アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

683 生きているだけで丸儲け  ⑬ 人生幸朗・生恵幸子  

2019-12-29 06:48:55 | 日記

人生幸朗・生恵幸子

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ご存知ぼやき漫才だ。まさに昭和の至芸であった。爆発的に注目されたのは晩年だったので、我々には大柄で牛乳びんの底のような眼鏡をかけた人生幸朗の右に、高そうな和服の生恵幸子が金切り声で歌い、人生が突っ込むスタイルが確立された後だった。「どろ龜ーー。」や「この、よだれくりーー。」という幸子のハイトーンの突っ込みも印象的だった。

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歌謡曲のぼやきが定番だったが、前半は世相を斬るネタも多かった。

何より人生の人柄の良さと、眼が極度の近視だった事でのエピソードが面白い。人生は60歳を超えても愛人が複数いてラブホテルに入った時、扉を開けたつもりが全面の鏡、写った二人を隣の部屋の二人だ思った人生が、「失礼いたしました。」と深々と謝った。また、弟子に大皿の寿司をふるまう、皿に残ったエビを見て「上等なエビを残すなーー。」と、箸でつまもうとするがつまめず。皿に描かれた絵だった。究極の失敗は、よしもと興業の重鎮の葬式。芸人代表で焼香し手もとの鈴(小さな鐘)を鳴らそうと、何とお供えの饅頭を叩き「べたっ。」静寂の中で芸人たちの背中が波打ったという。

以下にウキペディアからぼやきネタを一挙紹介するが、筆者は、友人とスナックなどで大騒ぎした後は、必ず「我まま勝手な事を申しまして、そんな客帰れとお叱りの言葉もなく・・・・。」と言う。気の利いたママならば、「この泥龜ーーー。」と言ってくれる。因みに、最初には、「しっかりやりましょ時間までーー。」と言う。(分かるかなあ?)

浅田美代子「虹の架け橋」
「さわやかな私の朝を あなたにあげよう」→「なんぼ自分の名前がアサ田でも、朝はおまえだけのもんやないぞォッ」[6]
あのねのね「ネコ・ニャンニャンニャン」
「猫ニャンニャンニャン 犬ワンワンワン 蛙もアヒルもガーガーガー」→「どついたろか馬鹿モノ!! もっと責任ある歌歌え!!」
天地真理「若葉のささやき」
「若葉が街に急に萌(も)えだした」→「若葉が燃えるか! あんなもン燃えてみィ。消防署のオッサン忙しいてどもならん!」
五木ひろし「愛の始発」
「川は流れる 橋の下」→「当たり前や。橋の上流れとったら水害やがな」
五木ひろし「ふるさと」
「祭りも近いと汽笛は呼ぶが」→「汽笛が物言いまっか。汽笛が物言うてみ、駅の近くの人ら、やかまして夜寝られへんがな」
「洗いざらしのジーパン一つ」→「ジーパン一つでうろうろすなよ!」
五輪真弓「約束」
「一所懸命育てた鳥でさえ 窓を開けたら飛んでいく」→「当たり前やないか。鳥かて羽があんねん、飛んでいくよ。飛んで嫌なら金魚飼うとけ!」
井上陽水「東へ西へ」
「昼寝をすれば夜中に 眠れないのはどういうわけだ」→「当たり前やないか! そんなら昼寝すな!」
井上陽水「夢の中へ」
「探し物は何ですか」→「ほっとけ!!」
「見つけにくいものですか」→「知るか、そんなもん!!」
「それより僕と踊りませんか?」→「馬鹿にすなぁ!」「誰が踊るか!!」
「まだまだ探す気ですか、踊りましょう」→「どつき回すぞ!!」
上田正樹「俺の借金全部でなんぼや」
「俺の借金全部でなんぼや」→「そんなもん自分で数えんかいっ!!」
沖田浩之「E気持」
「A・B・C、A・B・C あー E気持」→「(間髪入れずに即ギレして)馬鹿者ぉ!!」
研ナオコ「かもめはかもめ」
「当たり前や! そんなもん楽団使うてたいそうに言うな!」
西郷輝彦「海はふりむかない」
「当たり前や! ほんなもん海が振り向いてみぃ、船ぇ元の港へ逆戻りじゃ!」
桜田淳子「気まぐれヴィーナス」
「去年のトマトは青くて固かったわ だけどいかが もう今年は赤いでしょう」→「どついたろか馬鹿モノ! トマトってもんは1年せな赤うなりまへんか? そんなもん早う腐ってもうとるわ! それ知らんと食べて腹こわしたらどないすんねん」
千昌夫「アケミという名で十八で」
「アケミ言うたら皆18かい!! うちの近所のアケミは68や!!」
竹内まりや「不思議なピーチパイ」
「ときめくハートがその証拠 人生が今キラキラと近づいてくる」→幸朗「何ぬかしとんねん。なんでワシがお前に近づいていかなあかん! 馬鹿にすなぁ!」幸子「人生が違うの! あほか!」
千賀かほる「真夜中のギター」
「そっとしときよ みんな孤独でつらい 黙って夜明けまで ギターを奏こうよ」→「近所迷惑やがな! 夜明けまでギター奏いとったら『やかましわ! 静かにせんかい!!』って怒鳴りに来るで!!」
並木路子「リンゴの唄」[5]
「リンゴは何にも言わないけれど リンゴの気持ちはよく分かる」→「リンゴが物言うか! リンゴが物言うたら果物屋のおっさんがうるそうてかなわんやないか」
西田佐知子「神戸で死ねたら」
「どこでなと死んでこいッ、神戸は死にやすいんかい。わざわざ死ぬとこまで相談すな」[6]
細川たかし「心のこり」
「私バカよね おバカさんよね」→「己を知っとる(と細川を褒めるも幸子がツッコミを入れる)」
堀内孝雄「君のひとみは10000ボルト」
「人間の目ン玉電気か! 私この歳なるまで目の玉に電気代払うたことないわ」
松本ちえこ「恋人試験」
「私の一番かわいい所(とこ)どこですか?」→「己で勝手に探さんかい」
松山千春「残照」
「西の空が溜息ついた」→「西の空溜息ついてみい! 九州の人、やかまして夜寝られへんがな!」
松山千春「窓」
「小さい部屋の窓から見える 空の青さはわかるけど 空の広さがわからない」→「当たり前やがな! お前何考えて生きてんねん! 長生きせえよ! お前やろ、デパートのエスカレーターの階段の数かぞえて一日日暮らしてるんは」
都はるみ「おんなの海峡」
「波よ教えておくれ 私の明日はどこにある」→「長生きせえよ。波が物言うか!」
山口百恵「イミテイション・ゴールド」
「声が違う 年が違う 夢が違う ほくろが違う… ごめんね 去年の人とまた比べている」→「毎年男変えとんのか! はっきりせえよ、はっきり!!」
和田アキ子「私は歩いている」
「わしも歩いとるやないか」[6]
似た歌詞の曲を連続でネタにするもの、あるいはフレーズが共通しているもの 
伊東ゆかり「小指の想い出」・西城秀樹「ブーメランストリート」
「あなたが噛んだ小指が痛い」→「誰が噛んでも痛いわ!」
「カリッと音がするほど小指を噛んで 痛いでしょう 痛いでしょう」→「当たり前やないか! 誰でも小指噛んだら痛いわ!」
井上順之「昨日・今日・明日」・梓みちよ「もう来ない明日」
「昨日なら昨日、今日なら今日とはっきりさせェッ」「ほな今日ばっかりかい。月給はいつもらえんねン」[6]
西城秀樹「白い教会」・近藤真彦「ブルージーンズメモリー」
「涙なんているもんか バカヤロー!!!」または「さよならなんて、言えないよ。バカヤロー!!!」→「ワテが言いたいセリフやないかい、バカヤロー!!!」

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「責任者でて来いーーー。」昔は人生幸朗のギャグだったのに、今や「謝ったら終い。」では済まない殺伐とした世の中になりました。(涙)


682 アチャコの京都日誌  地蔵院に行って来た。

2019-12-27 16:49:14 | 日記

西京区桂の地蔵院に行って来た。臨済宗 衣笠山地蔵院というが、竹の寺とも呼ばれる。

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 物集街道の五条通りを越えると、「西芳寺」や鈴虫寺として有名な「華厳寺」などがある。京都市バスの終点(苔寺・鈴虫寺行き)にあるが、自家用車か阪急上桂駅からタクシーが便利だ。他の二つの寺よりマイナーなので、筆者もしばしば気にしながらも行きそびれていた。本日は、そこだけ目指して行った。9時の開門前から山門前に待機した。小雨降る極寒の日であったが、竹林の中にいると誠に情緒あふれて風情がある。なだらかなのぼりの参道を入ると、正面に本堂がある。

方丈内

 本堂内には、本尊の地蔵菩薩の他に、夢想国師・宗鏡禅師・細川頼之の各木像を安置している。元々800年ほど前の歌人衣笠内大臣藤原家良の山荘だった。山号はこれに因む。南北朝時代に細川頼之が宗鏡禅師を招いて伽藍を建立したもので、宗鏡禅師は師の夢想国師に遠慮し招請開山にし自らを2代目とした。従って、代々細川家の支援を受けて栄えた。

十六羅漢の庭

 方丈の前庭は、「十六羅漢の庭」と呼ばれ、宗鏡禅師作とされているが、修行中の羅漢さん達が石清水八幡宮に願掛けをしてるかのようにやや右方向に傾いているのが特徴だ。水苔が一面を覆い長い歴史を感じる。方丈内には、現在の細川家の当主、元首相細川護熙氏の寄贈による襖絵や掛け軸が展示されている。「瀟湘八景の図」は、中国の洞庭湖の景勝地八か所を描いたもので、日本画家の多くが挑む画題である。

 その横には、細川ガラシャが屏風に描かれてあった。こちらも現代の作家のようで、来年の大河「麒麟が行く」で当代一の美人が必ず演じるガラシャ役を誰がするのかが注目されるところだ。

 また、後小松天皇の実子である一休禅師は、ここ地蔵院で生まれた。周囲は竹林で囲まれていて洛中の賑わいとはかけ離れた静寂がある。貴人が別荘として営むには絶好の場所だが、ここにも応仁の乱の戦火が襲ったと思うと、京の歴史の複雑さが分かる。しばし住職の奥方と思われる女性の話を聞きながら京の歴史を改めて考えて見た。


681 生きてるだけで丸儲け ⑫  横山やすし 西川きよし 

2019-12-26 12:02:06 | 日記

横山やすし 西川きよし

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遂にわが先輩について書く。筆者の出身中学の先輩が、「木村雄二」こと「横山やすし」だ。筆者が中学現役の時、卒業生であるやすしが、運動会に突然参加した。確か、毎日マラソンにエントリーしていて、本格的アスリートだったはずだ。800m走に出場しダントツのトップで走った姿を覚えている。翌日、偽サインが校内のあちこちにあった事が印象的だった。まさに地元の英雄扱いだったのだ。中学時代、数々のアマチュアコンテストを総なめにした木村少年は、堺伸すけ・正すけの芸名で、卒業後いきなりデビューし「天才少年漫才師」と言われた。2年でコンビ別れし、横山ノックに拾われて、横山エンタツを創設者とする名門横山の屋号を与えられた。その後、横山プリンや、レッツゴー正司(横山たかし)など、次々コンビをかえるが、長続きしない時代が続く。

 

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一方、西川きよしは、コメディアンの石井きんのかばん持ちから吉本新喜劇の芝居のちょい役に出る程度だった。しかし、当時超人気ものの「ヘレン杉本(現西川ヘレン)」と周囲の反対をこえて駆け落ち同然に結婚していた。何としても一旗揚げなければいけない状況にあったのだ。浪曲師の中山礼子の仲立ちで、お互い背水の陣でコンビを組む。

 

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当然、当初はやすし主体の漫才構成だったが、慣れて来たきよしにも自由にしゃべらせたところ、ボケと突っ込みが交互に逆転するやすし・きよしの型が出来た。それまでのダイマル・ラケットもいとし・こいしもほとんどが、ボケ役が自由にボケて突っ込み役が鋭く突っ込んで笑いを取っていた。横山エンタツが、ボケの原型を完成させてアチャコが「むちゃくちゃでござりますがな。」と、笑いを取ったのが原点である。

とにかく面白い漫才だった。同じネタでも何度も笑えた。一度聞いたら2度目は笑えない現在の漫才とは違った。怖くてチンピラ風のやすしを、きよしが小ばかにするネタは鉄板だった。「怒るでーーー。」のやすしの代表的ギャグはそこから生まれた。

やすしの晩年の不祥事は書くのは辛いので書かないが、このような破滅的芸人は今後出ないと思う。反社と疑われるだけで、謹慎させるような昨今の芸能界では、やすしのような破天荒な芸人は育たない。きよしが、葬式の時、「いつも怒ってたなあ。もうゆっくりしいや。(涙)」と呼びかけたのを覚えている。打ち破りたい既存の何か権威を感じた時、やすしはその権威を許せないのだろう。常にトップを目指す男には、それをコントロールできないのだ。常に怒りがにじみ出るものだろう。筆者にはよく理解できる。貧乏な片親家庭であった彼の幼少期を思うとぬくぬくとは生きていけなかったのだ。死ぬか生きるかの漫才は、やすしだけだった。また、師匠横山ノックは、やすしが「なかなか師匠を越えられんわ。」と言うのを聞いていて、葬式の時、「はようからワシを越えていたよ。」と言った。その通りだと筆者も思う。

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因みに、やすしは毎週のように散髪屋に通った。神経質さこそが彼の本質だと筆者は考える。


680 生きてるだけで丸儲け ⑪ 横山プリン

2019-12-24 11:48:39 | 日記

 

横山プリン

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関西芸能界は、突然として異能の芸人を産む。横山やすしと並び横山ノックの一一番弟子・二番弟子の横山プリンは、やすしとコンビを組むが仲が悪く2度コンビ別れする。因みに、やすしはレッツゴー正司ともコンビを組むが分かれて、西川きよしと最後のチャンスに賭けたのだった。一方、横山プリンはピン芸人で生きて行くしかなく、ラジオの深夜放送で細々と生きていたのが、『パクパクコンテスト』という化け物番組に巡り合い一瞬メジャーな存在となった。1970年代に、千里セルシーホールにて公開収録されていた番組『プリン・キャッシーのテレビ!テレビ!!』内の人気コーナーとして始まり、後に独立した番組となったもの、ハーフ(アメリカと日本?)女性のキャッシーとのコンビで人気だった。キャッシー中島とは別人である。過激な爆弾トークが売り物の為、ぎりぎりの芸風を誇っていた。その後、急速に人気は落ちて海外に移住した。少ない髪の毛をロングにしサングラス・オーバーオールのいでたちで、説明のしようのない一瞬の芸人だった。

 


679 生きてるだけで丸儲け ⑩  今喜多代 島田洋之介

2019-12-24 08:45:17 | 日記

今喜多代 島田洋之介

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夫婦漫才の先駆けである。都蝶蝶・南都雄二、正司敏江・玲児など夫婦漫才は多いが、夫婦を前提に笑いを取るのは当時珍しかった。中にはコンビを組んでから良い中になったコンビもあったが、基本的に漫才コンビは私生活に交わりがなく、中には公然と対立するコンビも多い。

ところがこのコンビは、洋之介のおっとりした性格と今喜多代の小気味よいしゃべりが絶妙で、夫婦仲の良さがうかがえた。全盛期は 舞台中央に立って喜多代がマイクの高さを下げるだけで笑いを取っていた。ボケと突っ込みははっきりしていて、喜多代がしゃべり続けてたまに洋之介が突っ込む。時々、洋之介が自慢の歌を披露すると、絶妙のタイミングで「はっ!」と、調子はずれの合いの手を入れる。誠にほのぼのとした漫才だった。

 

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洋之介は糖尿病で早くに引退したが、弟子は多く。「いやよ いやよ いやなのよーーー。」のギャグの島田一之介やB&B、島田紳助、今いくよ・くるよなど多彩なメンバーが芸を継いでいる。

とにかく、喜多代のかん高いしゃべくりが懐かしい。途中から、今日喜多代や今日規汰代など、しばしば芸名を変更したのは、彼女の趣味が「風水・易」であった為である。因みに、洋之介も当初島田洋介だった。