アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

374 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 66代 一条天皇 宮廷サロン全盛期

2018-05-31 08:30:08 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

66代 一条天皇 宮廷文学の全盛期

真正極楽寺(真如堂)所蔵

66天皇

在位期間
986年8月1日 - 1011年7月16日

元号

寛和永延永祚正暦長徳長保寛弘

先代

花山天皇

次代

三条天皇


誕生

980年7月15日東三条第

崩御

1011年7月25日一条院中殿

陵所

円融寺北陵

懐仁

別称

永延帝
精進覚・妙覚(法名)

父親

円融天皇

母親

藤原詮子

皇后

藤原定子

中宮

藤原彰子

女御

藤原義子藤原元子藤原尊子

子女

脩子内親王敦康親王媄子内親王後一条天皇後朱雀天皇

皇居

一条院・東三条院・枇杷殿

 

 「一条天皇」の画像検索結果「一条天皇」の画像検索結果

一条天皇の御代は藤原家から見るのと、宮廷内の絢爛豪華なタレント達から見るのとでは全然違う。藤原摂関家は、長く不遇であった兼家の復権の時代である。娘の詮子が産んだ一条天皇の即位で状況が変化する。ただし、一条天皇の即位は先代花山天皇を陰謀で出家させた事で実現したのであった。

一条天皇の践祚は7歳であった。

その皇后として二人入内する。いずれも兼家の息子で、道隆の娘定子、道長の娘彰子であった。一条天皇の周辺は藤原家でがっちり固められていた。二人の皇后は、兄弟の代理戦争の様相を呈し、皇子誕生へ競争となる。しかし12歳で入内した彰子は受胎の可能性はなく、仲睦じい定子との間に男子が誕生する。

敦康親王だ。立太子するものの廃される不幸な皇子である。定子が早世すると道長は念のため敦康親王を、彰子のもとで養育させた。しかし道長の恐るべしは、彰子に男子が誕生するに及び敦康を見捨てる。

「紫式部」の画像検索結果「和泉式部」の画像検索結果「清少納言」の画像検索結果

その後の皇位の継続の経緯は前回書いた。さて、定子と彰子は懐妊争いだけでなく、宮廷サロンでの文化的競争も行っていた。清少納言は定子の女御であったが、彰子には和泉式部、紫式部の他に、赤染衛門など多くのタレントを抱え文芸サロンを構築していた。その方面でも彰子の勝利であったかも知れない。ただし彰子の人柄は謙虚でしとやかな美人だったと伝わる。その人柄は一条天皇も同様で、下位の者に寒いからと自らの着衣を与えたこともあったと伝わる。微笑ましい時代だ。

「藤原彰子」の画像検索結果女御たちも大変な時代だ。

次回は、いよいよ花山天皇。安倍清明も登場する。


373 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 67代 三条天皇 藤原全盛期へ

2018-05-30 08:55:02 | 日記

 百人一首から

67代 三条天皇 藤原摂関家全盛時へ向かう

第67代天皇

在位期間
1011年7月16日 - 1016年3月10日

元号

寛弘長和

先代

一条天皇

次代

後一条天皇


誕生

976年2月5日

崩御

1017年6月5日

陵所

北山陵

居貞

父親

冷泉天皇

母親

藤原超子

皇后

藤原娍子

中宮

藤原妍子

子女

敦明親王(小一条院)敦儀親王・敦平親王・当子内親王禔子内親王性信入道親王禎子内親王(陽明門院)

 

ここから50代桓武天皇まで、一気に書いていく。

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三条天皇は系図を見ればわかるように、村上天皇以降冷泉天皇系と、円融天皇系の天皇の両統並立の状態であった。なにか大覚寺統(南朝)持明院統(北朝) の前哨戦のようだ。しかし三条天皇以降この血統からは天皇は誕生しない。従って、三条天皇、兄の花山天皇、父冷泉天皇の歴史的評判は非常に厳しい。歴史は勝者の論理なのだ。

「三条天皇」の画像検索結果

三条天皇には、事実重大な持病があった。眼病である。

この時藤原家の総帥は、まだ道長の父兼家の時代だ。兼家は冷泉天皇にも円融天皇にも娘を送り込んでいるので両皇統を平等に扱っていた。従って花山天皇の後に一条天皇を即位させた時には、三条天皇に東宮を命じた。(わかりやすいように天皇名で書く)三条天皇の方が年上なので、「さかさの儲君」と呼ばれた。

しかし、一条天皇の世の間に、権力は兼家の息子の三兄弟、道隆、道兼、道長に移った。特に三男の道長には多くの娘が天皇の子を産んだ。かなりの近親相関の結果である。その結果、三条天皇即位時には、藤原家との関係は微妙になっていたのだ。

しかも2人の皇后の内、道長の娘からはなぜか男子誕生はなかった。天皇親政を目指す三条天皇は即位時36歳の大人であった事もあり二人の関係は決定的破談となる。

その様な時に、天皇の眼病が発病した。それを理由に道長からの退位のプレッシャーが来る。自分の子を皇太子にすることを条件に、後一条天皇に譲位する。しかし残念ながら、三条上皇の崩御後、その子は道長の報復を恐れて自ら皇太子を辞退する。

「道長」の画像検索結果「藤原道隆」の画像検索結果「藤原道兼」の画像検索結果藤原三兄弟

道長の盤石な政権基盤の完成だ。従って、冷泉天皇・花山天皇・三条天皇・その子敦明親王(廃太子)の4名は、勝者道長の正当性を主張する為にその評価はおとしめられた。


ならぬことはならぬ

2018-05-30 07:44:44 | 日記

「nitidai」の画像検索結果「nitidai」の画像検索結果

日大タックル問題は、集団リンチ状態だ。日本全国で日大の看板が撤去されたりしているらしい。昨日の学生連盟の処分は、マスコミの論調やネットを含む世論に流されていないか?当事者達の聞き取りは実施したのだろうか?(その後の報道で聞き取り調査実施が判明)日大の第三者機関の調査中にも関わらず問答無用と言わんばかりの処分は良かったのか?当事者の選手も一夜にしてヒーロー扱いだ。自ら罪を認めた潔さは日本人の感情に刺さった。惻陰の情だ。一方監督・コーチへのリンチは死人に鞭打つように果てしなく続く。実行者、行為者が第一の罪人であることは明確にすべきで、法律上指示した者の方がより重い罪人であると言うならば、慎重な判断が必要だ。会社においては企業犯罪の大半が会社の上司や社風によるプレッシャーが動機となっている。しかしほとんど行為者が処罰されている。さらに会社の存続も危うくなる。やってはならにいことはやってはならないのだ。「ならぬことはならぬ」会津藩の掟である。

「nitidai」の画像検索結果ここぞとばかり音声を変えて告発する人

それもどうか?


372 アチャコの京都観光日誌 北朝5代の天皇を書く  北朝5代目 後円融天皇 足利義満との確執?

2018-05-29 08:30:20 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち 番外

北朝5代を語る

北朝5代目 後円融天皇 義満との確執?

後円融院像(土佐光信筆、雲龍院蔵)天皇の百年聖忌に際して描かれたもの。

雲龍院は、泉涌寺の塔頭。

北朝第5代天皇

在位期間
1371年4月9日 - 1382年5月24日

元号

応安永和康暦永徳

先代

後光厳天皇

次代

後小松天皇


誕生

延文3年/正平13年/12月12日1359年1月11日)一条東洞院

崩御

明徳4年4月26日1393年6月6日) 小川仙洞御所

陵所

深草北陵

別称

光浄(法名)

父親

後光厳天皇

母親

藤原仲子

子女

幹仁親王(後小松天皇)・珪子内親王・道朝親王

皇居

京都御所

父の後光厳上皇と、南朝に捕らわれ帰還した叔父の崇光上皇との確執の中、幕府の推薦で即位した後円融天皇は何かと幕府に守られながらも、若い3代将軍義満と対抗した。

仙洞御所(上皇となった後円融の御所)に訪問に来た義満に面談を許さなかったり、自らの中宮や妃に対して義満との密通を疑い、殴打したり出家させたりしている。

しかし、すぐに後悔した後円融上皇は持仏堂に籠り切腹事件を起こしている。切腹事件?「切腹するぞ!!」って、騒いだ程度か?

その結果、「治天の君」の権威を貶め、息子の後小松天皇の時代になって統一を果たし義満全盛の時代を迎える。

Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg義満鹿苑寺

義満の皇位簒奪説は、この後円融との不仲から発すると言われている。「この方達には政治は任せられない。」と思ったのだろう。これをもって北朝5代が終焉する。滅んだのは南朝なのだが、北朝5代は歴代天皇の皇統に入っていないので、あえて書いた。

「昭和」の画像検索結果


さて、ここまで書いてきて南北朝時代の最大のタブーを書く。先に申し上げるが、昭和天皇に戦後日本が、どれ程救われたかは言うまでもない。加えて筆者は今上天皇をこよなく尊敬している事、特に美智子皇后の人徳に我々は憧れを通り越して女神の存在を信じざるを得ない事を明記する。

明治政府が南朝方を正式皇統とした理由は、神国日本の皇国史感を確立するために、天皇を裏切った足利尊氏を逆賊に、楠木正成を忠臣にすることで、必然的に南朝を正式皇統とした。しかし室町幕府は困窮する南朝を京都の北朝へ吸収する形で統合した。三種の神器の奪還も本音だった。従って当たり前だが、北朝の血筋で天皇を繋いでいった。尊氏を論ずるだけで更迭された閣僚がいた時代と江戸以前とは全く認識が違う。説明するまでもなく今上陛下はその血筋である。

従って、維新後南朝の血筋と自称するものが次々登場する。熊沢天皇のように「自分が南朝の生き残りで、正統な天皇」と、活動するものまで出て来た。昭和35年の総選挙では、天皇制の廃止を訴える共産党を支持するなど特異な活動をしている。

熊沢天皇

お気づきか?今の天皇家は後醍醐天皇の南朝から皇位を奪った朝廷という事になる。逆賊尊氏とは、言えない。実際、明治政府がその説明に苦慮する様子が残っている。かくて今に至るまでタブーとなっている。

その為、天皇家が、歴史研究に興味を持つことがタブー視される。秋篠宮は鯰の研究とか、皇太子は古代ヨーロッパの水路の研究、確か昭和天皇は生物学者として相当な権威であったと記憶する。

「昭和天皇」の画像検索結果

このblogの読者の大半はそれがどうした、とおっしゃるだろう。筆者はにわか勉強しかしていないが、専門家の教えを受けたい。


 

 


371 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 北朝5代を順番に語る。 後光厳天皇 英雄「義満」登場!

2018-05-28 08:38:50 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち 番外

北朝5代を語る

北朝4代目 後光厳天皇 「大混乱の中の即位」

今上天皇となっているので即位当時の肖像画だろう。

 
 
   
   
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   


北朝第4代天皇

在位期間
在位:観応3年8月17日1352年9月25日
- 応安4年3月23日1371年4月9日

元号

観応文和延文康安貞治応安

先代

崇光天皇

次代

後円融天皇


誕生

建武5年3月2日1338年3月23日

崩御

応安7年1月29日1374年3月12日)・柳原殿

陵所

深草北陵

別称

光融(法名)・延文聖主

父親

光厳天皇

母親

藤原秀子

子女

緒仁親王(後円融天皇)・煕永親王・堯仁法親王・堯性法親王・亮仁入道親王・覚増法親王・
覚叡法親王・道円入道親王・明承法親王・行助入道親王・寛守法親王聖助法親王・
寛教入道親王・治子内親王・見子内親王・

皇居

京都御所

 

歴代の天皇で、一番ご本人にとって意外な即位であったと思われる。光厳天皇の第2皇子で兄が崇光天皇になっていた。加えて世は南北朝の時代であり、自ら即位の意志はなく、その意欲を見せるだけでも命が危ない時代だ。従って、幼少期に仏門に入る事が決まった。しかし歴史の皮肉で、その後光厳の皇統が南北朝統一の時点まで続く。

「妙法院門跡」の画像検索結果妙法院 後光厳が入門するはずだった。天台宗5大門跡寺院の一つだ。

足利尊氏のもと、一時的に南朝方に京都の政権が復活し、その後2代目義詮が北朝の復活を果たす折り、南朝方は、北朝方の上皇・天皇・皇太子すべてを拉致して逃げた。仏門に入っていた後の後光厳天皇は奇跡的に逃れて幕府からの要請で即位した。

その様な経緯から、三種の神器がなく正統な天皇ではないというコンプレックがあり世間からも軽んじられた。その間、幕府の騒乱は絶えず、宗教界も争いが続く。京洛には盗賊や火付けが横行し果てしない混乱が続いていた。

そして、遂に足利3代将軍義満の登場により収束に向かう。後光厳天皇は自らの皇子の後の後円融天皇に譲ると言い、一時吉野の南朝に捕らわれていた兄の崇光上皇はその皇子(すでに皇太子を廃しされていた。)に譲るよう主張した。それを治めたのが義満で、結局、後光厳天皇の皇子後円融天皇の誕生だ。しかし、後光厳上皇は治天の君(院政)を始めるという矢先に亡くなる。

「後光厳天皇」の画像検索結果深草北陵

残念ながら政策的功績はない。そして深草北陵に葬られる。この御陵は「深草12帝陵」と呼ばれている。89代後深草天皇から伏見天皇、後伏見天皇、そして後光厳天皇とその子後円融天皇、南北朝統一時の後小松天皇、称光天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇と、持明院統の天皇の12名が葬られている。御寺泉涌寺の月輪陵の12名に並ぶ最も多くの天皇が眠る御陵である。(しかし、現在は残念ながら、北朝のお二人は除外されている。)そこまで差別するか??

「後光厳天皇」の画像検索結果実は絶倫天皇「義満」の画像検索結果3代将軍 義満登場

因みに、後光厳天皇の功績をあえて探すと、皇室の最大の必要能力である生殖力の絶大さだった。このような混乱時でも、記録に残るだけでも18名以上の皇子・皇女を残している。

結果京都の門跡寺院の発展に大きく寄与しているのだ。