アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

192 アチャコの京都日誌 再びの京都   石碑シリーズ 富岡鉄斎

2017-10-31 15:54:07 | 日記

今年も遂に11月に突入する。自由気ままな日々もあとわずかだ。

やりたい事はたくさんあるので退屈はしないが、自由に起きて自由に過ごして自由に寝るのは、ありがたいが怠惰な感じはする。

精神が弛緩している。

飲み会が激減して、内臓の調子は良い。断食により減量した3キロは今も戻っていない。

「定年後」の画像検索結果

相変わらずニュースと、硬派なワイドショー以外は、基本的にテレビは見ない。

朝ドラと笑点くらいで、大河ドラマも遂に役者の年齢層から違和感があり、ついていけない。

なぜか青春ドラマを見ているような気がして見るのをやめた。

従って、民間放送は完全に見ない。たまに世界戦のボクシングを見る程度だ。

経済週刊誌も見なくなった。日経はタダでくれるので見るが、相場欄は見ない。見ても分らない。

選挙に当選した議員の大半が年下で、日経の私の履歴書の登場人物に年齢が近くなって来た。

因みに、ボケがちょっと心配

今日は珍しく、いい天気なので、石碑を探しに街歩きをして見た。

富岡鉄斎の屋敷跡発見。

 

京都生まれの最後の文人と言われた人だ。江戸時代から明治の後半まで生きた人で、思想家だが、絵画や歌人としても有名。

石上神社や大阪大鳥神社の宮司を務めている。

その後、晩年の一時期、京都「車折神社」の宮司も務めているので、そこには鉄斎の作品が多く納められている。

山岡鉄舟とよく間違う。山岡は維新前夜の幕臣で、江戸城無血開城に登場する。京都検定試験的には重要な二人だ。

 

扁額の文字は、鉄斎直筆。



気持ちよく一日を終えようとしたのに、「大量殺人事件」が発覚した。猟奇的殺人だ。

やはり、何か世間が病んでいる。昔ならめったにない事件が、度々発生する。

経済の停滞は、人心の停滞にも繋がるのか????(涙)


191 アチャコの京都日誌 究極の不運 リンスは要らない?

2017-10-31 08:18:30 | 日記

私は、小さな不運を背負っている。

スマホの充電のコネクタをさす時、必ず反対に入れてしまう。必ず最初は入らない方を入れようとしてしまう。

庭のガレージのリモコンは、開ける時「閉」閉める時「開」を押してしまう。

「満員電車座席」の画像検索結果

電車の空いた席、二人で奪う会う時必ず負ける、そして、つり革持って立った前の人は、絶対降りない。

〇×問題。分からない時は必ず不正解を選ぶ。

究極は、シャンプーとリンスを、必ずリンスに手を出してしまう。似かよった容器だからだ。

そこで、以下のようなシャンプーとリンスを買って来た。

黒がシャンプー、白がリンス。メイカーに感謝だ。

黒がシャンプー、白がリンス。

シャンプーは白、リンスは黒。違う、白はリンス、黒がシャンプーだった。

白が先、黒は後。違う、先にシャンプーだから黒、後が白。そうだ、白~黒。

白い泡が出るから白、違う白いリンスが出るから白。そうだ、黒から白い泡が出る。

ええと・・・・。

これは、むしろ私自身の「認知障害」の問題か??  少なくなった髪の毛にリンスは必要か??


190 アチャコの京都日誌 模擬試験  痴呆症の初期か?

2017-10-30 08:20:57 | 日記

京都観光検定試験、模擬試験を受けて来た。

「試験」の画像検索結果

緊急事態だ。合格ラインは80%の正解率が必要だ。確かに80%以上回答できる実力はついた。

問題の一部。(難しい!!)〇×は自己採点。

作成はNPO法人都草

しかし、勘違いや簡単な記憶喪失が発生した。60歳を超えた私の脳内には何が起こっているのだろうか?

忠臣蔵の「臣」が、出て来ない。忠心蔵と書いていた。虚空菩薩を虚空菩薩と書いたり、頭の中で回線が混乱している。

また、問題文を正確に読む注意力が著しく低下していた。

「試験」の画像検索結果

忠盛灯籠が正解の問題に、忠盛とのみ書いてしまった。問題で灯籠の名前を問うているのに・・・。

そして、時間配分が追い付かない。論文問題に時間を取られて、回答の見直しに時間を割けなかった。

90分は、会社の会議では永遠の時間に感じたものだが、試験時間の90分は、

ギラギラ若いころの性行為?や宝塚のレビューを見ている時間のように瞬く間に過ぎた。

小学生時代、通信簿に「落ち着きがない。」「注意力が著しく劣る。」と、書かれた事を思いだした。

「三つ子の魂百までも、」言うている場合か????

「落ち着かない」の画像検索結果

従って、ブログ更新の頻度を抑制するしかない。(涙)

 


189 アチャコの京都日誌 バンカー嫌い{涙}(再びのゴルフ場)

2017-10-28 16:10:47 | 日記

昨日は、復帰第3戦のゴルフだったので、お休みにした。

台風の中で強行したお陰で、バチが当たったのか散々だった。

ゴルフの神様は、一生分のバンカーショットを私に命じた。一日の大半を砂場で過ごした。

出ない、出ない。そして出たら向こうのバンカー。思いっきり打ったらバンカーの側面に突き刺さる。

最後は、バンカーの無い方向に打っているのに玉は、バンカーに向かって飛ぶ。

「バンカー銀行員」の画像検索結果「バンカー」の画像検索結果

一緒にまわったバンカー(銀行員)に、八つ当たり。「お前のせいだ。」「わしは、株屋だ。」

最後は、意味不明の暴言を発し白けた雰囲気の中、散会。風雨が一層強まった。

「バンカー 打ち...」の画像検索結果


前項の続き、

光厳天皇は、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の陰謀に一旦敗れた事で、その廃位により、97代天皇として即位した。

その後、後醍醐の復権により、その事自体(後醍醐の廃位と光厳の即位)が無かった事とされ、北朝初代と言われる事になる。

その為、現在の125代続く皇位には数えられていない。

後醍醐天皇と足利尊氏の再上洛の時には、北条一族と共に近江方面に逃げる。その折、野伏に度々襲われ命の危険に晒された。

神武以来の皇統にある方が、野人のような野伏達に襲われる悲劇・恐怖は想像外だ。

ところがその建武の親政は、瞬く間に破たんする。新田義貞が尊氏討伐の院宣を後醍醐に賜ると、

尊氏は新田討伐の院宣を光厳上皇に賜るという事態になる。

「観応の擾乱」の画像検索結果

南北朝の始まりだ。結局、京都は、尊氏の支配するところとなったのだから、当時はむしろ北朝方に大義はあったはずだ。

光明天皇・崇光天皇と北朝15年にわたり「治天の君(院政)」に君臨している光厳帝を皇統に入れないのには違和感がある。

さらになお、光厳帝の御不幸は続く。

後醍醐が北朝の三種の神器が偽物と公言した事から、北朝方は武将たちから何かにつけて軽んじられた。

加えて、自分の叔父の花園帝の后に産ませた皇子を皇太子にするなど、複雑な経緯もあってそのスキャンダルには評価が分かれる。

その後、観応の擾乱により、幕府が一時南朝方に降伏すると、吉野へ拉致されるなど再び流浪する。

晩年は、夢窓国師に師事し禅僧として、常照皇寺に隠棲した。その間の経緯を本で読んだが、理解不能だった。

 「観応の擾乱」の画像検索結果

 

 


188 アチャコの京都日誌 再びの京都  常照皇寺  南北朝の犠牲者か?

2017-10-26 18:28:42 | 日記

京北の常照皇寺へ行って来た。

まとまった時間と天候が良くなければ行きにくい。北山通りから周山街道、高雄を経由して京北を目指す。

途中、台風の影響により片側通行の渋滞もあり1時間以上かけて到着。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

自動車道がまだ整備されていない、桂川の源流を目指すドライブだ。

持明院統の光厳天皇ゆかりの寺。これほど過酷な運命に置かれた天皇は他に知らない。

現在の皇統には、数えられていない。なぜか、南北朝時代の北朝第1代の天皇だからなのだ。

現在の皇統は、北朝の血統で繋がっているが、光厳天皇から後光厳天皇までの北朝は正統とされていない。

クリックすると新しいウィンドウで開きますご覧のように血統は北朝、皇統は南朝でつながっている。

従って、現在の皇統は、南朝を正統としているので、本来96代後醍醐天皇の次であるはずが、認められていない。

鎌倉幕府倒幕の中で、持明院統と大覚寺統の関係と、足利家との関係、その中で翻弄されたのが、光厳天皇だ。

室町幕府成立で、持明院統は安泰になるはずが、「観応の擾乱」と言われる足利兄弟の争いに巻き込まれる。

今年、「応仁の乱」が話題になったが、これ以上に複雑なのが「観応の擾乱」だ。なにせ敵味方が、くるくる変わる。

幕府が、一時南朝(大覚寺統)に降参することで、天皇家は、一層混乱する。

何度も命の危険を味わい、京都、吉野、比叡と、流浪の果てに、

京北のこの地に最後の安住を求めたのだ。

結局、室町幕府は、三代義満将軍に至るまで混乱は続く。そして北朝の後亀山天皇に統一されて現在の皇統に至る。

 

光厳天皇、後花園天皇、後土御門天皇。

光厳から三代後の天皇、後花園が、大覚寺統に皇位を譲らなかった事で、完全に持明院統が今日に至る皇統となる。

山國御陵に眠る。

 

入り口参道は、樹木も少なく寂れた感じが良い。降雪もあるこの辺りには草木は少ない。

禅寺らしい庫裏の入り口。

拝観の方は、200円~500円の寸志をと、書いてある。無人だ、当然、500円置いて入る。

 

庭師の方としばし話す。

天然記念物に指定された古木の桜の木。奥の親株は樹齢650年。

添え木によりかろうじて倒れず立っている。それでも立派に咲くのだそうだ。

雪が降れば、雪下ろしをすぐにしないと枝が折れるので大変だとの事。

 

650年前と言うと、まさに南北朝時代だ。

その後の安定と、応仁の乱、戦国時代と歴史の変遷を眺めていたのだろうか。

方丈などの建物は、明智光秀が信長の命により焼き討ちにしたので、それ以降の建造との事。

丹波城主時代の光秀の事だ。そう言えば本能寺の変はこの辺りから、亀岡越え(老いの坂)で洛中に向かったはずだ。

開山堂。写真では、明るく見えるが、薄暗い堂内はやや威厳に押され恐怖感すら漂う。

斜面をうまく使った庭園。うらびれた建物と完成度の高い庭園のコントラストをしばし味わう。

本堂内を一人締め。時間と騒がしい外国人を、気にせず室町時代の混乱を考えながら、

一人で静寂を堪能した。

ここで手と口を清めて、山国陵を遥拝する。

庭石。何かの文字が刻まれている。

帰りに保育園の遠足に出合う。

次々に「こんにちわ・・。」と言ってくれた。私も大きく「こんにちわ、気を付けて・・・。」っと言った。

また、孫に会いたいと思った。