アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

328 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 主役登場 96代 後醍醐天皇の建武の親政

2018-03-31 09:16:37 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

96代 後醍醐天皇 建武の親政

先帝

花園天皇

次帝

後村上天皇(南朝)

生年~崩御

1288年11月26日~1339年9月19日

在位

1318年 3月29日~1339年9月18日

在位中年号

文保・元応・元亨・正中・嘉禄・元徳・元弘・建武・延元

御所

二条富小路・吉野行宮

御陵

塔尾陵

父・母

父 後宇多天皇 母 五辻忠子

 

とうとう中世最大の事件、「建武の親政」の主役、後醍醐天皇までたどり着いた。ここまで遡って来たが、逆順というルールを冒してここは、88代後嵯峨天皇からの皇位継承を見ないと、後醍醐天皇は理解できない。

88代 後嵯峨天皇から以降、

89代 後深草天皇(持明院統)

90代  亀山天皇(大覚寺統)

91代 後宇多天皇(大覚寺統)

92代  伏見天皇(持明院統)

93代 後伏見天皇(持明院統)

94代 後二条天皇(大覚寺統)

95代  花園天皇(持明院統)

96代 後醍醐天皇(大覚寺統)と、皇位を継承して来た。

持明院統(北朝へ)と大覚寺統(南朝へ)の分裂の経緯は今後に書くが、こうして見ると見事に平等に交互に継承は行われている。

すべてが鎌倉の執権北条家の裁きによって来た。次は、持明院統の天皇の番だ。

さらに、後醍醐天皇は繋ぎの天皇であって、実は、後二条天皇の皇子、邦良親王が皇位継承者だったのが、幼少であった為に、その成長までの繋ぎの天皇に指名されたのだ。

従って、後醍醐天皇は、自分の血統の親王に皇位継承させることが無い天皇だったのだ。結局二重の意味で皇位の継承は自分の意のままにならない状況にあった事が、まず大前提である。

一方、世情は困窮の極みにあった。後醍醐天皇即位の1318年前後に、鎌倉に2度、京都には4度の大地震の記録が残る。また毎年のように長雨の被害や台風の被害が書かれてある。「河合出書房」(日本史年表)

比叡山や東大寺の僧兵がしばしば神輿を奉じて直訴に及ぶが、幕府はすでに北条高時の時代で、政権能力はなかった。

京都周辺には、倒幕の機運が高まっていたのだ。

Hōjō Takatoki.jpg

天皇親政の理想に燃える後醍醐天皇にとっては自分の血統に皇位を戻す為にも、やはり倒幕しか方法はなかった。

そして、正中の変を引き起こす。


番外  世は奇なり!!

2018-03-30 12:00:49 | 日記

あろうことか!、貴乃花部屋に暴力事件。ここ最近では最大のギャグだ!これほど面白い演出が、待っていようとは思っていなかった。事実は小説より奇なり、有名な籠池氏の言葉だ?麻薬捜査官が覚醒剤容疑で逮捕。いや、これ以上か?安倍首相、森友学園の事で財務省に指示命令済み。とか?これで貴乃花が、どう答えるか。やはり沈黙するのか、日馬富士への訴訟はどうするか。協会への報告はどうするのか。今まで自分が批判した事が、そのまま自分に返ってくるのだ。まず、本人は休場させなければならない。警察に届け出もするのか?もう、考えがまとまりません。

以上は、3月21日の筆者の日記だ。

そして本日の感想。

「貴乃花」の画像検索結果「貴乃花謝罪」の画像検索結果5階級降格


「今からたった3ヶ月前に、海外のニュースの届かない場所から帰国した人は、如何に驚くことだろうか。

なんと言っても、当時被害者の親方として、協会と堂々と対決していた貴乃花親方が、消え入るような声で、謝罪しているのだ。

なんと、今度は加害者の関取の師匠として謝っているのだ。しかも協会から反逆者として処分されて、当時からすると5段階の降格になっている。

先ほどの帰国者は、驚きと共に冗談だと思うだろう。そして、森友問題も、まだ、やっている。

重要案件が目白押しの中で日本の国会の体たらくを嘆くだろうか。麻生太郎が、日本の新聞のレベルの低さを批判するのもうなずける。

そしてそして、3ヶ月前に連日ミサイルの発射が批判され、アメリカと対決色を濃くしていた金正恩が、習近平と笑顔で握手しているのだ。近々米朝会談もありうると聞いたら、帰国者はトランプのフェイクニュースと思うだろう。

ミサイルの発射スイッチを押した手で、習近平の話をメモしているのだ。この季節に突然花開く桜のような必然性とは全く違う。

「金正恩習近平」の画像検索結果明らかに緊張している

世は、不可思議なり!!」



327 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 97代 後村上天皇 悲運の天皇 本日御命日

2018-03-29 13:06:35 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

97代 後村上天皇

 

先帝

後醍醐天皇

次帝

長慶天皇

生年~崩御

1328年?  ~  1368年3月29日

在位

1339年9月18日~1368年3月29日

在位中年号

延元・興国・正平・

御所

住吉行宮・吉野行宮・賀名生行宮・男山八幡宮行宮・金剛寺行宮・観心寺行宮

御陵

檜尾陵

父・母

父 後醍醐天皇 母 阿野廉子(新待賢門院)

※    本日は、当該天皇の御命日である。こんな偶然あるだろうか?(合掌)

 

醍醐・村上天皇の時代(延喜・天暦の治)に憧れた先代後醍醐天皇が、自ら追号に選んだ。従って、当然次代は、後村上天皇である。しかし二人とも終生戦場に身を置くことになる。

後醍醐については次回以降詳しく書くが、後村上天皇は、多くの兄弟親王を戦場や暗殺によって亡くし、くしくも南朝2代目の地位を継ぐことになった。吉野から京都に還幸する事10回に及び、結局都から遠く離れた地で生涯を終える。

Kitabatake Chikafusa.svg北畠顕家.png北畠親房・顕家親子

後醍醐天皇第7皇子の義良(のりよし)親王が、後の後村上天皇だが、わずか5歳で北畠親房の子顕家と共に奥州多賀城に赴任していた。東北地方の不穏な動きをけん制する為、遠く陸奥の地に朝廷の権威を置いたのだ。結果、建武の親政の大混乱の戦場から離れていた為命を保った。その後、尊氏の謀反により比叡山に戻り、そこで元服する。一旦多賀城に戻り、そこも襲撃され、各地で戦場を潜り抜け吉野に至る。その後またまた多賀城に戻る時に、伊勢沖で船が難破して急死に一生を得て吉野に戻り、そこで立太子する。すぐに高師直の襲撃を受けて紀伊に逃れる。しかし観応の擾乱により尊氏・直義が南朝に降り京都を目指す。しかし尊氏の子義詮に反撃され賀名生に逃れる。この間10回京都還幸を果たすも生涯戦場にいて、現在の大阪河内長野辺りで崩御した。

賀名生行宮あと

如何ですか。これが天皇の生涯でしょうか。元は父後醍醐天皇の政策の失敗によるとは言え、中世の動乱に翻弄されただけの御生涯であった。

尊氏・直義・義詮そして楠木正成・正行、北畠親房・顕家などの太平記に登場の英雄豪傑が活躍した歴史の大節目にいた天皇だったのだ。

天皇の死の前後にみんな世を去り、時代が大きく転換するその前夜にいたことも間違いない。

なお、この間京都周辺は、大地震にも見舞われ、飢饉も続き民衆の困窮は窮まっていた。世間は地獄の様相を呈していた。

次回から、いよいよ後醍醐天皇。数回にわたることになる。


326 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 98代長慶天皇 現代になって認められた天皇

2018-03-29 12:25:32 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

98代 長慶天皇  現代になって認められた天皇

「長慶天皇」の画像検索結果

先帝

後村上天皇

次帝

後亀山天皇

生年~崩御

1343年?~1394年8月27日

在位

1368年頃~1383年頃

在位中年号

正平・建徳・文中・天授・弘和・

御所

住吉行宮・吉野行宮・天野行宮・栄山寺行宮

御陵

嵯峨東陵

父・母

父 後村上天皇 母 藤原氏

 

昨日のニュースで、今上陛下・妃殿下が沖縄に慰霊の旅に出られた、と聞いて思わず涙した。在位中の訪問はこれが最後と思われる。しかも、高齢であり、特に美智子妃殿下は頸椎のヘルニアが酷く激痛に悩んでおられるのである。日本人が、いつも皇室への敬意を無くさないのは、どんな時でも、天皇皇后両殿下が、日々国民の安寧のみ願っておられるのが分かるからである。

さて、長慶天皇である。何と、正式に98代天皇に認められたのは、大正の時代になってからだ。長く即位した形跡を認定されずにいたのだ。後醍醐天皇の直系の孫であることは間違いないのだが、吉野の山中で生まれ多くの人生を隠遁生活に終始した。

従って、御所はなくすべて「行宮」(行宮とは本来旅先・遠征先の天皇の行在所の事)となっている。また、即位の真偽についても、江戸時代に水戸光圀が「大日本史」の中で、即位を主張したが決まらず、結局明治以降の学者の判断まで待たねばならなかった。大正15年遂に、勅書をもって正式に98代長慶天皇として皇統に加わった。従って、在位中の業績や功績は何も残っていないが、次の後亀山天皇が南北朝統一に同意し、天龍寺に入った時、それに従わず終生吉野にいたと、伝わる。

「楠木正儀」の画像検索結果正成の3男で相当な戦略家であったらしい。

即位後、すぐ南朝のシンボル的武将楠木正儀が、和平派に転じ北朝に降った。あろうことかその正儀を主将に北朝方の攻撃にあって、数少ない配下の武将70名以上が打ち取られ、天野行宮から吉野に還幸する羽目に陥ったり散々な目にあっている。

長慶天皇の親署天皇の親書に力強さが見える。

記録にはほとんど残っていない天皇だが、強靭な意志の強さがうかがえる。

「長慶天皇」の画像検索結果

あくまでも後醍醐天皇の遺言に従って、北朝に屈しなかったのである。

次回は、いよいよ南北朝動乱の中心人物、後村上天皇そして後醍醐天皇の登場へ


325 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 99代 後亀山天皇 南北朝合一(実態は南朝の滅亡)

2018-03-28 09:01:13 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

99代 後亀山天皇

筆者以上にマニアックな友人と昨夜痛飲した。「西郷どん」について2時間議論した後、(ただし内容はすっかり忘却した。)このシリーズを今後、南北朝のどちらにさかのぼるべきか聞いたら、友人は、「勝手にしろ。」と言うので、南朝を書くことにする。

 

先帝

長慶天皇

次帝

後小松天皇

生年~崩御

?~1424年5月10日

在位

1383年頃~1392年11月19日(南北朝合一)

在位中年号

弘和・元中(南朝年号は廃止)

御所

栄山寺行宮・吉野行宮

御陵

嵯峨小倉陵

父・母

父 後村上天皇 母 不明

「後亀山天皇」の画像検索結果

後亀山天皇、・・・・・・いきなり筆先が止まる。まず生年月日が不明なのだ。いつも参考にする「歴代天皇総覧(中央新書)」には?~1424年となっている。ウィキペディアでは、1350年?となっている。生誕地も賀名生行宮と推定される。

次回出て来る兄の先帝の長慶天皇とは、不仲であったという。強硬派の長慶に対して後亀山は穏健派で、南北朝和睦も視野に入れていた。そこに前回書いた義満からの条件は、神器の譲渡と両党並列(交互即位)だった。これを信じ応じた。背景には長く吉野の地に隠棲状態であった南朝は経済的にはすでに破たんしていたのである。

これ以降書くが、室町幕府内の内紛「観応の騒乱」の時は、一時的に北朝が南朝に降伏する動きもあったが、世は義満登場で幕府の全盛期を迎えていた。唯一の忠臣楠木正成・正行はすでにこの世になく南朝の挽回は絶望的であった。


吉野から奈良興福寺、嵯峨大覚寺を経て天龍寺に入り、自分たちの存在意義である三種の神器を手放した。「明徳の和約」である。

しかし、しかしである。自分の血統に皇位が戻らない(騙された)ことを悟った後亀山上皇は、再び吉野に籠る。その後、何度か南朝復活を目論むが、神器もなくゲリラ的な動きでしかなかった。

因みに、その後しばらく続く南朝の動きは、「後南朝」という。

1350年生まれとすると72歳まで生きたことになる。過酷な人生であっただろう。

正式に99代天皇とされたのは、何と明治になってからであった。天皇の業績は、新続古今和歌集に3首載っているのみで何も記録されていない。

大覚寺に残る御真影は、天皇と言うより禅僧のような意志の強さがうかがえる。