三枝(小文枝一門)月亭可朝(米朝一門)笑福亭仁鶴(松鶴一門)の若手3本柱がマスコミにもてはやされて話題になった後だった。小文枝(後の文枝)・米朝・松鶴・春団治の四天王と言われた大師匠たちのあとを継ぐ本格派の落語家の出現が待たれていた。

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そこに登場した各一門の期待の若手であった。結果として、福団治が現在に至るまで上方落語会を牽引している。その芸歴60周年を祝う落語会が「繁昌亭」で行われている。コロナショックで空席はあったが、本来は満席間違いなしの催しだ。中トリ(途中の休憩前の出番。通常トリに匹敵する芸人が勤める)には、米団治・福笑・小文枝(きん枝改め)・鶴光・文珍など大看板が出演していた。筆者来訪時は、笑福亭福笑(因みに反対から読んでも笑福亭福笑)が、まくら(落語の本題に入る前の話)でコロナ騒動をいじって爆笑を取っていた。

そして、主役福団治は、「シジミ売り」上方落語にも多くある人情噺だ。じっくり時間を気にせず演者の「間」を堪能した。テレビやラジオでは放送時間が決められる為、最後の泣けるシーンがさっと終わりがちだ。親方の人情と子供の健気さが涙を誘う。ベテランの渾身のネタである。至芸である。

その福団治も、若い時は若手の売れっ子に対抗して、ペケペン落語などキワモノにも挑戦していた。襲名後はそれらは封印し、落語に専念し一方で「手話落語」など本格的普及活動にシフトした。奥さんは翠みちよである。女流モノマネ芸人で、以前このシリーズでも紹介した。

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枝雀は、ひと時花火のように全面を照らして逝ったが、福団治は「一隅を照らす」ように長く長く落語会を支えて、今、貴重な芸の伝承者である。

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出囃子のあと、「扇子一本で、ここまでやって来ました1本960円の扇子です。(笑)今は、体の支えにしてまんねん。(泣)」と、切り出すのが最近の定番だ。


675 生きてるだけで丸儲け  ㉔  大木こだま・ひびき チッチキチー

2020-02-26 09:07:49 | 日記

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㉔ 大木こだま・ひびき

大木こだまひびきの画像

 

現在の漫才界のほぼ最古参に位置する。どんな漫才番組でも出演し、トリはオール阪神・巨人が定番だが、中トリやトップバッターを勤めるのは大木こだま・ひびきだ。トップを取ったことはないだろうが存在感は常に上位にいる。

最初は、大木こだま・ひかりというコンビだったが、ひかりが、覚せい剤で逮捕された。こだまの挫折から後に、ひびきとコンビを結成して再出発したものである。

大木こだまの、テンポのゆっくりしたしゃべくりは、現在のテンポの速い若手漫才界では異色だ。この漫才の特徴は、こだまのボケたしゃべくりにひびきが、突っ込むのだがさらに、こだまが突っ込み返す。

こだま「歩きすぎて膝がガタガタや。」ひびき「膝が笑ってるんや!」こだま「膝は笑えへんやろ〜。膝が笑うたら夜中やかましいて寝られへんがな〜」・・・・このようなやり取りが典型的である。

ひびき「猫の手も借りたいんや!」こだま「猫に手はあれへんやろ〜。あれは前足や〜」ネタの数は豊富に持っている。そして最後に、もうお前には、「往生しまっせ―。」「チッチキチー」で大爆笑だ。筆者の関心は、ひびきの突っ込みがまことに緩いのが好きだ。鋭い突っ込みが主流の現在の漫才の中に、ひびきの力の入らない突っ込みは異色だ。(ギャラが同じで良いのか?とも思う。笑)また、どつき無し。下ネタも無し。これも良い。

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このような漫才のスタイルを確立するまで、試行錯誤あったと思うが正統派のしゃべくり漫才を突き詰めた結果だと思う。師匠はいないが、中田カウスに師事している。 ビートたけしは、上方漫才のレベルの高さを、大木こだま・ひびきの漫才で思い知る。また、横山やすしも一目置く。漫才ブームの時はまだ弱小芸能事務所だったので全く乗れなかったが、結果として息の長い現在の人気ぶりはむしろ良かったのではないか?

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因に、奥さんは海原しおり・さおりの美人の方のさおりである。結婚当初は圧倒的に奥さんの収入の方が多かった。

KinKi Kidsの堂本剛が大ファンであることは有名で、出演した舞台で何の脈絡もなく突然、大木こだま・ひびきを絶賛するコメントを話している。

近は、必ず、

ひびき「ようこそお越し下さいました」こだま「も〜わざわざ来てくれんでも良かったんや〜。電話したらわし、家まで行きましたのに!」ひびき「行きません行きません」こだま「ごもったいない話で」 

というツカミネタで始まる。

以下に受賞歴を書いておく。

1981年 第2回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール 福笑い大賞
1981年 テレビ朝日 ザ・テレビ演芸 3週勝ち抜きチャンピオン
1987年 第22回上方漫才大賞 奨励賞
1991年 第20回上方お笑い大賞 金賞
1992年 第27回上方漫才大賞 奨励賞
1996年 第25回上方お笑い大賞 大賞
1996年 第31回上方漫才大賞 大賞
2005年 第34回上方お笑い大賞 大賞
2006年 第41回上方漫才大賞 大賞

 


674 生きてるだけで丸儲け  ㉓ ゼンジ―北京  不思議な中国人?

2020-02-25 08:41:34 | 日記

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㉓ ゼンジ―北京  不思議な手品師

ゼンジー北京の画像

 

 

お笑い演芸好きの筆者は、子供の頃から「吉本新喜劇」「道頓堀アワー」「松竹新喜劇」「花王名人劇場」「てなもんや三度笠」「素人名人会」など、数限りなく見て来た。必ず途中に出て来る「色物」では、ゼンジ―北京が異色の存在だった。

マギー四郎・ケーシー高峰や、ナポレオンズの先駆者である。

マギー司郎の画像

 

まず、「チュウコクハ、ヒロシマウマレ。」と、中国人の口調で出て来る。「タネモシカケモ、チョット アル。」と続けて怪しい下手な奇術が始まる。ネタバレして笑いを取る。しかし、最後は鉄板ネタで見事な大ネタを披露して、終了する。大きな布を肩に巻き付けて前転したら、腕に水いっぱいの金魚鉢を抱えているのは、未だにその仕組みが分からない。至芸である。

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客席から、客を舞台にあげて、腕にギロチンするネタも面白かった。大根をはさんで見事に切断する小さなギロチン装置に、客の腕をはさんでガチャンと落としても切れない。直前に切るまねをして、お客が恐れて手を引っ込める姿を笑いにしていた。

もちろん日本人だが、なぜか当時の中国人の感じをうまく出していた。演芸番組以外に出演しても、その様なしゃべり方を通していた。芸人根性が素晴らしい。キワモノでも、しっかりした技術の裏付けがある芸人だった。(存命です。)


673 生きてるだけで丸儲け  ㉒ Wヤング 

2020-02-24 08:20:52 | 日記

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Wヤング 

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横山やすしが、最も恐れた漫才師。ビートたけしが、絶対抜けない存在。と、漫才界の巨匠に絶賛された漫才師である。もちろん第1次Wヤングである。筆者が、覚えているWヤングとは、中田治雄が、サックスを吹き、平川幸雄が、ギターを弾く音楽ショーだった。時には、ブリッジした状態でサックスを吹いたり、背中で反対のギターを弾いたりしていた。いずれも平川の歌唱力が秀でていた。

しかし、ブレークしたのは、「しゃれ尽くし」だ。例えば、野菜ネタ。「人のことなんかかぼちゃられませんわ」「なんでもごぼうごぼう上がりますよね」「いい加減に椎茸」「アスパラどうしたらいいの」「ではこのへんでえんどう豆」などと延々と続く。たばこネタ、政治家ネタなど豊富な題材があり、笑いだけでなく妙に感心もした。今までに無い斬新で、練り込まれた至芸であった。しかもテンポが速いので他の漫才師ではまねが出来ない。

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横山やすしやビートたけしが、恐れたのはこれだ。しかし、人気絶倒の時に、大事件がは起こる。中田治雄の賭博による多額の借金問題だった。一時吉本が立て替えたが、結局闇社会に追われて自殺した。皮肉にもその直後、漫才ブームが勃発した。ブームのきっかけとなった「花王名人劇場」の初回のトリは、Wヤングを考えていたと、後にディレクターの澤田隆治が告白している。

その後、佐藤武志という新喜劇の役者だった男と漫才コンビを再結成した。いつまでヤングを名乗るのかと当時思ったが、すでに「ヤング」という言葉自体が古くなっていたのだ。どつき漫才の時期もあったが、正統派のしゃべくり漫才師として一定の評価を得ていた。しかし、第1次を越える事はなかった。

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平川幸雄は、昨年末78歳で亡くなった。追悼番組がなかったのは残念だ。

芸人は死ななければどんな大きな芸人になったか、よく考える。中田治雄もそうだ。林家小染・桂吉朝など落語家にも多い。