アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

980回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉟

2023-02-28 09:10:49 | 日記

6.着眼点の1

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6.着眼点の1

 

乱後の事後処理も速やかに行われた。3上皇の配流はすでに書いたが、さらに順徳上皇の子である今上天皇(仲恭天皇)は廃された。即位した事も消された為、九条廃帝とも言われる。仲恭と諡号されるのは明治になってからだ。義時は次期天皇を後鳥羽の兄である守貞親王の皇子茂仁親王とした。後堀河天皇である。従って、守貞親王は天皇を経ず、「治天の君」になる。後高倉院という大上天皇の尊号を送られる。歴史上初めての事態だ。別項「光格天皇尊号一件」で重要な先例となるので覚えておきたい。

これにて、保元の乱以来の「武者の世」の到来を告げた時代は、大きな画期を迎える。義時・泰時の親子は、「御成敗式目」を制定し法の支配も強め武家社会の安定に努める。この頃には、平家合戦の記憶も遠くなりこの70年に及ぶ戦乱の犠牲者を悼む動きや、「平家物語」などの軍記物も出来てくる。そのような一時の平和の訪れで、3上皇の「恩赦」や「(京都への)還幸」を期待する動きもあって、現に、九条道家など両勢力に姻戚関係を持つ前関白は、幾度か幕府に働きかけたようだ。しかし後鳥羽は、隠岐で遂に60歳で崩御。最後まで都への思いを断ち切れず、未練の死であった。また、後堀河天皇から譲位された四条天皇の急逝を受けて、順徳上皇の皇子に次期天皇の期待が高まった。しかし、それも破れ、結果土御門上皇の皇子後嵯峨天皇に決まった。ただこの時すでに、土御門はこの世になく、幕府は生きている順徳が「治天の君」になることを警戒したのだ。徹底的に承久の乱の影響を廃したい幕府の姿勢は変わっていなかった。遂に、ここに順徳も「還幸」の望みを絶たれ配流池で絶命する。最後は、自ら食を絶つという壮絶な死であったという。

当然、幕府・朝廷はそれぞれの怨霊を恐れた。特に後鳥羽は生前から強い霊力を発揮し、乱後すぐ北条政子始め幕府の重鎮の死を招き、餓死者を多く出す飢饉をおこした。身内でも、後の天皇はことごとく早世した。先の、道家の「還幸」の願いは「怨霊」を恐れてのことだったのだ。幕府は、諡号に「順徳」同様に後鳥羽にも「顕徳院」と「徳」のつく怨霊封じの諡号を送ったが、それでも霊力が強く、泰時が懊悩の末に頓死するのを見て、後鳥羽と改めたほどだ。後世、後鳥羽天皇というのはここに始まる。

その後、後醍醐天皇が一瞬「中興」する。それでもまだ皇室が武力を行使できた時代である。戦国時代には、武力どころか経済力もなくなり、後水尾天皇は権威だけで幕府と戦おうとする。本格的尊王思想の高まりは、光格天皇を経て、王政復古を果たすのは、まだまだ先の幕末であり、ここから600年も後のことである。

 


979回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉞

2023-02-27 08:31:30 | 日記

5、後鳥羽の君主意識  権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもの。

尾上松也、『鎌倉殿』のラスボス鎌倉殿では、尾上松也がハマった。

ここでどうしても確認しておかねばならないのが、後鳥羽上皇の君主意識である。ここは、本郷和人氏『承久の乱』に分かり易く書いている。同書「第5章後鳥羽上皇の軍拡政策」の中で、後鳥羽と義時の国家観の違いを説明している。まず、後鳥羽は、「伝統的な国家観」を持っていたとしすべての頂点に皇室がいて、貴族には政治、寺社には文化・宗教、武家には治安維持というように役割分担があり、それを「権門」といい、相互補完しながら最終的には天皇を支えるという事だ。さらに、貴族には大臣・武士には将軍・僧侶には僧正というように権威を与えるのが天皇であり、征夷大将軍もその例外ではない。それに対して、義時の国家観は、在地領主の為の政権を在地領主が支えるという独立した関東政権構想であり「東国国家論」とも言うべきものであった。相対立するようだが、その共存を考えたのが3代将軍実朝だったのではないか。つまり東国支配に留まる鎌倉幕府が、朝廷の権威を最大限に利用し安定的に治め、地盤を固めることによっていずれは西国も支配下に治めて行くという目論見だ。その後、江戸時代に「大政委任論」という考え方が出て来たが、それを先取りするような考え方だ。その為には、朝廷と対立するのではなく、幕府の強化のために皇族将軍を置いて、むしろ朝廷崇拝を一層高めるという政策だった。その為に実朝は、朝廷の忠実な近臣になろうとした。天皇⇨将軍⇨御家人という統治ラインを考えたのである。実朝が、初代頼朝の右大臣を越えて太政大臣にまで地位を上げ得たのは、後鳥羽と実朝の深い読みがあったと見るべきとした。幕府にとって「対立」することには何のメリットもないのである。しかしそれは義時と後鳥羽では成り立たず、御家人たちからは、実朝は朝廷へ迎合したとしか見えなかったのだ。

刀剣ワールド】後鳥羽天皇

加えて、後鳥羽の国家意識は、極端なものであった。三種の神器を欠いた即位であったことによるコンプレックスが終生付きまとったのか、強い「復古主義」の実践者となった。「延喜・天暦の治」と言われた醍醐天皇・村上天皇の時代に憧れた。それは、勅撰和歌集を「新古今和歌集」(古今和歌集は醍醐天皇の勅撰)と命名したことに顕著に現れている。従って、自らも朝廷儀式の勉学に励んだ。時には、無知な公家衆にもきつく叱責されたようだ。また、自由闊達を標ぼうするが、自由も闊達も後鳥羽が考え与えるものであって、部下である公家たちが天皇や上皇の権威を冒すような振舞いがあれば、「戯れと雖も、頗る恐れあり」(明月記)と叱責した。突然に激怒するようなこともあったようだ。権威(地位)だけではなく自由(精神)もすべて上皇が与えるもので個人の自由ではなかった。そのような神経質な対応は、いつの時代でも人望を得ることはない。そのような後鳥羽にとって、義時は「自由に振舞う不埒者」に見えたのだ。 しかし時代の趨勢を俯瞰的に読む力は後鳥羽上皇には無かった。


978回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉝

2023-02-24 09:06:40 | 日記

3,事件の経緯(発端) 後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけ。

義時を討て」後鳥羽上皇の勝算と誤算 承久の乱から武士の世に ...

 事件は、「乱」なのか「変」なのか、単に「合戦」なのか。合戦には違いないが、「変」というと偶発的・短期的なもので、本能寺は「変」である。「乱」は、計画的に準備された戦乱であり戦争に近い。だから応仁の「変」とは言わない。しかし「乱」には反乱の意味合いもある。従って、戦前までは上皇が反乱するのはおかしい、逆賊はあくまでも北条義時であるという「皇国史観」に基づいて「承久の変」と言っていた。しかし、現在教科書には「乱」を採用している。従って、上皇の謀反と言う異常事態なのである。

 さて、承久元年(1219年)1月、雪中の鶴ケ岡八幡宮で、3代将軍実朝が暗殺される。それをきっかけに遂に時代が大きく動く。以下、坂井孝一氏『承久の乱』をもとに経緯を書く。今までの定説によると、その一報を聞いた後鳥羽上皇は、狂喜し「倒幕」の機会をうかがうようになったとされている。その伏線として、実朝を右大臣にまでして「官打ち」にしたとされる。官打ちとは、身分不相応な高い位につけて「呪い」をかける事である。しかし、最近の研究でそれでは辻褄の合わないことが多いことが分かっている。 また、実朝のイメージの「武者らしくなく和歌など文化的才能しかなかった。」というのも疑わしい。2代頼家のあと統治者として次々と政策を打ち出して、むしろ政権発足以来の成果を挙げている。しかも、頼家のように御家人たちが反発した形跡もないのである。急きょ担がれて将軍になったが、地道に努力して御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、遂には権威と権力でしっかりと幕府を運営していたようだ。ただ、不可思議なのは後継者を作っていない事だ。将軍など英雄には必須の生殖能力に問題があったのか、性的な嗜好によるものなのか、「源氏の正当な血統は自分の代で終わり、自らは高い官職について家名を挙げたい。」と自ら言っている。(坂井氏『承久の乱』)さらに、次期将軍には後鳥羽上皇の皇子を請来するという事を考えていた。意外にもこれについては、母の北条政子始め鎌倉御家人一同が協力して動いている。その事から考えられるのは、「一族の骨肉の争い」に終止符を打ちたいという気持ちは鎌倉御家人の全員の共通したものだったのだ。

源実朝 暗殺の謎。黒幕はなんと北条義時?三浦義村?それとも ...実朝暗殺 

 後継将軍を皇室から招き、自らは「幕府内院政」という立場で武家政治を行う。一方、朝廷で院政を敷く後鳥羽との連携を目指していたのである。場合によっては、実朝は政治は次世代に任せて上洛し、後鳥羽と歌合せなどを楽しみたいとまで思っていた節がある。このように、実朝の施策は後鳥羽の考え方と相いれるものだった。呪いの「官打ち」ではなく、二人の蜜月関係と解釈した方が辻褄が合う。

 しかし、その実朝が暗殺されたのである。公暁という青年の愚挙が、歴史に多大な影響をもたらした。しかもその直後、御所が焼失するという大事件が勃発する。その事件というのは、鎌倉将軍が摂関家(九条家)から招くことに決定すると、京都においては、源三位頼政の孫源頼茂が将軍職を狙って反乱を起こす。後鳥羽が鎮圧軍を出したが、こともあろうに御所を燃やしてしまう。鎌倉の権力争いが、京都まで飛び火した形だ。この後、後鳥羽は御所再建に苦闘するが思うようにいかない。そもそも鎌倉の執権義時がしっかりしていればこんな事態にならなかったはずだ、と、考えるようになる。そして遂に、義時討伐の決意をする。決して倒幕ではない。思うような幕府にするために立ちあがったのだ。倒幕が目的ならば、頼茂の反乱に協力しこそすれ兵を出すことはない。繰り返すが、後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけだ。

 

  • 源三位頼政 平氏政権の中でも重用された源氏の長老。以仁王と組んで平家討伐の兵を立ち上げるが、敗走し宇治の平等院で切腹。

977回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉜

2023-02-23 12:03:20 | 日記

2,源家と皇室  不倫・不貞・略奪・そして兄弟親子の殺し合いなどなんでもあり。

特設サイト「鎌倉殿×13人の重臣たち」 - 鎌倉市観光協会 | 時を ...鎌倉市HPより

ここで平家討伐以降の源氏一族の推移を確認する。(昨年の鎌倉殿13人に詳しく描かれた。)源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解(讒言による)を受けて奥州平泉で討たれた。範頼も遂には、猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、源氏一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達(これが13人)に無理やり権限をはく奪され、それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企家を頼りに実母政子の北条家と対立する。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。頼家の同母弟3代将軍実朝も、頼家の遺児公暁により殺害され、その公暁も直後報復にあい殺される。公暁の弟も後日共謀を疑われ殺されている。そしてその後、頼朝の異母弟である阿野全成の遺児である時元が将軍の地位を狙い挙兵するが失敗し自殺する。その弟道暁も今後の憂いを絶つため北条氏に殺害される。お分かり頂けているかどうか、頼朝一族はここに根絶したのだ。八幡太郎義家を祖とする源家本流は根絶やしとなった。この間、北条政子は執権北条家の者とはいえ、実子を含む近親者をことごとく失いどんな思いだったのだろうか。幕府は、執権北条家の独裁に向けて突き進んで行った。

尾上 松也 プロフィール|松竹エンタテインメント後鳥羽天皇役だった 尾上松也

  一方、皇室(朝廷)は、後鳥羽上皇が治天の君として着々と独裁(親裁)を進める。ただし、後鳥羽の長子土御門天皇は温和な性格で、後鳥羽とは反りが合わず、承久の乱においても消極的であったと伝わる。そこには複雑な事情があった。土御門の実母(在子)の母範子は藤原範兼の子で、後鳥羽の乳母であった。また、次の天皇で弟の順徳天皇の実母(重子)の母兼子も藤原範兼の子で、こちらも後鳥羽の乳母であった。つまり後鳥羽の寵愛を受けた二人の女性は従妹同士だった。ややこしいのは、土御門の母が、あろうことか自分の母が寵愛を受けていた男と密通してしまう。これが後鳥羽が在子を母に持つ土御門を嫌う決定的な要因かと思う。その密通の相手は希代の策士と言われた源通親である。通親は村上源氏の末裔で、高倉天皇の側近として世に出て来た人物で、平家とも近しい関係を築く。しかし平家滅亡後は源氏にも後白河にも重用されるなど、一定の勢力に属さず上手く世渡りをしている人物だ。後白河上皇崩御後は、その最大の荘園を相続した勢力につくなどしてこの時期にうまく一気に政治勢力を伸ばしている。そのような時、自ら面倒を見ていた在子(親子とも男女の関係)が、後の土御門天皇になる皇子を生んだのだ。「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と言われ、「源博陸」と称され人生の絶頂を迎える。このようにしたたかな通親は、一方で朝幕間の重し役でもあった。この源通親の死が、当然のように後鳥羽が強行策に転じる一つのきっかけとなった。従って、土御門上皇は性格上の問題もあったが、母親の関係からも積極的に関与できなかったのである。いつの時代も閨の出来事が政治に影響すると複雑な様相を呈する。

このように、朝廷にも幕府にも不安定な要素が内在していたのが、鎌倉時代初期の特殊性である。我々は後世、幕府が北条得宗家の支配になって行くことを知っているが、この時期どのような展開もあり得た混迷期であったことは間違いない。それにしても不倫・不貞・略奪・兄弟親子の殺し合いなど現代人には理解不能の世界だ。

だから歴史は面白い。


976回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉛

2023-02-22 11:01:21 | 日記

② 後鳥羽上皇

後鳥羽天皇 - Wikipedia後鳥羽天皇

1  神器無き即位

 

白河上皇以降、しばらく院政の時代が続き、「治天の君」(天皇の父で真に権力を持つ上皇)を争う戦いもあり、それに乗じて武士が台頭する。遂には、平安末期、平氏が皇位継承に口をはさみ「安徳天皇の誕生とその悲劇」を生む。

そして、この章の主役後鳥羽天皇の登場になる。筆者は、後世に名を残す天皇は、何らかのコンプレックスを持っているのではないかと思う。よく調べると即位の経緯が単純ではなく、複雑な事情を背負っている場合が多い。尊成親王(後の後鳥羽天皇)も、誕生時には天皇に即位する可能性はなかった。それどころか仏門に入る運命だった。長い間戦乱の無かった平安時代は、「平将門の乱」を経て、その後、「保元・平治の乱」で完全に武士の世の中に変化して行く。それは何事も武力で解決する闘いの歴史だ。最初の本格的武家政権は、源平の両雄の決戦を経て、平清盛の政権が実現する。しかし諸行無常の世の中は衰退する平氏と、復讐に燃える源氏との再決戦を迎える。その後、鎌倉幕府の時代へと移行する日本の中世の前夜だ。時の天皇は、後鳥羽の父である高倉天皇の第一子安徳天皇の時代で、安徳天皇は申すまでもなく平清盛の娘徳子(建礼門院)との間の皇子である。後鳥羽天皇は「平家に非ずんば人に非ず」と言われた時代の真っ只中で生まれた。平家との血縁の無い後鳥羽に即位の可能性はなかった。しかし、歴史の急展開でその運命は大きく変わる。

平清盛の実像清盛像

寿永2年(1183年)7月25日、源氏の木曽義仲に追われた平家一族は、安徳天皇を奉じて西国に落ちる。早くも御所では、8月20日に後鳥羽天皇が即位する。木曽義仲は別の王子である北陸宮を新天皇に推したが、当時なお治天の君(朝廷の権力者)であった後白河上皇の意思で後鳥羽に決まった。異例なのが、まず3種の神器がないこと、そして前天皇が退位していない事である。禅譲でも譲位でもない異例の即位である。何より問題なのは、その後壇之浦の海中深く神器は沈んでしまい3種の神器が揃わない事である。現代ならば実質的に天皇であればそれで良いとも言えるが、古代には神器にこそ日本国統治の霊力が宿っていると考えていた。もし天変地異や戦乱が続けば、その霊力を引き継いだ天皇の「徳の無さ」が原因とされたくらいだ。後鳥羽天皇が、どうしても強い君主意識を発揮し朝廷主導の「あるべき世の中」にせねばならないと決意する理由がここにある。後鳥羽は決して軽んじられてはならないのだった。

 ただし、即位時はまだ4歳であり、その様なコンプレックスに悩むのはまだ先のことである。治天の君は、あくまでも祖父の後白河上皇であり、武家社会では源頼朝が君臨することになる。その後、建久3年(1192年)後白河上皇が崩御し、建久10年(1199年)頼朝が横死する。二人の希代の英雄であり策士であったライバルが相次いで亡くなり、後鳥羽は子の土御門天皇に譲位し上皇となり、「治天の君」の地位を得て、いよいよ後鳥羽の闘いの歴史が始まる。