アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

第7回 海北友松  建仁寺

2017-03-31 09:53:38 | 日記

善の心

 

海北友松 建仁寺
※ 今年は、海北友松のブームへ??
 昨年(16年)は、「本能寺の変」の真相を探る研究のブームとも言えた。その中で、明智光秀の筆頭武将である斎藤内蔵助の妹の嫁ぎ先である「長曾我元親と織田信長の約束」が話題になった。即ち「四国切り取り次第の事」(四国は全部元親の思い通りにして良い。)しかし、信長が、天下統一を前に約束を反故にした為、内蔵助が、本能寺での謀反を勧めたという説が俄然注目された。確か、一昨年、内蔵助と元親のやり取りが分かる書状が発見されたのがきっかけだったと思う。
 その話と、江戸時代の初期に活躍した絵師海北友松との関りを、フィクションを交えながら描いた小説「墨龍譜」(葉室麟作)が、面白かった。海北氏は、代々近江の戦国大名の浅井氏の有力武将で、浅井氏共々信長に滅ぼされた。若き海北友松は、絵師・僧侶として生きるか武将としてその海北氏を復興させるか迷っていた。一方、内蔵助の主君明智光秀は、信長に仕えつつも、彼の暴虐無人な性格に悩みながら、名門美濃土岐氏の復興の野望を抱いていた。信長が天下に名を轟かせたのは、斎藤道三の領地美濃を譲り受けたとし、その息子竜興を滅ぼした頃からであった。その折の斎藤道三からの「美濃譲り状」が、偽物であったという話を登場させて、それを暴くことで信長の正当性を失わせるというストーリーが展開される。そして、そのことは、内蔵助と友松の利害が一致するという展開である。
 光秀の野望は、遂に実現しなかったが、海北友松の夢はなんと息子の友雪において実現する。内蔵助の実の娘である春日の局が、徳川家光の代になって「父の恩返し」として海北家の復活を実現さている。誠に複雑な人間関係だが、この事から、本能寺の変は、家康も関わった壮大な陰謀であると示唆する論調で書かれている。
※ 宮本武蔵も絵の弟子
 海北友松は、関ケ原後、絵師として建仁寺を活動の場として、60歳を超えてから本格的に名声をあげる。一時狩野家の永徳に師事するものの狩野家の傲慢さに嫌気がさし独自の道を歩む。御用絵師の狩野家は、力を持つが故に他の絵師からは嫌われたようで、長谷川等伯の物語(安部龍太郎作)にも同様の話が出てくる。なお、友松は63歳で妻をめとり子供をもうけている。その子が、海北氏を復興させた友雪ということになる。その頃に傑作「雲龍図」を建仁寺に残す。さらに晩年には、宮本武蔵が一時師事したと伝わる。武蔵は、剣豪である一面に加えて傑出した絵の描き手であった。因みに、東寺の塔頭、観智院に作品が残っている。

※ 栄西創建の禅寺
・建仁寺
建仁寺は、花見小路の南のどん付きに入り口があるが、正式な入り口は南側、最南端にある勅使門と、その北の「三門」が正門である。そして、南北にまっすぐ法堂、方丈と大きな伽藍がそびえている。三門は、「望闕楼」と呼ばれる壮大な門である。まずは、北東にある庫裏の受付から入る。栄西が述べた禅語「大哉心乎」(大いなる哉 心や)の立派な屏風に迎えられる。禅寺定番の「韋駄天」が睨んでいる横を、まず方丈の庭園に向かう。「大雄苑」と呼ばれる雄大な枯山水の庭園だ。その向こうに法堂の大きな屋根が見通せる。庭に降りて秀吉ゆかりの茶室「東陽坊」を確認して、周辺の苔や石碑などを散策する。法堂では、平成14年に創建800年を記念して、小泉淳作画伯の描いた「双龍図」が、天井に描かれている。画伯は、鎌倉の建長寺の天井にも龍の図を描いているが、まだ真新しい龍の鋭い眼差しは鮮烈である。正面須弥壇の釈迦如来坐像とのコントラストがうまくライトアップされて、立体的な二つの龍が睨みをきかしている。方丈には、国宝「風神雷神図屏風」俵屋宗達作が、展示されている。劣化を防ぐために現在は、デジタル処理された精巧な複製を見せているが、むしろ劣化しない分鮮やかに見ることが出来る。等伯など、その後の著名な絵師が、挑戦した宗達晩年の生涯最高傑作である。そして、至る所に、海北友松の襖絵が見られる。「雲龍図」の襖絵が代表的だが、「琴棋書画図」や「竹林七賢図」など水墨画の代表的作品がゆっくり見られる。ただし、その中庭「潮音庭」に面する一室の襖絵は、現代の作者のものが展示されているが、周辺の佇まいと調和していない。私はこのような試みはやめてもらいたいと思う。
また、庭も見どころが多い。枯山水の「大雄苑」、中心の三尊石が特徴の「潮音庭」そして、禅の世界観である「〇△□乃庭」、〇が水、△が火、□が地という事らしい。いずれもいつまでも眺めていたい静かな空間だ。初夏の苔の鮮やかな新緑の季節や、秋の紅葉の時期は一層目を楽しませてくれる。
 境内は、広々としていて、四条から五条界隈への格好の抜け道になっていて、近所の方たちの貴重な生活道路になっているので、普段から近所の人が自転車などで行き来している。
言うまでもなく、栄西が開いた禅宗最古のこの寺は、学問的に優秀な僧が多く輩出された事から、「建仁寺の学問面」と言われる。創建1202年の当時の元号に因み、建仁寺とした。仁和寺や東京の寛永寺も元号を寺名としている。
 絵も庭も仏像も、それぞれ見どころが多いので、たっぷり時間をかけて見学したい寺だ。
 
・おすすめコース

 建仁寺~両足院~霊源院~正伝永源院~久昌院

 広大な建仁寺の境内では、塔頭寺も丁寧に見ておきたい。
まず、両足院は、かつての修行の中心地で、学問面の本拠であったが、今は庭と茶室が有名で、夏の特別拝観の時は、「半夏生」が人気で、茶室「水月亭」は、利休ゆかりの、国宝「如庵」を模写したものである。
霊源院は、今は小さな塔頭だが、創建当時、京都五山のみならず、鎌倉五山を含め、当時最高峰の五山文学の中心をなし、優秀な学僧を多く輩出した寺である。元妙喜庵に霊源院を統合する形で、現在地になり、茶室「妙喜庵」が見学できる。また、創建に関わった、中厳円月和尚の座像の体内から毘沙門天立像が発見され、その手に持たれた水晶の中に舎利がおさめられていたものが、本堂入り口すぐのところで見学できる。拝観は、季節限定だが、茶室で抹茶をいただきながら、寺の方に話を聞いたり、こじんまりした家庭的な良いお寺だ。
 正伝永源院は、境外の塔頭寺であるが、北方向に徒歩5分ほどで着く、こちらも拝観の時期は限られるが、紅葉の季節には必見のお寺である。幸い訪れる人も少なく、静かに拝観できる。正伝院と永源庵が統合されて、現在の寺名となった。明治の廃物稀釈の為に無住になり寺の存続危機もあったようだが、永源庵が細川家のゆかりの寺であったことで辛うじて生き残った。その為、細川護熙(元首相)が襖絵を寄贈していて、本堂左右両側に間近で見ることが出来る。また、織田信長の実弟、有楽斎が、大阪夏の陣から逃げ出したあと茶道三昧の生活を送ったのが、この寺であり、本人と奥方、娘の墓がある。さらに、国宝の茶室「如庵」の写しが、庭園横に克明に再現されている。如庵は、両足院にも写しがあり、喫茶を日本に伝えた栄西の関係で、建仁寺の茶道とのつながりの深さがうかがえる。
 久昌院は、現在(17年2月~3月)20年ぶりの特別拝観という事で、訪ねて見た。こちらは、戦国武将奥平信昌とその妻亀姫ゆかりの寺だ。奥平家は、元武田方の武将で、後に家康に仕えた。長篠の合戦で大功を立てた時の模様を伝える屏風図がこの寺の宝だ。その屏風には、川を刀を喰えて渡る武将が描かれている。その名は、鳥居強右衛門。『奥平信昌勢数百が立てこもる長篠城から、数千の軍勢で取り囲む武田勢を抜けて、家康本陣へと援軍を頼む使者になったのだ。ひと際、忠誠心厚い強右衛門が選ばれ、首尾よく援軍が間もなく来るという約束を得た。危険を冒してまで戻る必要がないにも関わらず、律儀な彼は、また城中を目指す。しかし、武田勢に捕らえられる。城に向かって援軍は来ないから降参しろと叫べば命は許すと言われる。決心した強右衛門は、承知と言い、磔台に、そして、城に向かい「城のみんな!援軍はすぐに来る!ご安心を!」と叫び、即、刺殺された。城方の士気は高まり、合戦の大勝利につながる。』奥平家の繁栄は、鳥居強右衛門のお陰なのである。
 それ以外には、茶室がいくつかあり間近で見られる。方丈庭園は、禅寺では珍しく池泉鑑賞式庭園で中心には心字池が広がる。面白いのは、通常方丈庭園は南側に広がるの
だが、方丈の東側に広がり、建仁寺の伽藍を借景にしている。今見逃すと、20年先になるのだろうか?
 このように歴史的にも有意義な塔頭と、その他境内にも、見どころが多く1日かけてでも見学したいお寺だ。
 注意 ただし、文中にも述べた通り、限られた時期しか拝観していない寺が多いため確認が必要だ。


第6回  小野篁  六道珍皇寺 あの世とこの世の境

2017-03-30 09:41:51 | 日記

    六道珍皇寺 と 閻魔像

⑥  小野 篁 六道珍皇寺

・六道の辻
 ※昔はここから先は、「あの世」だった?
京都には、葬送の地が3か所ある。鳥辺野、化野、蓮台野。平安の昔から、死者はその地であの世へと見送られた。化野(あだしの)とは、京都の西嵯峨鳥居本のあたりで、化野念仏寺の1000体以上の無縁仏が有名。蓮台野(れんだいの)は京都北部紫野から船岡山あたり。そして最大の葬送の地が、ここ、鳥辺野(とりべの)である。京都東山の清水寺の南側にある広大な墓地あたりである。昔は火葬されるのは身分の高い人間だけ、燃やす木材すらない庶民は、その地に風葬されたと思われる。カラスなどの野鳥の餌になったのだろう、鳥辺野という名前にその事が、伺い知れる。従って、その地は、昔からあの世とこの世の境界と信じられていた。
 東山の清水坂を下って東大路通の松原辺りが、その地と言われる。この地に中世、活躍したのが、小野篁だ。渡来系の名門の小野家の系列の人で、小野妹子、小野東風、はたまた絶世の美女と言われた小野小町も同じ小野の系列の人だ。
 篁は、数奇な運命をたどった人で、遣唐使に選ばれるものの、果たせず、その後、何かの事情で一時島流しに会うが、復帰し宮廷に仕えた。しかし、篁には不思議な霊力が
あり、昼は朝廷に出仕し、夜はある井戸を通じて地獄に通い閻魔大王にも仕えていたという。また所説あるが、篁が病を得て死んだ時、地獄に至り、その責め苦を目の当たりに見た後、地蔵菩薩に救われ現世に戻ったとも言われている。その事から、地蔵信仰を進めるべく一木から6体の地蔵菩薩を彫ったと言われ、後世、平清盛の指示により京の重要地6か所に安置したと言われる。京都夏の風物詩「六地蔵巡り」の始まりである。
※幽霊が、雨で赤ちゃんを育てた??
六道珍皇寺の界隈は、地獄と現世の境目だ。それゆえに多くの伝説を残している。
その一つ、「幽霊子育て飴」『ある夜、妙齢の女性が、飴を買いに来ました。やや様子がおかしいけれど一文銭を手に飴を買って行く。あくる夜も訪ねて来て、一文銭と引き換えに飴を。そして7日目、お金がないので、着ていたこの羽織と引き換えにと言う。仕方なくそれを受け取り飴を渡す。不思議なことに雨も降っていないのに、その羽織はぐっしょり湿っていたので、あくる朝玄関先に干しておいた。通りがかった大店の旦那が、この羽織は?と聞く。事情を尋ねると、若くして死んだ娘の棺桶に愛用の羽織とともに埋葬したとのこと、その羽織が干してある。そして、すぐに墓地を掘り起こすと、白骨化した娘の横で赤ちゃんが元気に泣いていた。』その娘さんはおなかに赤ちゃんを宿しながら死んだ。土の暖気で生まれた赤ちゃんへの思いは強く、幽霊となり三途の川の渡し賃の六文銭で飴を買い子供を育てたのである。その赤ちゃんは成長の後、ある大きなお寺の住職になったとされる。その飴が、「幽霊子育て飴」今でも、六道の辻、西福寺前で売っている。
・六道珍皇寺

 鳥辺野の入り口にあるこのお寺には妙な雰囲気が漂っている。山門の前には、「六道の辻」と書いた大きな石碑が建つ。
創建は、空海と言う説や、小野篁と言う説など諸説ある。名も、チンノウジではなく、チンコウジと読むのだそうだ。別称も多く、寶皇寺・鳥辺寺・念仏寺・愛宕寺・そして通称は、六道さんである。因みに、愛宕寺は、嵯峨野に移って愛宕念仏寺になったと思われる。

魂まつり ここが願いの みやこなり         服部 嵐雪

毎年、8月盂蘭盆会の前、7日から10日にかけて、先祖の精霊を迎える「お精霊(しょうらい)迎え」または「六道参り」と言う。山門を潜ると、左右に出店が並んで
いてそこで、「高野槇」を買う。昔から高野槇の葉に先祖の霊が帰って来ると言われている。依り代のようなものだろう。そして迎え鐘を突く。いつも暑い最中だが、相当な
行列となる、裏門を出て通りを一キロにも及ぶことにもなる。熱中症に気を付けながら数時間の待ち時間だ。
行列の最後尾が、宇治茶の「辻利」の本社の前まで続くこともあり、お茶の携帯は必須だ。(水でもポカリでも良いが、辻利の前なら宇治茶が良い?)そして、やっとたどり着く、そして、迎え鐘を突く。一度二度と突きたいが、後に待っているので一人ひと突きが礼儀。よくある、大鐘ではなく、小ぶりの鐘は、梵鐘の中に納まっていて見えない。鐘は引いて鳴る。手を合わせて先祖を謹んで迎える。すぐに本堂横にあるテントの前で、水塔婆を買って、先祖の戒名や没年を記入してもらう。先ほどの高野槇で水を浸して水回向を行い、地蔵尊の前に備える。このような一連の所作は、周りの人々についていけば良い。因みにこのようにお迎えした精霊は、大文字の送り火で、あの世にお送りし、さらに念のため六地蔵参りで丁重に閻魔様には先祖が地獄に行かないようお願いしておく。これが京都人の先祖への回向である。
篁の「冥途通いの井戸」は、普段非公開だが、本堂の右奥に遠目にだが見える。最近、周辺の元の境内敷地から、「黄泉帰りの戻り井戸」が発見されたとの事である。冥途通いと言うからは、一つの井戸で行ったり来たりしていたと思いきや、出口入口が決まっていたのだ。マリオが土管から出てくるように行き来していたのである。
御本尊は、薬師如来だが、本堂右の、篁堂の中にある、小野篁像と閻魔大王像は迫力があり必見である。

・おすすめコース

六道珍皇寺~西福寺~六波羅蜜寺

 ※この辺りは、見どころも多く、絞るのは難しい。
すぐ近くの、西福寺。ここも地獄の入り口とされている。空海が開祖とされるが、桓武天皇の皇子、嵯峨天皇の皇后の檀林皇后は、特に仏教への帰依が深く。しかも相当な美女であったと言われる。その皇后が、亡くなった時に、「わが死体を野に晒せ、そして朽ち果てる様を絵に残せ」と仰せられた。これを「九相図」と言う。①死体②死
後膨張③腐敗④蛆虫がわく⑤鳥が食らう⑥一部白骨⑦白骨化⑧骨が散乱⑨塚が建つ。この9段階を見せる事で、肉体の不浄さ、世のはかなさを見せたという。生前が美しい方であればあるほど凄まじいものであったと思われる。その「九相図」と「地獄絵図」がお盆の間、公開される。心臓の弱い人には、おすすめ出来ない。普段は、見逃してしまうお寺だが、洛中洛外図屏風や天井画など、極狭い本堂の中には見どころが多い。玄関は、下駄箱や水屋が置いてあり、普通の民家の生活感がにじみ出ている珍しいお寺だ。
六波羅蜜寺は、申すまでもなく平清盛ゆかりのお寺。口から阿弥陀さんが出ている「空也像」で有名なところである。六波羅は、轆轤原(ロクロ原)がなまったものか。当時、鴨川べりでは、無縁仏が轆轤を晒していたのだろう。名前の由来からして不気味な地域である。くれぐれも夜一人で出歩かないように。
念のため「幽霊子育て飴」は、買って帰ろう。    一つ500円也。


第5回  待賢門院  法金剛院

2017-03-29 10:01:40 | 日記

 

青女の滝 法金剛院 

第5回 待賢門院 璋子  法金剛院
「不徳の子を天皇に?」
・ 崇徳天皇の母君?
鳥羽天皇の中宮であるが、しかし、一方で、2代前の天皇、堀川上皇の手中の珠であった。複雑な説明は、崇徳院で書いた。一方の璋子(たまこ)の方の晩年の苦悩はいかばかりであったか。不徳の子を偽り天皇にした。二人の尊いお方の間に揺れ動いた女心。しかし、一方で強かで多情な女性の性(さが)を見るのである。
 璋子は、父藤原公実、母は、堀川、鳥羽両天皇の乳母であったこともあり、幼少から白河院のおそばにいた。7歳で両親を亡くした後は、白河院が親代わりにまさに掌中の珠として愛しんだ。初潮もまだない時から、同じ褥にて寝たという可愛がりようであったという。やがて璋子に女のしるしが表れて後、戯れに体を触りあっているうち男女の仲になったと思われる。60歳を超えた白河院の愛撫は、どこまでも優しく愛おしむごとく体の隅々に至るまで、璋子の反応を見ながら性の開拓をしたと思われる。遂に、白河院なくてはすまない体となった璋子は、「院と私のお子を天上の君に」と、願ったのではないか。すでに上皇となり子の堀川院から、さらにその子の鳥羽天皇の時代。自らの子を天皇にはできない。そこで驚くべき計画を実行するのである。
驚くべき画策?
 璋子が鳥羽天皇に差し渡された時、すでに妊娠していたかどうかは分からないが、鳥羽の中宮になった後もしばしば二人は逢瀬を重ねていた。今でいうお里帰りのような時に会っていたようだ。驚くべきことに、白河院はすでに精力の衰えを感じ、その時の射精で確実に受胎するようにと、月経の周期までも計算していた節があり、誠にその執念がうかがえる。
 しかもその間、鳥羽天皇の子を宿さぬように、璋子にその対応策も授けている。「月のさわり」だとか「体調が悪い」とかで拒絶するようにと挿入は避けさせた。しかし、若い血気あふれる鳥羽天皇、どうしてもとなれば、手や口でお受けするようにその方法も教えている。「お種頂戴」すべき高貴な精子。絶対妊娠しない手や口で受けるとは尋常ではない。しかし絶世の美女と言われた璋子に言われれば鳥羽も仕方なく、優しく手や口で果てる事でも十分満足していたのではないだろうか。また、手練手管の白河院の愛撫に女体を開発された璋子には、荒々しいだけで挿入を早くと望む鳥羽の閨は、当初苦痛でもあったと思われる。
 自分と白河院の間にできた子を天皇に、という望みは、そのようにして適った。しかし、その幸せも、白河院の死であっけなく暗転。鳥羽上皇の情愛の対象は、美福門院へと移り、その子である近衛天皇に譲位させられて、璋子は、自分のしたことの恐ろしさを知る。保元平治の大乱の原因を作った自分の罪深さを知るのである。
 恋多い多情の璋子は、歌人西行との恋も有名である。村上義清という北面の武士であった時代、ひと時の逢瀬があったと思われる。その後出家した西行だが、璋子への恋心は捨てきれず歌にその思いを託している。
 待賢門院璋子のゆかりの寺、法金剛院で何を祈り、誰の霊を弔ったか。
・法金剛院
 法金剛院は、JR花園駅のすぐ前にあるが、山門は極小さく見逃してしまうほどだ。京都には珍しい律宗の寺で、奈良の唐招提寺に属している。山号の五位山とは、仁明天皇
の時代、背後にある山に登られ、その絶景に見とれて、その山に、五位の位を授けられたことに由来する。寺名は、双丘寺、天安寺となり、待賢門院が復興し法金剛院とした。
 門を入ると、受付の小さな中門をくぐると、まず池泉回遊式庭園の中心の池が目に入る。その西側に西御堂と言われる本堂がある。以前は、池の南に南御堂、東に女院の寝殿があったと言うが今はない。西御堂の本尊、丈六の阿弥陀如来は、座像とはいえ見上げるほどの威圧感がある。宇治の平等院と日野の法界寺の阿弥陀如来とよく似ていて、平安時代の仏師、定朝の三阿弥陀と言われる。ならばこれも国宝指定されても良いのだが、ここのは、残念ながら弟子の院覚の作のようだ。待賢門院も日夜拝んだはずの仏像の前でしばし手を合わせて見る。出入り口が自動ドアであるのはやや興ざめだが、いよいよ庭に出てみる。
 池を巡ると、待賢門院堀川の歌碑がある。
なかゝらむ心もしらす黒髪の      乱れてけさは物をこそおもへ
 後朝(きぬぎぬ)を題材にした淫靡な歌のようだが、堀川は待賢門院に仕えた歌人で、万葉集にこのような歌を残している。
また西行も、終生の恋人である待賢門院が亡くなった後、法金剛院に一人残った堀川に、
尋ぬとも風のつてにもきかじかし        花と散りにし君が行方を
と、あの人はどこに行ってしまったのでしょうと送れば、堀川が、
吹く風の行方しらするものならば        花とちるにもおくれざらまし
と、行く先が分かれば私も後を追うでしょうと、返歌した。
当代一流歌人のやり取りである。
 歌碑を、やり過ごすと、このお寺の最大の見もの「青女の滝」がある。日本で最初の人工的な滝という事で、特別名勝に指定されている。特別名勝と名勝の関係は、国宝と重要文化財の関係と同じで、特に重要な庭園や史跡を指定している。日本に36ある中で、京都には14指定されている。金閣寺や銀閣寺の庭園はじめ誰でも知っている定番のスポットの中に法金剛院が入っているのだ。ただし、「青の女滝」は、残念ながら今は水が枯れて流れていず、往年の雅さはない。そこから引き返し池の周りを散策する。別名「蓮の寺」と言われるのは、この池には世界中の種類の蓮の花が初夏の季節に咲き乱れるからである。極楽を象徴する蓮の花は、恋多い待賢門院と罪多い我々とが、往生を願うには相応しいお寺かも知れない。しかし、ここでも興ざめなのは、池の東方の昔は女院の寝殿のあったあたりに豪華なマンションが建っているのが見える。
広大な敷地を維持できず、一般に土地を売却したり賃貸したりするお寺は多い。でも特別名勝と言われるくらいの特別な景色を維持するためには、国の援助もあって良いので
はないだろうか。いずれ金閣寺の向こうに高層マンションを眺める日も来るのだろうか?
・おすすめコース
法金剛院~妙心寺~仁和寺

 JR花園駅は、通りで言うと、丸太町通りと西大路通りの交差点から西北方面だ。ここから北へ今出川通りに至る間は、ほぼ妙心寺とその塔頭で占めている。法金剛院を出て、東に数分で妙心寺の大きな山門に行き当たる。
法堂の鏡天上の雲龍図は、探幽が晩年に描いた傑作でどこから見ても目が合う「八方にらみの龍」で有名だ。これは必見。そして「妙心寺の算盤面(ずら)」と言われるくらい寺の経営に長けていたので、塔頭寺(大きな寺の子分のようなもの)がとても多い。最も古い玉鳳院。国宝「瓢鯰図」を所蔵する退蔵院。庭園が美しい東海庵。沙羅双樹の寺である、東林院。そして、北門を出ると域外だが、竜安寺も妙心寺の塔頭だ。その日の最後に、その隣の仁和寺を見学したらどっぷり日が暮れているはずだ。


第4回 貞女の鑑 袈裟御前  「浄禅寺」  操は守るもの?

2017-03-28 10:19:18 | 日記

第4回  貞女の鑑 袈裟御前と文覚上人 浄禅寺

・平成の時代には、完全に絶滅した貞女
「貞女の鑑 袈裟御前」とは、ざっとこんな話。平安の中後期、鳥羽院の時代、中宮(待賢門院)の皇女に仕えていたのが、当時の絶世の美女と言われた袈裟御前。数々の誘いを断って、院を守護奉る北面の武士である渡亘と夫婦となる。誠に仲睦まじい新婚夫婦であった。しかし、以前から袈裟御前に懸想していた同じ北面の武士、遠藤盛藤が、言い寄る。度々の要求の挙句に、お前の母親を殺すと言われ、耐えかねて「夫の亘を殺して下さい。未亡人となればあなたの思いに応えましょう。」と、そしてその夜、遠藤は、予てから教えられた夫亘の寝所に忍び込み、首を掻き切って、月夜に照らすと、なんとその首は、愛する袈裟御前。女性には何の力も策もなかった時代、夫への操を守るにはこれしか方法がなかった袈裟御前。一方、遠藤盛藤は、袈裟の首を抱えたまま数日さまよった後、渡亘に許されず手打ちを望むが、叶えられず、世の無常を感じ出家。その人物こそ、苦行の後、天下を駆け巡り、頼朝に平家討伐を進めた文覚上人その人であった。
 古典平家物語では、さらっとしか書かれていないが、吉川英治の新平家物語に詳しく取り上げられて一気に話題になった。昭和の時代には、女の「操」は守るものであったらしい。今や「操」すらない。だからこの話は、現代では理解できない、今ならば、袈裟御前、「そこまで言うなら、旦那には内緒ですよ。」と、留守中に寝所に招き、度々の不倫の逢瀬を重ねるかも知れない。そうなれば頼朝の復讐もなかったし、神護寺や東寺の復興もなかったことになる。袈裟御前は、自分の操を守り、歴史の転換も引き起こしたのである。

・神護寺
 文覚が再興した神護寺は、奈良時代末期、道鏡が女帝に取り入り皇位を狙った事件に、登場するところの、清麻呂・広虫の姉弟の、和気清麻呂が開基と言われている。なお、姉の広虫は、京都御所の西にある、護王神社に、弟共々祀られている。皇位を臣下に渡さなかった功績と、姉の広虫は、今で言う子供の福祉活動に尽力した人物である。
 京都には、三尾と、七野と呼ばれる地域がある。七野とは、内野、北野、平野、上野、 紫野、蓮台野、〆野(しめの)である。三尾とは、高尾、栂尾、槇尾で、それぞれ神護寺、高山寺、西明寺があり、いずれも歴史的に重要な古刹である。人物鳥獣戯画で有名な高山寺は誰でも知っている寺だ。
中でも神護寺の、歴史的な意義と国宝の多さは、他の追随を許さない。京都西北の愛宕山の中腹にあり、車でも周山街道を30分ほど走り、清滝川を渡った後の参道の石段はかなりの体力を要する。しかも境内は広く十分な時間の余裕をもって訪ねたい。
 楼門を潜る時には、すでに息が上がっているかも知れないが、目指すは金堂の本尊である。それは、国宝の薬師如来立像だ。他の薬師如来より威厳が感じられ威圧感さえある。重要文化財である日光・月光菩薩を従えている。入り口には、有名な肖像画が置かれている。勿論、レプリカだが、我々子供の時は、平重盛像、源頼朝像、と教えられたが、いつのまにか、藤原光能のも含めすべて、「伝」となった。現在では、足利尊氏・直義・義詮と言う説が有力だ。筆者は、歴史的背景から考えるに、直義は無理があるのではないかと思う。(一方、直義の怨霊封じの意味があるという説も)さらに北方の山を登れば、文覚の墓や和気清麻呂の墓がある。境内中央に戻ると、五大堂や大師堂などが並ぶ、板彫の大師像が、大師堂にあるが普段は秘仏だ。また梵鐘も国宝で、「三絶の鐘」と呼ばれる。菅原是善(道真の父)など、当代一流の文化人3名が関わったことでそう呼ばれている。また、書道好きには、「灌頂歴名」が、空海の真筆として貴重なものであるが、現在は、京都国立博物館に保管されている。ただし、それ自体は、斜め書きで走り書きの様に見える、丁寧に書いたとは思えない作品だ。左下がりは空海の癖らしい。文覚が再興を願い書いた、「45箇条起請文」も勿論国宝である。
 「かわらけ投げ」は、近くの愛宕山でも有名だが、こちらが発祥らしい。素焼きの円盤状のかわらけを、うまく遠くまで投げて、厄除けをする。残念ながら、訪ねた時、8月の猛暑の時で、筆者のスタミナはすでに尽きていた。熱中症を恐れて、石段下の、茶店のかき氷を楽しみに早々に降りる事にした。(ミルク金時は絶品の味がした。)
・浄禅寺
別名 恋塚浄禅寺と言われる。遠藤武者盛藤は、鳥羽離宮の北面の武士であった為、また、袈裟御前の夫、渡亘の屋敷も鳥羽のあたりにあったこともあり、袈裟の首を落とした後、ここに埋めたとされるのが、浄禅寺である。小さなお寺で、境内は自由に出入りできるが、本堂には無断では入れない。見るべきは、江戸時代になって、朱子学者林羅山が時の領主に命ぜられ建てた、貞女の鑑の顕彰碑である。平安の時代には、性(SEX)については今よりかなり大らかであったはずで、むしろ朱子学の浸透と共に、江戸時代のこのころから貞女として称えられたのであろう。
・おすすめコース
六地蔵巡り 8月22日・23日限定
上善寺・伏見地蔵~浄禅寺・鳥羽地蔵~地蔵寺・桂地蔵~源光寺・常盤地蔵~大善寺・鞍馬地蔵~徳林庵・山科廻地蔵~
全行程 車で 約6時間
 京都のお盆の風物詩。平清盛の時代に、それ以前に、小野篁が一木で彫った六体の地蔵があった。当時、六体とも鞍馬口の上善寺にあったものを、京都の重要な街道の出入り口にそれぞれ6寺へと安置された。
そこからお盆明けの8月22日23日にかけて、お盆の間、各家庭に戻っていたご先祖の霊が、6地蔵を巡ることで無事あの世に帰れるよう願ったのである。つまり、京都のお盆は、六道珍皇寺の迎え鐘で、ご先祖をこの世に迎え、大文字送り火であの世に送り、6地蔵巡りでさらに丁寧にあの世に帰したのである。因みに、地蔵菩薩は、釈迦入滅後、56億7千年後に弥勒菩薩が、この世にあらわれるまで、その間、衆生を救う菩薩である。特に母親の様に子供達を救う事から、地蔵盆などでお菓子を配ったりして、子供の守り仏のような印象が強い。しかし、人間が救われるまでの間、六道に迷う亡者を救う、特に地獄でのお導きの仏さまだと言う。要するに、閻魔様に顔が利く仏様なのだ。


第3回  羽柴秀次 瑞泉寺

2017-03-27 09:18:06 | 日記

                                                  摂政関白 秀次

③ 羽柴秀次 瑞泉寺
 ・彼が本当に叔父である秀吉に謀反?
 百姓から関白になったのは、豊臣秀吉以外にもう一人いる。豊臣秀次だ。しかし、彼への歴史的な評判は、極めて気の毒なものだ。それは、およそこんな感じ、「秀吉の姉の子である彼は、叔父の出世に従ってなんの努力もせず地位が上がり、秀吉の手助けにもかかわらず素行が悪く人望にも欠ける人物で、挙句の果てには謀反の企てが発覚し切腹して死んだかわいそうな人。」である。
 しかし、そうなのだろうか。彼は当然ながら百姓の子として生まれる。姓も無い「治兵衛」が、最初の名だ。そのまま百姓でも十分幸せだっただろうに、叔父である秀吉のお陰で、最初の改名は、4歳の時、人質の相手である宮部家の形式的な養子となり宮部吉継になる。秀吉の政略に翻弄される第1歩だ。その後木下姓を名乗り、本能寺の変を挟んで四国名門の三好姓を継ぎ、三好信吉となる。そして秀吉の天下取りがほぼ終結するに当たり事実上後継者の位置づけとなる、羽柴孫七郎信吉と名乗っている。秀吉の関白就任とともに羽柴秀次とし名実共に後継扱いされている。その後、豊臣秀次となった時には、徳川家康、織田信長の次男の信雄、秀吉の弟である秀長に次ぐ序列4番になっている。官名も権中納言へ。このように出世したのは、秀吉の甥であることが最大の理由だが、果たしてこのような戦国の世に親戚が少ないとはいえ凡庸な人間がここまで取り立てられるだろうか。
 彼は、秀吉の弟の秀長同様、数々の合戦で副将を務めている。小牧・長久手の戦いで失態があり、その事が歴史上喧伝されているが、それ以外では手堅く手柄を挙げているのだ。どんな人柄か真相は分からないが、やや短気な部分があったと言われているが、20歳前後の若者がある日突然太守になったのだ、ある程度仕方ないことだろう。それよりも「謀反」の疑いだ。あり得ない。最近は、ほとんどの学者の見解も不自然であると見ている。筆者も石田三成など側近の讒言だと思っている。あるいは家康一派の陰謀もあり得る。凡庸ならば捨て置けば良いことで、侮れない人物であればこそ、秀吉亡き後の自分の天下には邪魔になると判断したのならば陰謀はあり得る話だ。
 秀吉は、何かの情報でやむなく高野山に幽閉させた。その後、許そうと思っていたのに、誰かの差し金なのか秀次自身が切腹してしまった。結果としてその恨みを恐れるあまり秀吉は常軌を逸し、彼の側室・子供のすべてを惨殺した。その時点では、秀吉も秀頼に対する異常な愛情から尋常な判断能力はすでに持っていなかったのであろう。
 秀吉の出世により、平和な百姓人生を翻弄され不幸にも死んだ一族はたくさんいる。何よりも秀吉自身幸せだったのだろうか。姉・母親を徳川の人質に出し、弟を酷使し、多くの甥や姪を政略に取り込み、自身も晩年、淀君への嫉妬に狂い、大いなる未練を残して死んで行ったのだ。
つゆと落ち つゆと消えにし わが身かな 難波の事は 夢のまた夢
幸福な人間の、辞世の句とは思えない。
 そして、まだまだ「怨霊思想」の強く残っている時代。その弔いの寺がある。

・瑞泉寺

 元々は、鴨川の河川敷にあったものだが、江戸時代、角倉了以が高瀬川を開削するとき地中から、「秀次悪逆塚」と刻まれた空洞の石塔が発見された。発見されたと言っても、処刑されたのはわずか20年ほど前の事だ。しかし、秀吉政権下であれば供養するには相当遠慮があったと思われる。妻妾、子供39人がことごとく斬首された上に、切腹さされた家臣10名と、合計50名に登るものの処刑が、ここ三条河原で実施されたのである。京都人の頭の中に鮮明に記憶されたはずである。そのお寺は、鴨川と高瀬川を挟む木屋町通りにあり歩いていても、見逃してしまうくらいひっそりとしている。門を入って5メーターほどして右に折れると、先ほどの「供養塔」が、東向きに立ち、手前には一族全員の供養塔(五輪の塔)が、立っている。近世になって、秀次の謀反には疑いをとなえる説が多くなり、今では線香が絶えない。それでも訪れる人は少なく、狭い境内だけにどこからか霊気が漂う。特別拝観日には、「高野山で自刃した秀次像」や「処刑されたご一族の真影」が見られる。
これほどの大規模な処刑は、信長に謀反して有岡城(伊丹城)に立てこもった荒木村重の時以来だ。信長は、なんと122人の女房衆を公開にて処刑した。しかし、これは明確に反旗を翻した上に、籠城1年に及ぶ戦いを仕掛けたのである。因みに黒田官兵衛(孝高)はこの時、説得に行きそのまま牢獄に幽閉され足を萎えさせた。一方、秀次は、謀反の意志が明確でなく、その形跡もない。それでも、秀吉は、秀頼可愛さで皆殺しにしてしまったのである。晩年の秀吉に人気がないのは、そのあたりが原因だ。近年の研究で、老人性躁うつ病と考えられているが、平たく言えば、燃え尽き症候群からの「ぼけ」であろう。ぜひ秀次の復権の為、彼の功績を見直す研究が進められることを望む。

・おすすめコース
木屋町通り二条~四条まで 散策しながら1時間ほど

木屋町通りを、二条通りあたりから南に向いて散策すると見どころは多い。まず、日本銀行京都支店の裏手には、島津記念館がある。言わずと知れた島津製作所の歴史記念館である。そこから南に、高瀬川一の舟入跡。吉村寅太郎寓居跡。佐久間象山・大村益次郎遭難の地などが続く。そして三条通りを越えて瑞泉寺の西方に、竜馬が拠点にしていた「酢屋」が残っている。因みに酢屋は、材木商である。近くには、竜馬の妻お龍の寓居跡もある。蛸薬師通には、土佐稲荷、通称岬神社があり、ここは勤王の雄藩、土佐藩邸のあった場所だ。このように、木屋町周辺は幕末の激動の時代の史跡が多く残っている。ゆっくり歩けば何気ない街角に石碑が立っていたりして、新しい発見が期待できる。