アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

696 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後鳥羽天皇 ② 源家と皇室

2020-03-31 07:51:03 | 日記

② 源家と皇室

「義経」の画像検索結果

 

 

 

 

 

九郎判官義経

 

ここまでの源氏一族の推移を確認する。源平合戦において、実働部隊を率いて平家を滅亡に追いやったのは義経・範頼の兄弟である。特に、義経は時代のヒーローとなったが、兄頼朝の誤解を受けて奥羽平泉で討たれた。範頼も結果として猜疑心の強い頼朝の前には生き残れなかった。そして頼朝自身も急死する。その後は、足利幕府発足時の「観応の擾乱」以上の一族内の混乱が続く。まず、2代将軍頼家は独断専行が過ぎ御家人達に無理やり「合議制」とされる。それに不満を持った頼家は、自らの乳母の一族である比企氏を頼りに北条家と対立する。一方、父頼朝の弟(頼家には叔父)阿野全成が殺害される。遂には、頼家自身も北条一族を中心にした勢力に追われて殺される。3代将軍実朝も、頼家の遺児公暁により殺害され、その公暁も直後報復に遭い殺される。公暁の弟も後日共謀を疑われ殺されている。そしてその後、阿野全成の遺児時元が将軍の地位を狙い挙兵するが失敗し自殺する。その弟道暁も今後の憂いを絶つため北条氏に殺害される。お分かり頂けているかどうか、頼朝一族はここに根絶したのだ。八幡太郎義家を祖とする源家本流は根絶やしとなった。この間、北条政子は執権北条家の者とはいえ、実子を含む近親者をことごとく失いどんな思いだったのだろうか。幕府は、執権北条家の独裁に向けて突き進んで行った。

 

「政子」の画像検索結果

 

 

 

 

 

尼将軍 北条政子


一方、皇室(朝廷)は、後鳥羽上皇が治天の君として(親裁)独裁を始めると前項で書いたが、後鳥羽の長子土御門天皇は温和な性格で、後鳥羽とは反りが合わず、承久の乱においても消極的であったと伝わるが、実際は複雑な事情があった。土御門の実母の在子(後鳥羽妃)の母範子は藤原範兼の子で、後鳥羽の乳母であった。また、弟の順徳天皇の実母重子(後鳥羽妃)の母兼子も範兼の子で、こちらも後鳥羽の乳母であった。つまり後鳥羽の寵愛を受けた二人は従妹同士だった。ややこしいのは、在子の方は、母が寵愛を受けていた源通親と密通してしまう。(後鳥羽が土御門を嫌う決定的な要因か)この村上源氏の末裔の源道親は、高倉天皇の側近として世に出て来た人物で、従って、平家とも近しい関係を築くが、平家滅亡後は源氏にも後白河にも重用されるなど、一定の勢力に属さず上手く世渡りをしている。後白河上皇崩御後は、その最大の荘園を相続した宣陽門院の後見を勤めこの時期に一気に政治基盤を築いている。そのような折り、自ら面倒を見ていた在子が、後の土御門天皇になる皇子を生んだのだ。「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と言われ、「源博陸」と称され人生の絶頂を迎える。一方、頼朝上洛においては、頼朝の右近衛大将任官の上卿を務めるなど関東の歓心を買うこともしっかり行っている。このようにしたたかな通親は後鳥羽の妃である在子との肉体関係を疑われるものの、朝幕間の重し役でもあった。この源通親の死が、後鳥羽の強行策に転じる一つのきっかけとなった事は間違いない。

「源通親」の画像検索結果

 

 

 

 

 

源 通親


以上、朝廷にも幕府にも不安定な要素が内在しているのが、鎌倉時代の初期の特殊性である。後世、我々は幕府が北条得宗家の支配になって行くことを知っているが、この時期どのような展開もあり得た混迷期であったことは間違いない。それにしても不倫・不貞・略奪・兄弟親子の殺し合いなど現代人には理解不能の世界だ。だから面白い。


695 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後鳥羽天皇 ①異例の即位

2020-03-30 07:32:09 | 日記

① 異例の即位

「後鳥羽」の画像検索結果

 

 

 

 

 

 

 このシリーズは、一つの仮説をもとに書いている。後世に名を残す天皇は「一定のコンプレックスを持っている。」という事だ。誕生や即位の経緯が単純ではなく、何らかの複雑な事情が重なっている場合が多い。今回の主役尊成親王(以下後鳥羽天皇)も、即位する可能性はなかった。父である高倉天皇の第一子安徳天皇は、申すまでもなく平清盛の娘徳子の皇子である。後鳥羽天皇は「平家に非ずんば人に非ず」という時代の中で生まれた。平家との血縁の無い皇子に即位の可能性はなかった。しかし、歴史の急展開がその運命を変える。

「安徳」の画像検索結果

 

 

 

 

 

安徳天皇


寿永2年(1183年)7月25日、木曽義仲に追われた平家一族は、安徳天皇を奉じて西国に落ちる。早くも8月20日には、後鳥羽天皇が即位するのだ。木曽義仲は※以仁王の遺児北陸宮を新天皇に推したが、後白河上皇の意思で決まった。歴史上異例なのが、まず3種の神器がないこと、そして前天皇が退位していない事である。禅譲でも譲位でもない異例の即位である。何より問題なのは、3種の神器がない事で、現代ならば実質的に天皇であれば良いとも言えるが、古代には神器にこそ日本国統治の霊力が宿っていると考える時代だったのだ。天変地異や戦乱は、その霊力を引き継いだ天皇の「徳の無さ」だとされたのだ。後鳥羽天皇が、どうしても強い君主意識を発揮し朝廷主導の「あるべき世の中」にせねばならないという源泉がここにある。

「後白河」の画像検索結果

 

 

 

 

 

後白河上皇

「頼朝」の画像検索結果

 

 

 

 

 

頼朝


 ただし、4歳の後鳥羽天皇がその様なコンプレックスに悩むのはまだ先のことである。治天の君は、祖父の後白河上皇であり、武家社会では源頼朝が君臨するのだ。その後、建久3年(1192年)後白河上皇が崩御し、建久10年(1199年)頼朝横死する。二人の希代の英雄であり策士であったライバルが相次いで亡くなり、前年には、子の土御門天皇に譲位し上皇となり、治天の君の地位も確立し、いよいよ後鳥羽の歴史が始まる。


694 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ⑥ お二人の晩年

2020-03-28 07:30:28 | 日記

⑥ お二人の晩年

後水尾上皇は、譲位した後は健康も回復したのか、魅せられたように自由に活動している。

「修学院離宮」の画像検索結果

 

 

 

 

上離宮 浴龍池

一番目立つのは修学院への行幸である。岩倉、幡枝御所を中心に離宮建設場所を求めてしばしば訪ねている。平安の昔、嵯峨天皇が、嵯峨野に隠棲の地を定め、後に門跡寺院である大覚寺という官寺を建設したのと同じ構想をもっていた。慶安4年(1652年)、徳川家光が没するタイミングに独断で「落飾」し法皇となった後水尾は、仏道の拠点に考えていたのかも知れない。寺院の建設は実現しなかったが、現在も見学希望者の絶えない「閑放の地」を立派につくりあげた。

「御所染め」の画像検索結果

 

 

 

 

 

御所染め 全国に広まった。


修学院御幸の時は、必ず東福門院を伴っていた。この徳川和子について、前出の熊倉功夫氏『後水尾天皇』には、「むしろ庶民にこそ受け入れらえた。」と書かれている。莫大な財力をバックに、派手好みとして巷にも噂の和子は、尾形光琳の実家である呉服屋「雁金屋」から膨大な衣装を注文していた。「御所染め」と言われ、中宮和子は京都に於けるフアッションリーダーとなっていた。武家出身だがむしろ庶民の憧れの的とされ、和子に最初の皇子が誕生した時には、町の人々のお祝いの踊りが洛中から中宮御所にまで繰り広げられたという。戦乱の世が治まり、公武合体が庶民にも好ましく思われたのだろう。

「後西天皇」の画像検索結果

 

 

 

 

 

後西天皇 


また、36名にも及ぶ後水尾のお子達の良き母親でもあった。特に、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇と他の女房からの所生とは言え、3人の天皇をすべて自ら子として即位させている。幕府に遠慮したり、経済的に不自由することの無いようにとの深い配慮である。最も象徴的なのは、先にも書いたが、およつ御寮人の子である梅宮(文智女王)との交流である。門跡寺院円照寺を、修学院離宮造営にあたり大和に移転するにあたっては、誠に手厚く配慮している。一方、梅宮の方もその好意に深く感謝の気持ちを伝えている。そして、東福門院の臨終に際して寝所近くに侍っていたのだ。延宝6年(1678年)東福門院和子72歳の大往生であった。

「泉涌寺月輪陵」の画像検索結果

 

 

 

 

 

泉涌寺 月輪陵


そしてそのあとを追いかけるように、同8年(1680年)後水尾法皇も臨終を迎えていた。長く生きることが、幕府への最後の戦いだった。暑気あたりからの衰弱と伝えられるが、中宮和子同様老衰による大往生というべきだろう。85歳の長寿は、昭和天皇が超えるまで最長寿天皇であった。昭和天皇のおっしゃった通り「(寿命や医学の発展など)時代が違う。」ことを考えると別格のことと言わざるを得ない。これで、幕府と正面から戦う天皇はしばらく出て来なくなる。清和天皇の諡号を希望して「後水尾」としたのはご本人の「御素意」である。京都洛中にはお二人のゆかりの寺院・神社など数多い。


693 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ⑤ 東福門院和子との怖い関係

2020-03-27 07:31:43 | 日記

⑤ 東福門院和子との怖い関係

 ここで、後水尾天皇の皇子・皇女を、お相手ごとに羅列する。A~G7名の方々から36名のお子様を生ませておられる。もちろん記録に残るものに限られる。

「東福門院」の画像検索結果

 

 

 

 

 

東福門院和子


 さて、腫物に悩まされるもののすこぶる健康な天皇が、多くのお子を成すのは大変結構な事だ。高貴な方達の重要な役目の一つが「生殖活動」である事は何度も書いて来た。しかし、不自然ではないか。健康な男子であれば生殖に最適な年齢は、10代後半から20代前半である。ところがおよつ御寮人事件の四辻与津子との間の2名以外には、20代のみならず譲位するまではその中宮和子との間しか子がいない。女性に興味の薄い天皇ではない。上皇となって多くのお子を作っている事から見ても晩年までお元気でいらっしゃる。まことに不思議なことだ。 幕府に遠慮して、在位中は側室を持たなかったのか。あるいは・・・。

「東福門院」の画像検索結果

 

 

 

 

 

後水尾上皇


 そのあたり、熊倉功夫氏『後水尾天皇』中公文庫(第3章寛永6年11月8日譲位)には、細川三斎(忠興)が当時の世間の噂を息子の忠利に書状で書き送った内容を紹介している。なんとその中に、衝撃的箇所があった。後水尾の退位の理由を縷々書いているのだが、「御局衆のはらに宮様たちいかほども出来申候を、おしころし、または流し申し候事」という箇所である。つまり、隠れた(言えない)理由として、天皇の中宮以外の女官に出来た皇子が殺されたり流されたりしていたというのだ。つまり、徳川家の直系の孫以外には決して皇統を継がせないという事である。文面からは複数のお子が処分されたことと思われる。
 確かに、一代限りとは言え女帝である明正天皇という徳川家の血筋が即位してからは、猛烈な勢いでお子を成していらっしゃるのだから、噂とは言えあり得る話である。一方、それでも和子との間に2名の男子が誕生している。しかし、二人とも早世である。これも不自然ではないか。成長したのはすべて皇女である。偶然なのか。徳川家と朝廷の黒い戦いがあったのである。後水尾天皇は今までの天皇と違って武力は行使できなかったが、ものすごい戦いを行っていた。

「明正天皇」の画像検索結果

 

 

 

 

 

明正天皇


 ただ、救いはお二人が、「琴瑟相和す」関係であったのだろう。中宮和子と天皇の間には計7名のお子が出来ている。確かに今に残る和子の肖像を見ると、可愛いお顔をされている。また教養にあふれ京都の多くの寺院の再興に努めている。
 さらに、和子臨終の折り、枕頭にはおよつ御寮人の子文智女王がいたという。なぜかホットする話だ。それにしてもげに恐ろしや高貴な血の戦いというものは。

資料 後水尾天皇(上皇)皇子・皇女一覧(A~Gのお相手別、出生順に記載)
A中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678) 
B典侍:四辻与津子(?-1638)
C典侍:園光子(壬生院)(1602-1656)
D典侍:櫛笥隆子(逢春門院)(1604-1685) 
E典侍:園国子(新広義門院)(1624-1677) 
F典侍:四辻継子(権中納言局)(?-1657) 
G宮人:水無瀬氏子(帥局)(1607-1672) 

数字はお子の誕生時の後水尾の数え年齢
B23第一皇子:賀茂宮(1618-1622)
B24第一皇女:文智女王(1619-1697)円照寺
和子入内
A28第二皇女:興子内親王(明正天皇)(1623-1696)
A30第三皇女:女二宮[注釈 1](1625-1651、秋月院妙澄大師)
A31第二皇子:高仁親王(1626-1628)
A33第三皇子:若宮(1628)
A34第四皇女:女三宮昭子内親王(顕子内親王)(1629-1675)
譲位
D36第五皇女:理昌女王(1631-1656) - 宝鏡寺宮門跡
A37第六皇女:女五宮賀子内親王(1632-1696) - 二条光平室
C38第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)(1633-1654)
D38第五皇子:某(1633)
A38第七皇女:菊宮(1633-1634)
D39第八皇女:光子内親王(1634-1727)
C39第六皇子:守澄法親王(1634-1680) - 初代輪王寺宮門跡、179代天台座主
G40第九皇女:新宮(1635-1637)
C42第十皇女:元昌女王(1637-1662)
G42第七皇子:性承法親王(1637-1678) - 仁和寺御室
D42第八皇子:良仁親王(後西天皇)(1637-1685)
D44第九皇子:性真法親王(1639-1696) - 大覚寺宮門跡、東寺長者
C44第十一皇女:宗澄女王(1639-1678)
D45第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)
E45第十皇子:尭恕法親王(1640-1695)- 181・184・187代天台座主
C46第十三皇女:桂宮(1641-1644)
D46第十四皇女:理忠女王(1641-1689)
E47第十五皇女:常子内親王(1642-1702) -近衛基熙室、徳川家宣御台所近衛熙子の母
D48第十一皇子:穏仁親王(第3代八条宮)(1643-1665)
F50第十二皇子:尊光法親王(1645-1680) - 徳川家光猶子・知恩院宮門跡
D52第十三皇子:道寛法親王(1647-1676) - 聖護院宮門跡、園城寺長吏
E54第十四皇子:眞敬法親王(1649-1706) - 一乗院宮門跡、興福寺別当
F56第十八皇子:盛胤法親王(1651-1680) - 183・186代天台座主
E56第十六皇子:尊證法親王(1651-1694) - 182・185代天台座主
F59第十六皇女:文察女王(1654-1683)
E59第十九皇子:識仁親王(霊元天皇)(1654-1732)
E62第十七皇女:永享女王(1657-1686)

※ 熊倉功夫氏『後水尾天皇』118頁・インターネット情報などを参考に筆者作成


番外 コロナ騒動 について  若者に自覚を!!

2020-03-26 10:10:58 | 日記

何かおかしくないか?コロナによる所得補償について、一律の経済的援助が検討されている。一定の所得水準と影響度を加味して支給されるという。

「コロナ騒動」の画像検索結果

 

 

 

 

 

 

若い時、資本主義経済とは変動経済なので、底辺の労働者階級には必然的に雇用に影響が出る。完全雇用は無い。と、学びました。一方共産主義なら計画経済なので常に完全雇用なのだと教わった。実際はどちらが正解かは説明の必要はない!従って、国民は努力して雇用の不安のないように、あるいはその時(危機)の為に蓄えた。
ところが今や、何事が起こっても直ぐに、保証だ補填だと大騒ぎだ。本当に税金を使うべきは何なのか?本当の弱者は誰なのか?冷静に考えないと平等の不平等になる。世の中には声をあげられない人たちもいるのだ。

「コロナ騒動救済」の画像検索結果

 

 

 

 

 


若者達に言いたいのは、このような時にでも自らの雇用に不安がないように、努力せよ。と言う事だ。このような時に、援助を受ける人よりも援助してあげれる人になって欲しい。国への要求は、全て国民の血税だということを忘れていませんか。
国民一人一人の自助努力と、真に救われるべき弱者を忘れてはならない!冷静に耐えて行こう。痛みは平等ではないのだ。