後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔682〕映画「かづゑ的」を観て心震え、『長い道』(宮﨑かづゑ、みすず書房)読んで心に落ちました。

2024年04月21日 | 映画鑑賞

   映画「かづゑ的」の主人公は、瀬戸内海の長島にあるハンセン病療養所長島愛生園に70年以上暮らす宮﨑かづゑさんです。冒頭から圧倒されるシーンに遭遇します。かづゑさんは、私のすべてをさらけ出したいので、入浴シーンを撮って欲しいと言うのです。監督であるインタビューアーはためらいつつそれを実行することになるのです。
  ハンセン病後遺症に悩むかづゑさんは、しかしながら、明るく豪快に生き抜いているように私には映りました。実に清々しい映画です。鑑賞をお勧めします。 
 鎌田慧さんは東京新聞の「本音のコラム」にも紹介されていましたし、朝日新聞でも映画評が掲載されていました。


■ 「私、みんな受けとめて、逃げなかった。」(映画「かづゑ的」公式サイトより)

瀬戸内海にある国立ハンセン病療養所、長島愛生園。

宮﨑かづゑさんは10歳で入所してから約80年、ずっとこの島で生きてきた。病気の影響で手の指や足を切断、視力もほとんど残っていない。それでも、買い物や料理など周囲の手を借りながらも自分で行う。

「本当のらい患者の感情、飾っていない患者生活を残したいんです。らいだけに負けてなんかいませんよ」と力強く語るかづゑさん。患者同士のいじめに遭い、つらかった子ども時代。家族の愛情と、たくさんの愛読書が、絶望の淵から引き上げてくれた。そして夫の孝行さんと出会い、海沿いの夫婦寮で自然とともに暮らしてきた。

かづゑさんはいつも新しいことに挑戦している。そしてどこか可愛いらしい。78歳のときにパソコンを覚え、84歳になって初の著作となる『長い道』(みすず書房)を出版。類まれな表現力で日常を瑞々しく綴り、版を重ねている。

90歳も半ばになったかづゑさんは言う、「できるんよ、やろうと思えば。」

●熊谷博子監督メッセージ

宮﨑かづゑさんは、私が初めて会ったハンセン病の元患者さん(回復者)でした。
信頼する知人に、会わせたい人がいるからと、半ば強引に長島愛生園に連れていかれました。10歳からハンセン病療養所で生活している、という人に。その日々の暮らしを描いた著書「長い道」を会う前に読み、大変心をうたれました。かづゑさんの部屋で話しながら、この人生を撮って残しておかねばと心に決め、2016年から愛生園に通い始めました。それから8年間、私たちはカメラとマイクを携えて、かづゑさんの人生に伴走することになりました。この映画はハンセン病を背景にしていますが、決してハンセン病だけの映画ではありません。人間にとって普遍的なことを描いたつもりです。                             

    映画「かづゑ的」を観たのは昨年末のことでした。
  そして、先頃、宮﨑かづゑさんの著書『長い道』を読むことができました。2012年発行、2019年6刷となっています。

●みすず書房(公式サイトより)
著者は1928(昭和3)年生まれ。10歳で瀬戸内海に浮かぶ島、長島のハンセン病療養所長島愛生園(現・岡山県瀬戸内市)に入園、以来70年余をこの地で暮らす。22歳で療友と結婚後は園内で働く夫を主婦として支え、様々な後遺症を持ちながら、家事と読書を楽しんで慎ましく暮らしてきた。
「本は親友だったけれども、自分が書くなんて思ってもみなかった」が、80歳を迎える頃から習いおぼえたワープロで少しずつ、瑞々しい文章を生みだしていく。
家族の愛情に包まれて過ごした幼少期。発病によって故郷を離れ、孤児のような気持ちで過ごした少女時代。『モンテ・クリスト伯』を読みふけり、大海原に心遊ばせた十代。夫のために料理をし、ミシンをおぼえ裁縫に精出した日々。心の支えだった親友の最期。遠い道のりをいつまでも会いにきてくれた母への思い。
故郷の暮らしを細やかに綴った「生まれた村で」、長島での日々を語る「島の七十年」(聞き手・伊藤幸史神父)、親友の看取りの記「あの温かさがあったから生きてこれたんだよ」(『愛生』連載)他を収録。

著者の生き方と言葉に深くうたれ、交友がはじまった料理研究家・辰巳芳子さんとの対談「生きなければわからないこと」を巻末に付す。


  数多くのメディアで取り上げられたのも納得がいきます。80歳過ぎてからワープロを駆使して綴られた実に瑞々しい文章です。ハンセン病という名称にはなじめないと書かれていたり、長島愛生園の初代園長・光田健輔氏に向けられた批判への違和感なども読めて興味深かったです。こちらも一読をお勧めします。


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