アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

413 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 (今から行ける)㉙ 八朔

2018-07-31 08:30:10 | 日記

81日 八朔

「八朔祇園」の画像検索結果

明日は、祇園花街界隈では黒紋付で挨拶周りをする芸舞妓の姿を見る事が出来る。「おたのもうします。」と御茶屋の家々を回って歩くのが、八朔の風物詩だ。

「八朔祇園」の画像検索結果よろしゅーおたのもうします

八朔は、もともとは「田の実の節句」という。田んぼの稲に実が付きだす頃である。んん?ちょっと早い?本来の八朔は、旧暦なので現在の8月末から9月始めの行事だ。昔農家では、最初にできた田の実をお世話になった家に配り挨拶をする習わしがあったようだ。田の実(たのみ)が、頼み(たのみ)に通じるのだと言われている。

「田のみの節句」の画像検索結果

祇園花街では、八朔は頼みの節句である。真っ黒に身を固めているが涼しげな紋付き姿には矜持を感じる。


八朔を調べていると、奇祭を見つけた。福井県と京都府の県境にある新庄町では、八朔には天狗が出てきて各町内を練り歩き、何と男根に似せた彫り物を振り回し女性を見つけると突き付けて押し付けて来る。その女性は子だくさんに恵まれると言う。子孫繁栄と五穀豊穣は民衆の切実な願いであったのだ。今のように子作りを奨励する事で批判される世の方が異常な事なのだ。

「福井八朔祭り」の画像検索結果

その男根を「神棒」という。写真を見たがその生々しさが凄い。色も形も反り具合も・・・・・。従って読者の想像に任せる方がいいだろう。幸い祇園花街には「神棒」は出て来ない。ご安心を・・・・。

因みに、ミカンの一種。はっさくは、この時期に出来る果物である。

「八朔」の画像検索結果



412 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 (今から行ける)㉘ 愛宕神社 千日詣り

2018-07-30 08:22:52 | 日記

731日 愛宕神社 通夜祭

「愛宕神社千日参...」の画像検索結果「愛宕神社千日参...」の画像検索結果

京都には、千日詣でという便利な日がある。その日にお参りすれば千日参ったのと同じご利益があると言うのだ。誠に都合の良い話だが、この日愛宕山には大勢の老若男女が登山する。

「愛宕神社」の画像検索結果最後心臓やぶりの石段

筆者は一度だけ昼間登った事があるが、ハイキング気分では相当後悔する。最後の石段が残りのエネルギーを完全に奪う。京都の西北、愛宕念仏寺の横の隧道をくぐり清滝口から登るのが表参道だ。

「愛宕山」の画像検索結果

標高は924mなので、828mの比叡山よりも高い山なのだ。古くから「火伏の神」で有名だった為、「お伊勢七たび、熊野にゃ三度。愛宕参りは月参り。」と、度々登る信仰の山だった。従って、大正時代から戦前まで何と山上に遊園地があった。嵐山から鉄道もあり、ケーブルカーもあった。それほどの山だが、六甲山や比叡産のように大きな観光地にならず、今はこの「通夜祭」を中心に賑わう。

上方落語のネタにも「愛宕山」という話があり、大阪北新地で飲んだ旦那衆が愛宕山に繰り出すという場面が出て来る。また京都の人は、子供が出来ると3歳までにお参りするとその子は一生火難に合わないとも言われている。その様に庶民に根付いた信仰のお山だった。

「落語愛宕山」の画像検索結果落語「愛宕山」

さて、731日夕刻から登る通夜祭では、参道には山上まで裸電球に照らされ安心して登れるようになっている。そして京都らしいのは、登る人には、「おのぼりやす」降る人には、「おくだりやす」と互いに声をかける。その事でしんどくても元気が出るのである。

「愛宕山 千日参...」の画像検索結果3歳の子は歩かない「愛宕山 千日参...」の画像検索結果

もう一つ、明智光秀は本能寺の変の直前、ここに参篭して籤を引いている。3度「凶」を引いたが謀反の決意をしたと言う。その後の歌会で詠んだ光秀の歌。「時は今 雨がしたしる 五月哉」光秀の本家土岐氏再興の思いを、「時(とき)」に掛けた決意の歌と言われている。再来年の大河ドラマは、「明智光秀」だ。今から楽しみだ。

「愛宕山 光秀」の画像検索結果「愛宕山 光秀」の画像検索結果


411 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ㉗ 狸谷不動院 火渡り祭

2018-07-28 08:50:05 | 日記

7月28日 狸谷山火渡り祭

護摩壇の檀木①

左京区一乗寺の「狸谷不動院」で行われる行事である。狸谷不動院は、桓武天皇が都を開くに当たり鬼門のこの地に、不動明王を安置した事に始まる。不動院の開祖は木食正禅。因みに、木食とは苦行の一つ十穀絶ちを行った僧のことを言う。当然米や麦、粟稗など十穀を食べないだけではなく、その上で比叡山を巡る難行・苦行を行うのである。食するのは木の根や実などしかなく「木食」とはまさに断食に近い。中には即身仏(ミイラ)になる為に自分の体から脂肪分を完全に取り去る目的でもあった。死後腐敗しにくくする為だ。そこまで行かなくても断食行を達成した修験僧を特に「木食上人」と呼ぶ。

「木食修行」の画像検索結果

その一人木食禅正が、江戸時代に狸谷不動院として創建した。左京区修学院の奥、瓜生山の山沿いにある。詩仙堂の門前をかすめるように急な坂道を登り本堂まで20~30分かけて登る。本堂は崖造り(舞台造り)で、清水寺の本堂と同じ構造だ。見上げるような本堂に向かい最後の階段を登る。

本日開催の火渡り祭は、夕刻巨大な護摩壇に火を付けて修験僧が数々の秘法を施し、その上を最後に火伏のまじないを行い素足で渡る。願うは無病息災だ。その後1000名を超える一般人が次々に火渡りを行う。(やけどしないのか?)

火渡り



以下の写真と文章は、筆者が本年正月の「初不動」のお参りに行った時の事だ。(当時のブログから)

御所の鬼門に当たるこの界隈には、霊験強力な寺院が多く鬼門封じを勤めている。

「赤山禅院」では猿をまつり鬼門を封じているが、ここは狸様だ。

狸谷は、300年の歴史を誇るが、大本は桓武天皇が鬼門の地に不動明王を配した事に始まる。秋里離島の「都名所図会」の続編

「拾遺都名所図会」に出て来る「狸谷石不動」というのがここだ。

木食上人が、石像の狸谷不動明王像を、この地の石洞窟に安置したことに始まる。

木食上人は、泉涌寺で出家した後、熊野大社で修行し大権現を感得したと言われる。

狸谷山修験道の起源である。確かに、山の奥には岩が迫り、ふもとから本堂にたどり着くのにはハイキング気分では行けない。

 

本殿は、懸崖造り。清水の舞台と同じ構造だ。こちらは飛び落ちると確実に死ぬ。

 

1月28日は初不動の日。

がん封じに「笹酒」がふるまわれる。運転者には持ち帰りが用意されていた。

 

京都3初参り?

初天神・初弘法・初午大祭・初庚申・初恵比寿・初阿弥陀?これはあったかなあ?

 

そして、7月28日には、火渡りの祭りが行われる。一般の方も火渡りが出来る。

 「火渡り」の画像検索結果「火渡り」の画像検索結果これは火炙りの刑だ。

 

さて、車で行こうとして大渋滞に巻き込まれた。

しかし様子がおかしい。下の詩仙堂の駐車場において徒歩にて向かう。

すると、消防車や救急車が止まっていて、騒然としている。

誰かが、山上で体調を悪くした様だ。残雪残る参道の石段を慎重に登ると、

向こうから大勢の消防隊員が、大声で呼びかける。道を開けるように言っている。

急な石段だ。しかも雪道。隊員たちはアイゼンを装着している者もいる。

担架が見えて来た。慎重に慎重に降りて来る。参詣客たちは足を止めて様子を見る。

運ばれるのは、相当なご老人だ。顔色が悪い。とても悪い、失礼ながら生きているのか?

あとから心配そうな老婦人。

極寒の京都のお寺参りは、くれぐれも慎重に・・・・。お不動さんのご加護をあの老人へ、と願う。

 

※数少ない読者の意見

「歳時記は良いけど終わった後を読んでも意味がない。事前の情報を書いてくれ。」

承知しました。


410 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ㉖ 真如堂 虫払定

2018-07-27 07:54:41 | 日記

7月25日の行事をもう一つ書く。

真如堂(真正極楽寺)虫払定(むしはらいのさだめ)

Shinnyodo.jpg

真如堂は1000年以上の歴史を持つ天台宗の寺院だ。特に女性からの信仰が篤く、不断念仏の道場として庶民の崇敬を得ていた。京都の寺院はほとんど応仁の乱で焼失し、秀吉の政策で場所を変えるが、真如堂もその典型である。現在の地に落ち着くのは江戸時代元禄の世である。五重塔を含め当時の建造物である。

御本尊は立像である。写真はない。

「うなずきの阿弥陀」と呼ばれる御本尊は、慈覚大師円仁が、一彫りごとに3度拝んで彫ったもので、「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言えば首を横に振り、「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言えば3度うなずいたと言う。

「三井家菩提寺」の画像検索結果重森三玲「三井家菩提寺」の画像検索結果高利の墓

また、三井高利を祖とする三井家の菩提寺である。三井の井桁の紋があるお堂がある。

紅葉の名所で、隣の金戒光明寺から一帯は多くのひとが訪れる。

「曝涼」の画像検索結果雨天中止(当たり前だ)

さて、虫払定。大徳寺では「曝涼」という。一般庶民では、虫干し、虫払い、土用干し・・・・。要は梅雨の間についた害虫やばい菌を、梅雨明けのこの時期に日に晒して日光消毒するのである。しかし、これが国宝級の寺宝を持つ寺院なら、普段目に出来ないお宝を蔵から出して一般人が拝見できるチャンスになる。

「虫払定真如堂」の画像検索結果「虫払定真如堂」の画像検索結果薬湯(びわ湯)授与所

神護寺の有名な「似せ絵」(伝源頼朝像など)はこの機会しか実物は見れない。

ここ真如堂では、名物びわ湯を接待してくれる。

 

 


409 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ㉕  安楽寺 鹿ケ谷カボチャ供養

2018-07-26 09:08:31 | 日記

7月25日 鹿ケ谷安楽寺 カボチャ供養 

AnrakujiWP.jpg「カボチャ供養」の画像検索結果

左京区鹿ケ谷の安楽寺では、夏のこの時期にカボチャを炊いてふるまわれる。それは中風除けとも言われる。京都では、大根焚きとか、こんにゃくなど炊いてふるまう行事が多い。

img_6358.jpg鹿ケ谷カボチャはひょうたんのような形だ

いずれまとめて見たいと思っている。さて、安楽寺は「鈴虫松虫寺」とも言われる。なぜか?


法然が始めた浄土宗は、一般庶民を巻き込んで爆発的に広まった。その後の親鸞聖人の浄土真宗につながる専修念仏の考えは庶民には、真言宗のように苦行修行を強制されない為一気に広まった。比叡山は再三圧力を加えるが止められず、遂には幕府や朝廷も禁止の方向に傾く。その後の歴史上で「一向一揆」など政権を揺るがすことを予め懸念したと思われる。時代は後鳥羽上皇の時代、上皇の熊野詣での留守中に女官である鈴虫松虫の二人が、安楽寺の住連坊・安楽坊の二人のもとで出家した。

「鈴虫松虫」の画像検索結果二人の出家の様子

二人の僧は法然の直系の弟子で声明に長けていたと伝わる。つまり若く男前で良い声だったのである。出家した女官二人は、上皇帰洛後、直ちに呼び戻され僧二人は処分された。出家意外に密通の疑いもかけられたのだ。鈴虫・松虫という屈辱的な名前もその為に改名されたと筆者は想像する。

「声明」の画像検索結果

後に、建永の法難と言われる大事件で、法然と親鸞も遠島とされ浄土宗最大の危機を迎える。住連坊・安楽坊の二人は死罪となるが、その前に「羅切」という刑を受けている。羅切とは字の通り男根を切る事である。中国の宦官とはやや違う。宦官は皇帝の近くで仕える為、女性と性交出来ない様に睾丸共々切除する。羅切は陰茎のみ切断する事で刑罰の為に行われる。日本でも仏教の修行の為、どうしても私欲に勝てず自ら羅切を行う僧はいたらしいが、実際は男色に走る事が多かったようだ。羅切はそれも出来ないので刑罰として相当行われたようだ。

死罪の直前に羅切を行うのは相当な怒りを買ったものと思う。その後法然は亡くなり親鸞が許されて京都に浄土真宗を始める事となるのはまだまだ先の話だ。

「法然・親鸞」の画像検索結果

安楽寺の山号は「住連山」という。ちゃんと安楽坊・住連坊の名前が残っている。当時は鹿ケ谷草庵と言って名もない念仏道場であった。